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声と手のひらそれから笑顔


   
10.ダメだよ。(10月中旬)



「ダメだよ」
「……でもっ」
「ダメって言ったらダメです。そこから入って来ないでください」
 一歩、進めば雅巳は雅巳のアパートの部屋から出る。
 一歩、進めば、佳乃子は雅巳の部屋に入る。
 そんな場所でふたり、対面して、開いたドアを支えているのは雅巳だった。佳乃子はちょこんと、申し訳なさそうに首をすくめて、助けを求めるようにそっと後ろを振り返る。
 佳乃子の視線を受けて、
「なーにがダメなのよ」
 顔を出したサチに、雅巳は、なんだ、という顔をした。
「アナタが一緒でしたか、ソーデシタカ」
 わざとらしく見下した言い様に、
「うっわ、ムカつく。わざわざ、わざわざ! 佳乃子ちゃん、連れてきてあげたってのにぃ」
「頼んでないだろ」
 苛ついたように、雅巳は心の底から言う。低い声に、佳乃子は雅巳を見上げた。
「……雅巳さん?」
 どうして、そんなに怖い声を出すのか、佳乃子にはわからない。
 久しぶりに……本当に久しぶりに会うのに。
 不安な顔をする佳乃子に、雅巳は吐息した。
「佳乃子さん」
「……はい」
「また、ベランダから抜け出してきたんですか?」
「いえ、あの、今日は……」
 サチが横から口を出す。
「だから、あたしが連れ出したんだってば」
「どうやってだよ、そんな簡単に……っ」
 そんなに簡単に連れ出せるのなら……っ。
「ちょっと、佳乃子ちゃんの先輩を装ってみました」
「おまえが佳乃子さんの先輩?」
「その心の底から疑わしそうに言うのやめてよ。事実、今ここに、ほれこうして佳乃子ちゃんがいるでしょ」
 サチは雅巳と変わらない身長から佳乃子の髪をぐりぐり撫でる。
「女の子をいつまでもこんな涼しーところに立たせてないで、さっさと中に入れなさいよ」
 雅巳はサチから目を逸らし、佳乃子を見る。
 佳乃子が見上げた雅巳は相変わらず機嫌の悪そうな目をしていて、佳乃子は思わず目を逸らす。そのまま俯く佳乃子の背中をサチが押した。
「ほら、佳乃子ちゃん。もう知ってると思うけど、やっぱりいつまでたっても狭くて汚くてむっさい部屋ですがどーぞ」
「……おまえが言うな」
「言い辛いと思って代わりに言ってあげたのよ。ほら、ほら。特番放送開始まであと一時間。あたし飲み物でも買ってくるから、ね」
 サチはひらひら手を振ると、アパートの通路から駐車場を抜けて行った。
 佳乃子と雅巳は、ぽつん、ぽつん、と相変わらずアパートの入口の、外側と、内側で。
 佳乃子は俯いたまま、涙を溜めていた。少しでも動くと溢れて零れそうで動けない。だから顔を上げられない。雅巳が、なにがそんなに気に入らないのか、わからない。
 ふたりが逢うのは、あの夏の日以来だった。真上から厳しく照らしていた太陽は季節と共に傾いてしまった。あの暑さを思い出そうとしても思い出せない涼しい季節になってしまった。雅巳の気持ちも、季節の移り変わりと共に冷めてしまったのだろうか。
 そんなところまで考えて、涙が溢れて足元に落ちた。肩が震える。しゃくりあげる声を漏らしたくなくて口元に持っていこうとした手を。
 鈍く響いた音と一緒に掴まれた。
 鈍く、響いた音は、どんな音だった?
 手を掴まれた音だったのか。
 アパートのドアが閉まった音、だったのか。
 それともきつく抱き締められた音だったのか。
 すぐ、耳元で、雅巳の声がした。
 ここはドアの、内側。
 鈍く響いた音は、ドアに鍵をかけた音。
 カチャン、と響いて、ふたりだけになった。
 きつく、きつく抱き締められて。
 逢いたかった、と言うので、逢いたかった、と返した。
 こちらの名前を呼ぶので呼び返した。
 何度も何度も、好きだ、と言うので、好きだと、返した。
 声は唇に触れて、頬に触れて、目元に触れて、額に触れた。
 声は耳に触れて、あごに触れて、首筋に落ちていく。
 胸元にまで落ちたときに、
「……雅巳、さん……っ」
 呼んだ声で目が、合った。
 もう一度、雅巳さん、と言いかけた唇を塞がれた。いつものように触れるだけだと思った。重なるだけだと思った。
