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声と手のひらそれから笑顔


   
06.分からない。(4月下旬)



「分からない」
 と、言うしかなかった。
 朝の、駅で。
 今はそんなことよりも、震えているこの少女の方が気になった。
 助けたときに差し出した手を、離してしまうのが怖いというようにしっかり繋いだまま、俯いている。駅員に名前を聞かれると、
「山口……佳乃子、です」
 答える声も、震えていた。
 無理もない、と思う。
 駅員も困ったような顔の下ではそう思っているに違いない。
 無理もない。
 今にも泣きそうな少女の顔を、下から覗き込んだ。
「佳乃子、さん」
 聞いたばかりの名前を呼ぶと、
「……はい」
 小さく、でも確かに返事を返す佳乃子に、
「ごめんなさい」
 と謝った。謝られた佳乃子は驚いたように少し、顔を上げた。
 まだ、目は合わない。佳乃子は握った手を、見たまま、
「あの、なぜ、あなたが謝るんです?」
「だって、俺……」
 と言いかけて、静かにその言葉を飲み込んで、
「だって、私がもう少し早く気が付いてれば、あなたに怖い思いをさせなくて済んだのに」
 少し、低めの声で、
「それにもう少し気が回れば、あの痴漢を逃がしてしまうこともなかったんです。人ごみに紛れさせてしまって、その姿もよく、分からない、なんて……一度は犯人の手を掴んだのに……」
「いいえっ」
 佳乃子は、とんでもない、とさらにぎゅっと手を握り締めた。
「犯人を捕まえるなんて……危ないことを、考えないでください。まして、それを実行しようだなんて……」
「……危ない、ですか?」
「はい、とても」
「そう、ですか?」
「はい」
 だから、決して危ない真似はしないでください、と言う佳乃子に、つ、と笑んだ。
「私の心配をしているうちに、あなたの震えも止まったようですね」
 人の心配をしているうちに、少し、落ち着いたらしい。
 佳乃子もそんな自分に気が付いて、あらためて、顔をあげた。
 初めて、目が合った。その途端、佳乃子がなにかに驚いて、絵に描いたように目を丸くしたので、
「どうか、しましたか?」
「はい、あの、すみませんっ。あなたが、とても……おきれいなので、見とれてしまいました」
「私に、ですか?」
「はい、失礼をいたしました」
 佳乃子は深々と頭を下げる。その、今までに出会ったことのない丁寧さに心の中で慌てた。ふと目にした窓に映った自分の姿に、自分でも一瞬驚いて、おかしくなる。我ながら、すばらしい美女っぷりだった。
『髪、とてもきれいに巻いてありました。お化粧も上品で、背が高いのでモデルさんだと言われたら、きっと誰も疑いません。あのときは駅員さんたちもあなたに見とれていました。気が付いていましたか?』
 とは、その後に再会した佳乃子の言葉だ。
 でも、このときはまだ見知らぬ同士だった。
 だから佳乃子はまだ握り締めていた手を慌てて離した。
「重ね重ね、申し訳ありません。わたし、ずっと……っ」
 ずっと、手を握っていた。
「すみません、あの、あまりこういう経験がないので、上手く対処できなくて……」
「……経験、を重ねればどうにかなる、というものでもないと思いますが……」
 なにしろ痴漢だ。
「いえ、わたし、あまり電車に乗ることもなくて……」
 と言われてなんとなく、調書を取っている駅員と目を合わせた。
 なるほど、彼女の制服は有名だけれど、あまり公共の乗り物の中で見る事はない。大抵は家から学校まで直接送迎されているはずだった。
 しかしそういえば今日は、電車の中でも駅でもよくこの制服を見かける。こんな日が、たまにある。
「何ヶ月かに一度ですが、なるべく電車やバスを使って登下校するように、と学校で言われるんです。ちゃんと、日にちも決められるんです。でないと、切符の買い方もわからないままになってしまうので……」
 必ず、ではなく、なるべく、というのは著名人のこどもも多いからだった。なにか起こってからでは遅いし、学校側が責任を取れるわけでもない。
「では、痴漢もそういう日を狙っているかもしれません。我々も眼を光らせてはいるのですが、次回からも、気をつけてください」
 駅員だか駆けつけた警備員だかがそう言う。はい、と素直に返事をした佳乃子は、
「……あ」
 壁にかかった時計を見て慌てて立ち上がった。もう行かなければ遅刻してしまう。
 遅刻してしまう、といえば、
「うぉっ、やべぇ」
 と吐き出した言葉に佳乃子と駅員が驚いて振り返る。遅い、とは思ったけれど、笑ってごまかした。
「佳乃子さん、まだ心配なので学校まで送って行ってあげたいのですが、私にも時間が、なくて。ごめんなさい」
「いいえ、こちらこそお急ぎのところをすみません」
 ほんとうにすみませんでした、と何度も言うので、
「あなたは謝ってばかりですね」
 と微笑ましく思いながら返した。佳乃子はまた慌てて、
「……あ、はい、すみません、ではなくて、ほんとうに、助けていただいてありがとうございました。あの、お名前を、伺ってもいいですか?」
「……え」
「だめ、ですか?」
「いえ……ええと」
 だめ、ではない。が。
「……平沢、です」
「平沢……さん?」
 平沢なに、かと聞いてくる。少し考えて、まあいいか、と思い切って口にした。バレる事は、ないだろう。……多分。
「雅巳、です。平沢雅巳」
 フルネームを名乗っても、佳乃子は雅巳を疑うことはなかった。目の前の「とてもおきれい」な女性が、まさか、本当は男なのだと思う事は微塵もなかった。
 当然だ、雅巳も、この日だけはなにがなんでもバレるわけにはいかなかった。こんな名前をつけてくれた親にこっそり感謝をした。
「では雅巳さん」
 佳乃子はきれいなお辞儀をした。
「今日はほんとうに、ありがとうございました」
 ゆっくり、静かに。でも、時間を気にして駆けていく。
 雅巳はしばらくはまだ心配そうに佳乃子の後姿を見送っていたけれど、人の心配をしている場合ではないことにはたと気が付く。ざわざわと混雑している朝の駅の構内を、駆け出した。



05.分からない。おわり


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