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声と手のひらそれから笑顔


   
09.すごいね。(5月下旬)



「すごいね」
 ぽつり、と呟いたのは無意識のようだった。
 すごいね、という声が聞こえたから見向いたのに、佳乃子はそんな桃香には気が付かずに、真剣に舞台を見ている。
 瞬きも忘れて見入っている佳乃子に、桃香はちょんと肩をすくめた。
『……舞台のチケットを、もらった?』
『はい、だから、よかったら一緒に見に行きませんか?』
 佳乃子がそんなことを言い出したときは、いったい何事かと思った。佳乃子が舞台に興味があるなんて話は今まで聞いたことがない。
『って、それ、ただのナンパじゃないの?』
『違いますっ』
 大声ではない。けれど思わず荒げた声を、佳乃子は恥ずかしそうに飲み込んだ。
『ひと月ほど前に、助けて頂いたんです。……助けてくださるような方が、いい加減なことをするとは思えません』
『助ける? 痴漢に遭った、やつ? 珍しく、というか私の知る限り佳乃子ちゃんが初めて遅刻したあの日? 助けてくれたって、確か、綺麗な女の人だった、って』
『はい、桃香さんのお姉さんのように、お綺麗で凛々しい方でした』
『うちの姉さんは武道マニアだから……って、じゃなくて、あ、じゃあ、舞台って……女優さん? ナンパじゃなくて、ご招待?』
『いえ、男の方、でした』
『……はい?』
 わけのわからない顔をした桃香を、佳乃子は楽しそうに見た。
 佳乃子も、このチケットをもらったとき、そんな顔をしたはずだった。
 再会した平沢雅巳さんは、憧れの桃香の姉のような素敵な女性ではなく、男性、だった。
『佳乃子さん、でしたよね?』
 と駅で声をかけられた。佳乃子はまだ痴漢に遭ったことを忘れていなくて、駅にいた男性はみんな、少し、怖かった。だから雅巳に声をかけられて、思わず一歩、逃げるように退いてしまった。
 怖いと、思った。
 けれど、その後、しどろもどろに事情を説明する雅巳には、失礼だと思いつつ笑ってしまった。男だと言えなくてすみません、と何度も何度も謝るから。
『あなたも、謝ってばかりです』
 助けてもらったあの日に言われた同じ言葉を返したら、雅巳も、やっと笑った。その笑顔に、なぜかひどく安心した。
『わたしを助けてくれたのに、わたしが言うお礼よりも多く謝ったりしないでください』
 すみません、とか、ありがとうございました、とか。ぺこぺこと頭を下げ合うふたりの姿は駅のホームで浮いていたに違いない。


「……すごい」
 と、舞台を見つめて佳乃子は繰り返す。
 小さな舞台だった。
 佳乃子たちの通う学校の講堂の半分しかない、市民会館で。
 狭いという状況を差し引いても、舞台に立つ彼らの声は凛と響く。
 もっと名の知れた舞台監督や脚本家や役者が作る豪華な舞台衣装や華やかな照明に飾られた芝居を、佳乃子たちは授業の一環で何度か見た。それよりも素直におもしろいと思えたのは、もしかしたら、ひとりでも、そこに見知った人が立っていたせいかもしれない。それだけの理由だったかもしれない。
 その舞台に立っている人たちの中で、唯一見知っていた人だから、だから、雅巳だけを見ていたのかも、しれない。
 雅巳は主役ではないけれど、それでも多いセリフを間違えることなく紡いで、そうして出来上がっていく物語を舞台の上で進めていく。
 舞台が終わると客席から歓声が湧いて、花束を持った人たちが舞台に駆け寄っていった。主役だった女性と男性に、たくさんの花束。それぞれに固定のファンが付いているらしい。
 雅巳もいくつかもらっていた。
 そんな雅巳を、ぽつん、と佳乃子は見つめる。
 雅巳は花束を受け取りながら、誰かを探しているようだった。客席をぐるりと眺める。でも、照明を落とされ薄暗いままの客席に、目当ての人物を見つける事は出来ない。
「ねえ、もしかしたら佳乃子ちゃんを探してるんじゃないの?」
「……まさか」
 そんな可能性、今、桃香に言われるまで思ってもみなかった。そんなわけない、と思う、のに。
「それもそっか」
 桃香にあっさり否定されてしまうと、それはそれでなんだか、胸が、痛い。
 痛い。
 ……痛い?
 痛さに、なにかを自覚した。
 舞台の上で真っ直ぐに立つ雅巳を見て、どうしてだろう、泣きそうになった。
 なにかに一生懸命でいる人は、どうしてあんなに……。
「……ねえ、佳乃子ちゃん」
 桃香に呼ばれて、はっと我に返った。同時に、
「佳乃子さん」
 と、呼ばれた。
 ……え?
 顔を上げた先で、雅巳が心配そうにこちらを見ていた。
「……雅巳、さん?」
 呼べば、はい、と答えてくれる。
 いつの間にか舞台の照明は落とされ、明りのつけられた客席から観客は出払っていた。残っているのは佳乃子と、桃香だけで。
「ずっと掛けたままで、気分でも悪いですか?」
 それが、雅巳の心配そうな顔の理由。
 佳乃子は、いいえ、と答える。雅巳は安心して、
「見に、来てくれたんですね。よか……」
 よかった、と言おうとした言葉を止めたのは、佳乃子の両手だった。
 佳乃子の両手が雅巳の頬を包んで。
 雅巳は言葉を飲み込んだ。
 その言葉の代わりに、佳乃子が言う。
「……とても」
 なにかに一生懸命でいる人は、とても、
「綺麗だと、思いました」
 意外な、言葉だった。雅巳は自分に触る佳乃子の手に、触れた。
「今日は、ちゃんと男役ですよ?」
「でも、それでも、とても」
「そう、ですか? ありがとうございます」
「あの……わたし」
「なんです?」
「お花を、持って来ればよかった。だって、まさか、こんな……」
 花をあげたいと思う誰かに出会えるとは思っていなかった、と告げる。
 雅巳はその言葉こそが嬉しかったように、あはは、と、声に出して笑った。
「花なら、ここに」
 え? と佳乃子は瞬きする。
 雅巳は佳乃子の目線に合わせて座り込んだ。
「俺にとってはあなたが、なにより綺麗な花のようです」


 そのふたりから避難するように離れた場所で、桃香と、様子をうかがいに来たサチは顔を見合わせた。
「うわ、怖っ、なにあのふたりの会話、寒っ、天然!?」
「……佳乃子ちゃんは、天然です」
「あいつも、まあ、恥ずかしい舞台のセリフは言い慣れてるからね、天然かもだけどね……」
 とにもかくにも、顔を見合わせたまま。
 いやしかしあの会話は、
「……すごいよね」
 と一緒に呟いた。



09.すごいね。おわり


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