 いつもよりもずっと深く、こじ開けるように中まで進入されて、佳乃子はきつく目を閉じた。
「……んっ……ふ」
 雅巳の、その感触に漏れた声に、雅巳から漏れた声も重なった。
 重なって、わからなくなる。
「…………っ」
 今、漏れた声はどっちの声?
 今、漏れた吐息はどっちの吐息?
 いつになったら終わるのかわからないキスから佳乃子は逃げようとするけれど、雅巳は逃がさない。佳乃子の頭を自分の手の平でかばうようにしてドアに押し付ける。佳乃子には逃げ場がない。
 眩暈がするのは、呼吸をする暇もないキスのせいなのか、それとも……。
 ……でも、それもいい、このままこうしてずっと雅巳の腕の中にいたいと、思ったとき。
 雅巳の手が佳乃子の胸に触れて、佳乃子は目が覚めたように悲鳴を上げた。きゃあ、と、かわいらしく。
「…………あれ」
 かわいい悲鳴に、雅巳も目が、覚めた。
 目が覚めた雅巳の足元で、佳乃子は胸元を押さえて座り込んでいた。
 自分の行為を思い返して、ずるずると、雅巳も座り込んだ。
「……あの、佳乃子さん」
「は……はい……っ」
 佳乃子は顔を真っ赤にする。雅巳もつられたように赤くなる。
「すみません。謝りますから、そんなふうに、痴漢に遭ったような顔をしないでください」
「そんな……思ってませんっ」
「じゃあ、びっくりしただけですか?」
「……はい」
「気持ち……悪く、なかったですか?」
 イタズラを叱られたこどものように覗き込んでくる雅巳の親指が、佳乃子の唇に触った。
「その、ムリヤリ……すみませんでした」
 雅巳も、佳乃子も、深いキスを思い出して、
「……あ、あの」
 佳乃子は答え辛そうに、実際、答えたくないように沈黙した後、雅巳と目が合って、嘘を付けないように、はい、と言った。
「気持ち悪く、ない、です」
 そう言った自分にさらに顔を赤くする。
「あの、こんなわたしは、はしたない、ですか?」
「……はした……」
 最近とんと使うことも聞くこともない言葉に雅巳は堪えきれずに笑った。
「それは俺ですよ。確か初めて佳乃子さんにキスをしたときも無理矢理、でしたね」
「いえっ、あの……」
 思い出して、恥ずかしそうにうつむいた佳乃子は、
「でも……」
 と口にした雅巳に顔を上げた。なんです? と聞くと、雅巳は自分の手を、眺めた。
「見てください。佳乃子さんに触った手です。気持ちよくて、離したくなかった。もっと、全部、触ってみたいんです。全部に触って、そしたら全部、俺のものになるかな、と、考えるんです」
「……全部、ですか?」
「ええ、あなたの意思などおかまいなしに。俺のものしたら二度と手放さないのに、と。あなたに逢えなくて、そんなことばかり考えていて、少し、おかしくなっていました。ぎりぎりだったんです。突然現れたあなたに、わざわざ俺にめちゃくちゃにされに来たのかと、腹を立てるほどに」
 初め、雅巳が苛ついているように見えたのは、
「あなたを、ばかな人だ、と思ったんです。わざわざあなたから、俺のものになりにきたのか、と。あと一歩でも俺に近付いたら……そう思って警告しているのに、あなたは帰ろうとしないから」
「……雅巳さん」
「さすがに、俺に呆れましたか?」
「あの、わたし……あなたに全部を差し上げる事はできません」
 雅巳は見開いた目を、納得したように細めた。
「それは、そうですね」
 どこか諦めたように呟くのを、佳乃子は真っ直ぐに見た。真っ直ぐに、はい、と答える。
「全部は、差し上げられません。わたし、雅巳さんを、好きです。……知って、いますか?」
「……はい」
 なぜだか驚いたような顔をする雅巳に笑いかけながら、
「この気持ちだけは、差し上げることはできないんです。大切、なんです」
 大切なわたしのものです。そう続けた。
 雅巳は佳乃子を抱き締めた。優しく、壊れ物を扱うように。
「では、いつか、その気持ち以外のあなたをください。いい、ですか?」
「は、い」
「全部に、触りますよ? そのときは逃げないでくださいね」
「……ど」
「ど?」
「……努力、します」
 小さく小さく佳乃子は雅巳にだけ呟いた。



10.ダメだよ。おわり


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