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声と手のひらそれから笑顔


   
12.どこに行こうか。(9月中旬)



『どこに行こうか』
 と、照れたように覗き込んできた雅巳をふと、思い出した。
 顔を上げると教室の中、教師が黒板を示してなにかしゃべっている。……授業中、だということを、思い出した。開いている教科書は数学だった。時計を見ると、四時間目、だった。
 開いているノートは白紙だった。黒板を写さなければ、と思ったのは、一瞬だった。
 一度手にした筆記用具を、しばらく弄んで、手放した。教師の声は佳乃子の耳には届かない。窓の外を見ると、残暑のもと、体育の授業をしている他のクラスの生徒がいる。
 今日もまだ暑いな、と思う。暑さに、雅巳と最後に手を繋いだあの日を思い出す。
 父に雅巳との付き合いを反対され、雅巳に会えなくなった。我慢できずにベランダから飛び降りた。小さな頃は兄がよくそうしてくれたように、あの日は雅巳が、受け止めてくれた。
 あの日からもうひと月、佳乃子は雅巳に逢っていない。登下校には家から車を出され、家に帰れば部屋から出られない。ベランダの下には見張りがつくようになった。携帯電話は取り上げられてしまった。
『私はおまえが見つけた友人に口を出すつもりはない。けれどおまえの付き合うべき相手は、おまえがひとりで決めていい問題ではない。いずれ然るべき相手を私が見つける。それまで自重しなさい』
 ……父が、なにを言っているのか、わからない。
『もう……見つけました』
 ……見つけた。
 あの人を、見つけた。
 あの人に、自分を見つけてもらった。
 他の人など、いらない。
『彼でなければ意味がないとでも?』
『そう、だと言ったら、信じてくれますか』
『もちろん、信じる。けれどそれは今ひとときの感情でしかないのだよ、と私にはおまえに忠告しなければならない義務がある』
『……ひとときの、感情だと、思いますか?』
『そうに決まっている』
『ひどい……』
『ひどいのはおまえだよ。娘のおまえが、私の言うことを聞かない』
『だって……っ』
『なんだい?』
 佳乃子は胸元を押さえた。
『お父様の言葉は……お父様がわたしを心配している言葉に、偽りはないのだと思います。でも……』
 でも、どうしても。
 胸が、痛むのは。
 心がこんなに拒絶をするのは。
『間違っているのは……お父様です』
 それきり、父とは口をきいていない。
 あんなふうに反抗したのは初めてだった。ひどいことを言った。ひどく傷ついた顔をした。あんな父を初めて見た。
 あれ以来言葉を交わさないのは、顔も会わせないようにしているのは、もうあんな父の顔を見たくないからかもしれない。
 あんなふうに、自分の心を傷つけられるのが怖いからかもしれない。
 それとも単に、自分を否定する父が憎くて許せないだけなのかも、しれない。
 どうして分かってくれないの? と、父も、思っているだろうか。
「かーのーこーちゃん」
 肩を叩かれて見向くと、桃香の大きな目が覗き込んできた。
「授業、終わったよ?」
 佳乃子は驚いて瞬きした。
「え……チャイム……」
「鳴った、鳴った」
「そ……です、か」
「そーですよ。お弁当食べよ? 教室? 屋上? 中庭? それとも食堂?」
 どうする? と聞かれて、どうしましょうか、とのんびり返す。気が付いたらお昼、だったので、あまりお腹が減っていない。最近はこんな調子で、あまりお腹がすかない。自分のからだが、動いてる気がしない。止まってる気がするから、エネルギーを消費した気が、しない。
 吐息をすると、桃香に頭をぐりぐりと撫でられた。
「最近、佳乃子ちゃんホント食べてないんだから。ちゃんと食べよう? プリン、作ってもらったんだよ。これなら食べる? どこで食べる? どーする?」
「……はい、あの」
 桃香は佳乃子を心配している。わかっているから、佳乃子は返事をしようとする。
