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声と手のひらそれから笑顔


   
05.少しくらい。(8月中旬)



「少しくらい……」
 言いかけた言葉は、いつもなら飲み込んでいた。
 飲み込んでしまって、それきりになるはずの言葉だった。
 でも、今日は。
「お願いです。少しだけ、わたしの話も聞いてください」
 佳乃子の言葉に、父は明らかに気に入らない顔をした。
 空調の効いた父の書斎で、父は父の椅子に深く掛けたまま、
「聞かなくても分かる。夏休みだというのに毎日毎日どこへ出かけているのかと思えば……。どうせ、物珍しさに興味があっただけだろう」
「違……、違い、ます」
「なにも違わない。その好奇心は、そろそろ他に移しなさい。新しい習い事を始めるのもいい」
「できませんっ」
 佳乃子は必死、だ。
「雅巳さんは、とても真っ直ぐで真面目な方です。きちんと会っていただければ分かります。分かってもらえるはずです。それを、……あんなふうに、頭ごなしに追い返してしまうなんて……っ」
「……佳乃子」
 溜め息と一緒にテーブルの上に手を組んだ父の口調は、わがままを言う小さなこどもをなだめるようだった。引き出しから出した書類を佳乃子の前に並べる。
「平沢雅巳、23歳。劇団員。無職、とある。とても、真面目、とは言い難い」
「お仕事なら、きちんとされています」
「フリーター、は、きちんと、の部類には入らない」
「自分が、生活していくために働いていることには変わりません。自分で自分の生活を支えて、自分の進む道を見ています。お調べになったのなら、一緒に報告されていませんか? 雅巳さんと出会ってからのわたしは、とても充実している、と。笑顔が絶えない、と。毎日が楽しくて仕方がない、と」
「これは彼の報告書で、おまえのものではないよ」
「では、わたしの報告書もそこに並べてください。そうすれば、お父様がご心配されるような事はなにもないと、分かるはずです」
「……おまえがこうして私に意見していることが、すでに普通じゃない。その浮ついた気分が落ち着くまで外出は許可しない」
「いつでも、お父様の許可など頂いてません」
「佳乃子」
 父は、低い声で、
「夏休みが始まった頃に彼が出演したという番組の視聴率はよかったそうじゃないか。続編が決まった事は?」
「……知っています」
 番組が放送されて何日か後に、雅巳が嬉しそうにそう語ったのをはっきり覚えている。
『この次の特番も好評なら、来春からの放送が決定するかもしれません。半年の番組になるか、一年の番組になるか……とにかく、決まった仕事が入ります』
『おめでとうございます』
『ありがとうございます。先の事は、まだわかりませんが』
『それでも、すごいと思います。でも、あの……』
『なんです?』
『……あの』
『そんな顔をしないでください。不安、なんですね?』
『はい、とても。……わがままを言っても、いいですか?』
『どうぞ、なんなりと』
『あまり、遠くへ行ってしまわないでください、ね』
『俺はご存知の通りの端役すから。撮影に入っても、一週間、いえ、三日に一度は戻って来られると思いますよ?』
『いいえ、物理的な距離ではなくて……』
『……心が?』
『……はい』
『離れませんよ』
 そう言った、雅巳の笑顔を、覚えている。
『それに、とても複雑な心境で言わせてもらえば、俺は、きっとそんなに有名にはなりませんよ? 役は監督が遊び心で作ったものなので話題になるかもしれませんが、普段の俺がその辺を歩いていて気付かれる事はまずありません』
『そう、ですか?』
『ええ、佳乃子さんだって、はじめは俺と分からなかったでしょう?』
『はじめ……』
『ええ、あの、駅のホームで』
 雅巳がなにを言いたいのかわかって、佳乃子は小さく笑った。雅巳も、それで安心したようだった。
『ほら、ですから、そんなふうにいつも笑っていてください』
『……はい』
 まだまだ暑さが残っているはずの、もう夕暮れの窓の外を眺めて、佳乃子は、思い出した雅巳に笑う。
 そんなふうに笑っていると、約束をした。
 でも。
「佳乃子」
 現実の父の声に笑顔を忘れる。
 ここは、さっきまで雅巳と過ごしていた暑い陽の下ではなくて。
 空気の温度の調節された父の書斎。父のテリトリー。
「彼の出演する番組のメインスポンサーが、我が社だという事は?」
「……え?」
 佳乃子は弾かれたように顔を上げた。
 『こどもに、豊かな夢と未来を。』
 そんなキャッチフレーズを掲げる父の会社が……メイン、スポンサー……?
「……知……りません、でした」
「では今、知ったね」
 それは、この父の一言が、番組の行方を動かすこともできる、ということ。
「彼はおまえにも迷惑な存在だが、おまえもまた彼にとって迷惑な存在になることを自覚しておきなさい」
「……迷惑」
 わたしが、雅巳さんの……?
 佳乃子は雅巳を思い出す。
 思い出す雅巳は、いつでも笑顔だった。怒ることも困ることも驚いた顔をすることもあるけれど、いつでも最後には佳乃子に降参したように、笑った。
 佳乃子も……。
 わたしも、笑っていますか?
 雅巳の中の自分はいつでも笑顔だろうか? そうだといい、と思う。
 でも、今の佳乃子は父を見詰めたまま、泣くこともできないような、そんな顔をしていた。



05.少しくらい。おわり


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