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声と手のひらそれから笑顔


   
07.傍に居るよ。(8月下旬)



「傍に居るよ」
 暑さの中で、手を繋いで、息を切らせて木陰に入った。
 街路樹にふたりしてもたれて深呼吸する。
 手は、繋いだまま。
 雅巳は佳乃子の手引いて、木陰から、近くにあった雑貨屋の陰に入った。
「雅巳さ……」
 こんなに思い切り走ったのはどれくらいぶりだろう。佳乃子は肩で大きな息をして、けほ、と咳き込む。
 雅巳は、大丈夫ですか? と聞くより先に、
「……と、言ってください」
 片方の手は繋いだまま、もう片方の手で、汗に濡れた佳乃子の髪をかき上げる。そのまま、額から頬を撫でた。
 走って、上気した佳乃子の顔は熱かった。
 佳乃子に触る雅巳の手も熱い。
「言ってください」
 まるでこどもが駄々をこねるように、力尽くで引き寄せて抱き締めた。
 佳乃子は決して小さいわけではないけれど、それでも、雅巳と比べるとずいぶん小さくて、その胸に納まってしまう。
「……雅巳さん」
 佳乃子の小さな声を、
「……はい」
 ほんの少しも聞き逃さないように、雅巳は佳乃子に顔を寄せた。
「はい……」
 と、佳乃子の言葉のその先を促す。
 佳乃子も、雅巳の髪を撫でた。
「傍に、います。いつも、います。雅巳さんも、いてくれるのでしょう?」
「……もちろんです」
 佳乃子に寄せた顔を、少し、遠ざけて、正面から見る。
 佳乃子を正面に見て、雅巳は安心したように口元を緩めた。
「おかしな、ものですね」
 佳乃子も雅巳を正面に見る。
 同じ目の高さで。
 こんな、路地裏で。
 一歩出れば厳しい残暑に照らされた明るい通りで、学生たちは残り少なくなった夏休みを楽しんでいるのに。
 佳乃子と雅巳は、その全部から隠れるように、こんな、場所で。
「なにが、おかしいのですか?」
「俺、二十三歳なんです」
「……はい」
 知ってます、と佳乃子は小首を傾げる。
「今まで二十三年もあなたを知らずにいて、それで平気だった自分が、おかしなものだなと、思ったんです」
 小首を傾げた佳乃子に合わせて、雅巳もそうして見せた。
 その、意味がわかって、佳乃子は真っ直ぐな雅巳の目線から逃げるように俯いた。
 ……俯いて、でも、すぐに戻ってくる。
 雅巳を真っ直ぐに見た。
「じゃあ、わたしも、おかしい、ですね」
 泣きそうな顔で、微笑む。
「たった、十日……」
 微笑んだまま、瞳に涙を溜めるから。
 雅巳の親指が、その涙を拭った。
「ええ、たった十日、佳乃子さんに逢えなかっただけで、この世の終わりみたいな気さえ、しました。……と、いえ、さすがに、それはちょっと、大袈裟かもですが」
 じゃあ他にどういえばいいのか。
 簡単だ。
 雅巳は佳乃子の手を、握り直した。
 この十日間、電話も取り次いでもらえず、訪ねても取り合ってくれず、携帯電話は電源を切られたか圏外に放置されたか。とにかくまったく雅巳は佳乃子と連絡が取れなかった。
 この、十日分の気持ちを、どう言う?
 簡単、だ。
「ただ、佳乃子さんに、逢いたかったんです。声が、聞きたかったんです」
「……はい」
「佳乃子さんも、ですか?」
 はい、と佳乃子は頷いて、
「雅巳さんには、お仕事もありますし、毎日会えません。いえ、毎日会いたいと我がままを言うつもりはありません。ただ……」
 ただ……。
「約束がないと、辛いんだと、思いました。十日後でも、二十日後でも、約束があるのなら……」
「約束があれば、大丈夫、ですか?」
「……きっと。でも、こんなふうに自分の意思ではなくて、父の……」
 ふと、佳乃子は父の言葉を思い出す。
『おまえもまた彼にとって迷惑な存在になることを自覚しておきなさい』
 思い出した言葉は。
 それは父の言葉で、父の言い分。
「……逢ってはだめだといわれて、それで、逢えないのは、とても辛いです。約束すらできないことが、辛いです」
