01.いってきます。(11月下旬‐3)
「いってきます」
と挨拶をする。
なんでもない挨拶だ。
でもなんだか、その挨拶が恥ずかしくて、雅巳は、あはは、と笑って見せた。
佳乃子は、顔を赤くして照れたように笑う雅巳を見上げて、
「どうしたんです?」
とかわいらしく小首を傾げた。少し癖のある細い黒い髪がふわりとこぼれて頬にかかる。
雅巳はその髪に触れようとして、やめた。
触ったら、ちょっと、自分を押さえられないかも、しれない。
佳乃子は明るい紺色のセーラーに黒いリボンをきちんと結んでいる。
「リボン、きれいに結びましたね」
佳乃子より二十センチ高い視線から佳乃子を見下ろして、なんとなく、安心したように言う。
安心したついでに、朝っぱらから、いらないことまでついうっかり言う。
「昨夜はくちゃくちゃにしてしまって、ああ、きれいになるものなんですね。安心しました」
昨夜、を思い出して佳乃子も顔を赤くした。
「いえ、あの、リボンを結ぶのは毎日のことですから。慣れています。大丈夫です」
俯くと、首筋まで赤くなっている。
そんな佳乃子に、雅巳も、また顔を赤くした。
初めて一緒に迎えた朝は、なんだか、自分の笑顔を見せにくい。
相手の笑顔は、とても見たい、と思うのに。
「昨夜はムリを、させませんでしたか……? からだの調子は……」
「あ、あのっ。大丈夫、です。そんなに心配しないでください」
「そう、ですか? ええと、では俺は先に出掛けてしまいますが、学校まで、ちゃんと行けますか? 電車の切符、買えますか? ほんとうに、送っていってあげられなくてすみません。くれぐれも痴漢には気をつけてくださいね。それから、ずいぶん寒くなってきましたから、体調にも気を付けて。えーと、それから……」
「はい……はい、大丈夫です。それより、あのっ、雅巳さん」
「はい?」
スニーカーを履きながら、雅巳は少し伸びすぎてしまった茶色の髪で振り返る。
狭いアパートの狭い玄関先で。
「あの、雅巳さんも気を付けて、いってらっしゃい。お仕事頑張ってください」
これも、なんでもない挨拶に、違いない、けれど。
ありふれた言葉だけれど。
「はい。佳乃子さんも、お勉強、頑張ってください」
「はい」
ありふれた言葉には、いつもの笑顔を添えやすい。いつもの自分でいることができる。
「あ、佳乃子さん、今日は体育とか、ないですか?」
「え、と。はい、ありません」
「それはよかった」
「どうしてです?」
「だって」
「はい?」
雅巳は佳乃子のセーラーの襟元を引っ張った。
「跡を、残してしまいました。他の男には見せないでください。佳乃子さんの学校、共学でしたよね?」
雅巳が付けた、首筋の、跡を、雅巳は親指の腹でなぞる。
「……っみ」
佳乃子はどう対応していいのかわからずに、その場にしゃがみこんだ。
「み、見せませんっ」
「絶対、ですよ?」
「絶対ですっ」
赤い顔をして、小さな声で言う。佳乃子はこんなときも、あまり大きな声を出さない。いつも、静かに、静かに喋る。
その静かな声を聞くように、雅巳も玄関先に座り込んだ。
「佳乃子さん」
「はい?」
「……その、今晩も、佳乃子さんはこの部屋に、いますよね?」
「……はい」
「そう、ですよね。……よかった」
「よかった、ですか?」
「もちろんです。でも、あなたがいつかこの日を後悔する日が来るかもしれない。それが、とても怖い」
「そんな日は来ません。雅巳さんには、後悔する日が来るんですか?」
「来ませんよ」
即答する雅巳に、
「ほら、同じです。わたしにも、来ません」
佳乃子の笑顔に、今はまだ、不安は見えない。
だから、雅巳の笑顔にもそれは、見えない。
「雅巳さん、あの、雅巳さんが帰ったら、お夕食のお買い物に、一緒に行きましょう」
「はい。では、なるべく急いで帰ってきますね」
「急がなくていいですから、気を付けて、帰ってきてください」
「じゃあ、気を付けて、急いで帰ってきます。佳乃子さんも、気を付けて」
「はい」
では、あらためて。
「いってきます」
はい。
「いってらっしゃい」
01.いってきます。おわり
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