「じゃあ……」
 と言いかけたところで、
「どうするもこうするもないよ」
 頭の上から、少し困ったように笑う声がした。
 ふたりして見上げると、享が、母親の手作りらしい巾着袋に入った弁当片手に立っていた。
「このお昼にでも決めようって言ってたのに。忘れたの?」
「なにを?」
 桃香が聞き返すと、家柄も成績も優秀なクラス委員長は困った笑顔を困った笑顔のままかためた。
 かためてしまったので表情が読めない。
 読めない表情のまま、享はふたりを覗き込んだ。
「うん、まあね、忘れてるんじゃないかとは思ってたけどね」
 享がにっこり笑う。
「だから、なにを?」
 桃香もにっこり笑った。
 享はさらににっこり笑った。
「どこに行こうか、って話しなんだけどね」
 ……どこに、行こうか。
「え……?」
 過剰に反応した佳乃子に、桃香と享の視線が向いた。佳乃子は慌てて、なんでもない、と答える。
 なんでもないわけがない、という事は桃香にも享にもわかった、けれど……。
「今度の美術の授業、どこの景色の写生をしたいか、グループごとに決めておくことになってたの、覚えてない?」
「あ」
 と、桃香は思い出す。佳乃子も、思い出した。
 まずそこまで思い出してくれたことに安心して、享は適当な席に座り込んで弁当を広げ出す。なんとなく、桃香もそれに習う。
「私、山の方がいいな。どこか、高原とか。海も捨てがたいけど、青い空に青い海、じゃ、ねえ」
「絵にするのは難しそうだね」
「でしょ?」
「じゃあ、山でいいかな?」
 佳乃子は、つと校舎の窓から空を見上げた。
 そんな佳乃子を桃香が勘違いをする。
「あれ、佳乃子ちゃんは青い空に白い雲の青い海がいい?」
 佳乃子は驚いて振り向いて、控えめに首を振った。
「……いいえ」
「あ、じゃあ、今度のデートが海?」
 いいえ、と答えようとして、佳乃子はまた空を見た。享が羨ましそうに、
「海、いいね。女の子は白いワンピースに白い帽子だったりすると、すごくいいよね」
「……うわ、オヤジ趣味」
「え、そう!?」
「ついでに浜辺で追いかけっこ、とか言わないでしょうね? ……って、言いたそうっ。オヤジだっ」
「え、いいと思うけどな」
「いいかなあ?」
「男のロマンかな?」
「享くんのロマンでしょ?」
「そうとも言う」
 ふたりがおかしそうに笑うのに、いつの間にか佳乃子も笑っていた。
 笑う佳乃子に桃香が安心したように、
「佳乃子ちゃん佳乃子ちゃん、海なら電車だね」
 学校での移動は海でも山でもバスが出る。
「……電車?」
「そう、電車。お家から車を出してもらうのはヤボでしょ? だから電車。いいね、楽しそうだね」
 ……海に……電車に乗って……。
 そんなことを考えて、心の中で、雅巳さん、と呟いた。
『どこに行こうか』
 と、雅巳はまた聞いてくれるだろうか?
 多分、聞いてくれるはずだった。そんな話をしたことを佳乃子が覚えているように、雅巳も覚えているはずだった。
 どこに行こうか、と聞かれたら、海に、行きたいと答えよう。
 一緒に電車に乗って、行こう。
 一緒にいたい、と思うのは、ひとときの感情なんかじゃない。この先、ずっと続く感情だから。
 ずっと、ずっと……。
 今は、そのずっと続く時間の中のほんの少しの「逢えないでいる時間」に違いないから。
「ところで、山口さんの恋人はどんな人?」
「えー、ちょっと聞いてよ、これがなかなかの美人女優さん」
「ええ!? 女性!?」
「女性役もこなす舞台俳優さん」
「うわ、びっくりした」
「やった、びっくりした? そうそう、それでね……」
 興味津々の享には、なぜか桃香が楽しそうに答えている。
 佳乃子はふたりの会話を聞きながら、桃香からもらったプリンを、ひとくち、またひとくち、とゆっくり食べ始めた。



12.どこに行こうか。おわり


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