08.無理だってば。(5月中旬)
「無理だってば」
うららか爽やかな陽気に満ちた陽射しが眩しくて、雅巳は窓にブラインドを落とした。劇団の稽古場に日陰が落ちて、これでやっと台本が読みやすくなった。
日当たりがよすぎるのも問題だよなあ、と何事もなかったように台本をめくる。
劇団仲間の一人が、その台本を取り上げた。
「あんた、ほんっとに、舞台以外どーでもいいわけ?」
「……サチ、おまえねえ」
取り上げられた台本を取り返す。取り返したかと思うとまた取り上げられる。
雅巳は大袈裟に溜め息をついて見せた。
「どーでもいいんじゃなくて、ムリ、なんだってば。さっきからそー言ってるだろ」
「いい学校の制服着てた、ってだけじゃない。あ、それともあたしがさっきロリコンとか言ったの気にしてる?」
「……してない。てゆーか、俺が女子コーセーと付き合ったらロリコンかよ」
「だって、年、いくつ離れてんのよ?」
「知らないってば。一年なのか二年なのか、三年なのか」
「それくらい聞いときなさいよ」
サチは雅巳とあまり変わらない目線でけろりと言う。この劇団の売れっ子女優は雅巳よりひとつ年上で、年上の分、姉貴ぶる。
伸ばした髪を、くるくると頭の天辺でまとめている。なにでそんなに器用にまとめているのか聞いたら箸、だと答えた。三つ年上の彼氏が社員旅行で行ったどこぞの温泉街でお土産に買ってきてくれた箸、だそうだ。
その箸が刺さりそうな勢いでサチは雅巳を覗き込む。
「ひと目ボレなんでしょ? そんな勢いで惚れたんだから、そのまま勢いで行っちゃいなさいよ」
「ひと目惚れじゃない」
「二回しか会ってないくせに」
「最初に会ったときは、ほんと、そんなんじゃないって。あの子も俺もそれどころじゃなかったし」
「じゃー、再会してひと目惚れしたのね」
「……二回目でもひと目惚れってゆーのか? てか、惚れてない。そういう意味では、惚れてるとかじゃぜんぜんない」
つーんと横を向く雅巳を、サチは取り上げた台本でばこんと叩いた。
「今度の舞台のチケット、タダであげたくせに。しかも、お友達とどーぞ、って、二枚も! タダで!」
タダ、という響きに雅巳は口をつぐんだ。金の話を出されると、アルバイトで生活を支えている身には少し、痛い。
チケットは出した当日に即日完売、などという有名な劇団ではない。
「チケットはノルマ制。二枚あげたって事は、二枚分はあんたの懐からの出費。自腹。自腹!? あんたが!? チケット二枚分がいったい何日分の食費になると思ってんのよー!」
売れっ子女優だって、この劇団で売れっ子なだけで、決して生活は楽ではない。金銭感覚は似たようなものだった。
「だって、しょーがないだろ」
「だって、とか、しょーない、とか言うなー! 男のくせにー!」
サチはいつも元気だ。しかも腹筋背筋鍛えているので声もでかい。
耳元で喚かれて、雅巳は耳を塞いだ。
あの駅で再会した彼女が、ぽかん、と雅巳を見上げたのを思い出す。
通い慣れない駅に通って、雅巳を探していたのだと、言った。
痴漢騒ぎで迷惑をかけた雅巳に、もう一度お礼が言いたかった、と、言っていた。
真っ直ぐに、きれいな姿勢で立っていたから、雅巳はすぐに彼女を見つけた。すぐに、あのときのお嬢さんだと、わかった。
が。
「俺、二度目に会ったとき不審者だったんだよ。最初に会ったときはキレイなおねーさんだったのに、それが、こんなんで同じ名前名乗ったらさ」
「不審者、っていうか、ヘンタイよね」
「だから、さあ。役者なんですって、説明したわけ。この間のは物好きな監督のオーディションの最中だったんです、って」
雅巳の必死の説明を彼女が疑った様子はなかったけれど。
きちんと、人の言い分を聞いてくれる人、だったけれど。
『役者さん、ですか?』
そう言った彼女は、そもそも「役者」というものがどういったものだかわかっていない感じだった。
「こりゃ、ぜんぜん別の世界のお嬢さんだなあって、思って」
「で、チケットあげちゃったわけ? オレはこーゆうことしてるんですよー、って?」
「まあ、来ないと思うけど」
「来ないかなあ?」
「来ないだろ。無理だろ」
「そーよねえ」
しみじみと言うサチから、雅巳はまた台本を取り返す。そのときの雅巳の顔をサチは笑った。
「来てほしいでしょ?」
「別に、期待してないし」
「でも、あんたずーっとその子のこと考えてるわよね」
「悪いか」
「楽しい」
「おまえ……」
がっくりと、雅巳は座り込む。見るともなしに開いた台本をめくる。
サチは雅巳が閉めたブラインドを開けた。一気に差し込んできた日の光が台本の白に反射する。眩しそうにする雅巳の背中を、サチは勢いよく足蹴にした。
「家から女装して来い、途中で誰かにバレたらアウト。なんていうほんっと物好きなオーディション受ける度胸はあって、受かった実力もあるのに。メイク落とすともう、てんでダメダメなわけ? お嬢サマ、に気後れでもしてんの?」
「うるさい」
「図星?」
「俺は、ただ」
「なによ」
サチは雅巳の背中に足を掛けたまま。
雅巳はサチに足を掛けられたまま。
「きれいな子だなあって、思ってただけ、だろ」
「あんたメンクイ?」
「なんとでも」
なんとでも、言えばいい。
きれいな、子だった。
見た目も、ただ、立っているだけの姿も。言葉も雰囲気も。
再び駅で見かけた彼女は誰かを待っていた。自分を、待っているのならいい、と、多分、そこにいた男ならみんな思ったに違いない。
彼女は雅巳を待っていた。そんなことに、ずいぶん感動した。
今度は、雅巳が彼女を待っている。
舞台を、見に彼女は来るだろうか?
セリフならもうとっくに頭に入っている台本を雅巳は閉じる。サチの足がいつ背中からどいたのか気付いていない。
そんな雅巳をサチはおもしろそうに見ていた。
舞台は来週の日曜に、幕を上げる。
08.無理だってば。おわり
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