 それは自分の意思ではないから。
 押し付けられるものは、重くて、辛い。
「雅巳さん」
「なんです?」
「その……お仕事の件で、わたしが迷惑になったら、迷惑だと、言ってください。父にそう言われても、ただ反抗したくなる、そんな気持ちばかりで、あなたのことを想えません。勝手なことを考えて混乱するばかりです。あなたの口から聞かなければ、あなたのことを想って、考えられません。迷惑なら迷惑だと、迷惑でないのなら迷惑でないのだと、言ってください。あなたが……あなたが思ったことなら、あなたが思ったように、わたしも、想うことができると、思います」
「……ねえ、佳乃子さん」
 雅巳は繋いでいた佳乃子の手を、両手で握り締めた。
 汗ばんだままの手はまだ熱を持っていて、どちらの手がより熱いのかわかりにくい。
 ふいに、人差し指と人差し指が絡んで、そのまま、五本の指を絡めた。絡んだ指に力を込められて、佳乃子は顔を赤くして目をそらす。雅巳はその瞳を追いかけた。
「佳乃子さんがとても大きな会社のお嬢さんだと知って驚きました」
 どこかの令嬢であることは確かだとは、思っていたけれど。
「佳乃子さんのご両親は、佳乃子さんと付き合いを始めた俺が役者志望のフリーターと知って、とても、驚いたでしょうね。俺は、あなたにはふさわしくない。俺があなたの父親なら、きっと同じように反対する」
「……そんな……っ」
「でも」
 ……でも。
「あなたが、好きなんです」
 絡んだ指をほどく気はない。
「傍にいて欲しいと、思っています。あなたは傍にいると、言ってくれました。俺も、あなたの傍にいます」
 例えば、電話が通じなくても、逢うことができなくても。
 からだと、からだが、すぐ傍に、いなくても。
 きっと、どちらかがどちらかを想ったとき、もう片方のどちらかも、あなたを、想ってる。
「……こんなふうに、俺が想うことを、あなたも、同じように思ってくれる、んですよね?」
 絡んだ指に顔を赤くして逃げていた佳乃子の視線が戻ってくる。
 戻った場所で、
「はい」
 告げた唇に、唇を重ねた。
 ほんの少し、触れる。
 初めてではないのに、佳乃子は、いつも初めてするような顔をするから。驚いたように見開いた目を、次にはぎゅっと閉じるから。
 雅巳は少し困ったように、おかしそうに、笑う。
 そんなふうに笑う雅巳を見たら、佳乃子はもしかしたら拗ねるかもしれない。でも、いつでも、ぎゅっと閉じた目はそんな雅巳を見ないから、知らなくて。
「佳乃子さん」
 開いた目で見る雅巳はいつも、
「佳乃子さんはいつも呼ぶまで目を閉じてますね。あまり無防備にすると、そのまま、俺が襲ってしまうかもしれませんよ?」
「え、……あの」
「冗談です、俺はこれでも意外に舞台の上以外では度胸、ありません。ええ、佳乃子さんほどには」
「わたしほど、には?」
「ええ、びっくりしました。佳乃子さんと連絡が取れなくなってから十日目。今日こそは忍び込んででも、と思って訪ねてみれば、佳乃子さんが二階のベランダから身を乗り出していて……心臓が止まるかと思いました」
「あ、はい、止まらなくって、よかったです、ほんとうに」
 心の底から言う佳乃子に、
「……ええ、ほんとうに」
 実はそのままベランダから身軽に飛び降りた佳乃子を慌てて受け止めたときにもこれまたびっくりして止まりかけたのだけれど。そのまま、こんなところまで連れて来てしまったのだから佳乃子ばかりを責められない。
「抜け出したのが見つかる前に、帰りましょうか」
「はい」
 まだまだ陽射しの眩しい表通りにこっそりと出た。なんとなく、こっそりとしてしまうのがおかしくて顔を見合わせた。
 ふたり一緒に歩き出す。
 手はずっと、繋いだままだった。



07.傍に居るよ。おわり


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