023.螺旋
くもり空を見上げていた。
ベランダから身を乗り出して、真上にある空を、見よう、と思って見上げなければ、狭い間隔で立てられた向かいの建物しか見ることができない。
団地の中の、いくつあるのか数える気にもならない建物のひとつの一角の、ベランダで、ミナトは最近、暇さえあればそうして空を見上げていた。
雨が降り出すのを待っている。
台所からダイニングを挟んで見えるベランダのミナトを、タカシは一瞥しただけだった。
出会った頃からまるで成長していない華奢で軽いからだは、目を離した隙に風に持っていかれてしまいそうだと、思ったこともあったけれど。実際、何度か、身を乗り出しすぎて落ちかけたからだを、慌てて助けたこともあった、けれど。
助けなければ。
落ちてしまえば。
このからだはただ、死んでしまうだけだと言ったミナトの頬を力の限りではたいた日から、ミナトは無茶をしなくなった。
タカシは、あのときにミナトの頬をはたいた手のひらを、なんとなく、眺めた。
右手に残る感触は、ミナトの、肉付きが悪くてもそれなりに柔らかい肌を、抱いても抱いても消えることはない、ような気がする。
多分、気がする、だけだ。
ナベが噴いて、その右手で火加減を調節する。味見をする。まな板の上の野菜を切る。
空を見上げていたミナトは、なんとなく、台所の奥にいるタカシに見返った。
タカシの視線を感じた、ような気がしたけれど、タカシは夕食作を作っている。電子レンジがチンと鳴って、背中を向ける。
ミナトは、ベランダの柵に背中でもたれて、そのまま、空を仰いだ。
強い風が吹いたら、いつの頃からか成長しなくなったからだは風にさらわれそうな気が、する。
さらわれて、そのまま空へ飛んでいけるのならいいけれど。
風に乗ることのできる風船では、ないのだから。
風が、手を引けば。
引かれただけで。
ベランダを乗り越えた瞬間に、地面に落ちる。
それは。
その痛みは。
タカシに、手加減なくはたかれたあの痛みよりも痛いだろうか。
ベランダに出ると、空を見上げて、そうして無意識に頬を撫でるミナトを、フミオが、眺める。
フミオがそれまで見ていたテレビは、ただひたすら衛星画像が雲の動きを知らせるチャンネルだった。ときおり画面が変わって、明日の天気予報や、警報や注意報、を知らせる。
ミナトは、ただ、雨が降り出すのを待っている。
この時期降り出す雨には名前が付いているから、フミオはそれが発表されるのを待っている。
梅雨時に、梅雨入宣言が出れば、停滞する前線が、空を眺めて待っているよりは確実に、雨を降らせる。
入梅宣言は、まだ出ない。
出たら「出たよ」とミナトに知らせることができるのに。出ないから、特に、ミナトにかける言葉がなくて、フミオはまたテレビを見る。じっと見る。しばらくすると、夕食のいい匂いがしてきて顔を上げた。対面式のカウンターから覗き込んで、カウンターをコン、と叩くとタカシが振り向く。
だし巻きたまご?
と小首を傾げて尋ねれば、そうだ、と言いたげにタカシがくちびるの端をあげた。声にしていない言葉が通じたわけじゃない。なんとなく察しただけだ。
タカシが菜箸の動きを一瞬止めた。フミオは戸棚からだし巻きたまごをのせる皿を出して、タカシに渡す。皿が欲しい、と、なんとなく察しただけだ。
フミオはテーブルを拭く。箸を並べていると、ミナトが戸棚から茶碗を出す。
雨は降らない。
雨の降らない空を、ミナトはもう見ない。空はすっかり暗くなって、見上げているものはみんな、夜、という色をしたものになって、雲なのか空なのかなんなのか見分けが付かない。
ミナトが見ていた空を、フミオが、窓越しに見た。台所に近いその場所からは、窓の向こうに見えるものは隣の建物だけ、で。ただ、暗い。
フミオが見た窓を、タカシも見た。空は見えない。暗くなった夜が見える。
ミナトは、先ほどまでベランダでそうしていたようにカウンターから身を乗り出した。
伸ばした手で、手のひらで、タカシの目をふさいだ。
なにをしてるの、と言いたげなフミオの目も、ふさいだ。
ミナトも目を閉じた。
ほんの数秒。
最初に目を開いたミナトは、ふたりの目をふさいでいた手のひらで、ふたりの頬をなぞった。
タカシと、フミオが、ミナトを見る。
なにやってんだ、という顔で。
なにしてるの? という顔で。
ミナトは、ぽつり、と、
「ふたり、いるな、と思って」
この場所に、今、いる人間が。
タカシと、フミオだったことに安心した顔をした。
この季節、ミナトはもうひとりの自分と対峙する夢を見る。
向かい合う同じ姿を、鏡に映る自分だと思う。でもそれは、ミナトではないミナト。冷たい手で、肌で、ミナトを抱いて犯して満足をする。
同じなら、同じ人間なら、ミナトも満足するはずだった。
同じじゃない。だからミナトは震える。震えながら思う。早く、雨が降ればいい。梅雨になればいい。
雨音が聞こえる夜は、もうひとりのミナトは現れない。雨が降っていても、現れることもある。でも、現れないことのほうが多い。その足元を雨水にすくわれて上手く歩けないでいるように、まるで、夢の中までたどり着くことが出来ないように。
夜の雨は、ミナトの震えを洗い流す、ような気が、するから。
雨が降ればいい。降り続ければいい。
たとえ、
降らなくても、
ふたりが、
いればいい。
そう思っている。大丈夫。大丈夫。大丈夫。
それでも、ときおり、確認を、しないと。
目を開けたら。
ぜんぶが夢だったら、どうする?
不安になる。
雨が降らない。
ばかばかしい思いに駆られる。
ふたりが、夢だったらどうする。
伸ばした手に触れるぬくもりと形が、幻だったらどうする。
昔そうだったように、あの頃と変わらず、今も、イクミと、ここにふたりきりだったら、どうする。どうしよう。
一緒に生まれてきた。
寄り添って育ってきた。
同じ場所に、いた。
いたはず、だった。
同じ場所にいることに疑問を持たなければよかった。
そうすれば、
今でもきっと、
仲良く、
すぐ傍で芽吹いたつる草がそうするように、絡み合って支えあって、螺旋、でも描くようにぐるぐると、離れることなど考えないまま、ふたりでいることがひとりでいることのように当然のまま、一緒にぐるぐる、空に向かって伸びていけばいいだけだったのに。
今は、同じ場所に、いたくない。
だからいない。
いないはず、だった。
両手が触れているものは、暖かい。
暖かいタカシが、飯にするぞ、と言った。
暖かいフミオが、声にはしない声で、ミナト、と呼んで。じゃれるように、自分の頬に触れたままの手のひらに唇を押し付けた。目が合ったので、唇に、唇で触れた。
暖かいそれに触れながら、イクミを、思った、のは。
絡み合って伸びていくつる草を、思った、のは。
ひとつに。
ふたりでいるのにひとつになりたいと、思ってなどいない、と。
伝える術は、ないのだろうか、と。
思ってみても無駄なことを、
「……お腹、減った」
「だから飯にするぞって言ってるだろ」
「そう、だっけ」
ミナトはどこか焦点の合わない瞳でタカシを見上げる。
雨は降らない。
伝える術はない。
それでも。
席に着け、とタカシがミナトの頭を撫でた。
フミオが、ミナトの手を引く。
それでも。
きっと、伝える術は見つかる。
いつか、雨は降る。
さんにんで、ここに、いる。
おわり
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