022.人格エラー
捨てられた人形だと思った。ひとの大きさをした人形だと、思った。でも、建物の、非常階段の踊り場の壁にもたれていた背中が、温かかったから。ひとなのか、と思った。生きている、ひと、だ。
中学生の女の子だった。中学校の制服姿だった。丸襟のブラウスに、赤いリボン。プリーツのスカート。黒いハイソックス。茶色の、革の靴。
建物の住人はあまり非常階段を使わない。中央のエレベーターを使う。建物の隅にある非常階段に、今あるひとの気配は、その少女のものだけ。
夜になる。夜の間、誰も、人形に見える少女に気が付かない。
朝が来る。朝が来れば、平日なら、建物に住む中学生がひとり、非常階段を使う。今日は日曜日、だから。誰も、非常階段を使わない。
また夜が来る。朝が来るまで、誰も非常階段を使わない。
月曜日の朝が来て、建物に住む中学生がひとり、非常階段を下りていく。タカシ、という名前の中学生が、捨てられた人形のようにその場所に、ただ居るだけの少女に気がついた。
タカシは、少女に見向きもしなかった。きっと、こんなところに、中学生の女の子がいるな、と、思っただけに違いない。
昼間、建物に住む小さな子どもが、非常階段の少女を見つけた。見つけただけで触ろうとはしない。声もかけない。逃げるように駆け出して、母親を連れてきた。母親は警察に連絡をする。電話の向こうの警察に、母親が答える。
「いえ、生きて、います」
少女は、ずっとずっと、眠ることがなかった。重そうに開け続けているまぶたが、時折、まばたきをする。生きて、いる。
小さな子どもの母親は、電話を切った。予想通りの警察の対応に、ほらね、と言いたげにする。
「生きてるうちは処分ができないのよ。どうしようもないわ」
放っておきなさい、近付いちゃだめよ、と子どもに言い聞かせた。
「死んだら、市が処分してくれるわ」
夕方になる。タカシが学校から帰ってくる。いつもそうしているように、非常階段を上がる。また、少女を見つける。
少女はタカシを見ない。
タカシは、少女を見た。
少女の前で立ち止まって、少女を見下ろす。何かを、考える。カバンを置く。少女の髪を撫でる。痛んだぱさぱさの髪を、撫でる。
少女は、驚いたようにタカシを見上げた。なにか言いかける。でも、言いかけただけで。言わない。タカシも、言いかけたなにかを気にしない。
タカシは少女を抱き上げる。なんとか、抱き上げる。
抱き上げただけで、一度、下ろした。やっぱりな、と納得した顔をする。一年後、二年後は分からないけれど、今のタカシは、少女を抱き上げるのが精一杯で。抱いたまま、階段を上れない。
抱き上げられても、また下ろされても、少女は無抵抗、だった。されるがまま、あるがまま。そこに、自分というからだが、ただ、あるだけ。
「おい」
一度はタカシを見た瞳は、また、タカシを見なくなる。
タカシは、少女から目を離さない。少女はタカシを見ない。
「おい」
タカシは、少女を蹴飛ばした。みぞおちを、容赦なく。
けほ、と少女は咳き込む。腹を抱える。でも、表情は変わらない。どこかを見たまま、たまに、まばたきをするだけ。
タカシはカバンを拾い上げると、階段を上がっていった。
タカシの姿が見えなくなる。
少女は少しだけ、初めて、自分で動いた。腹を抱えなおす。咳き込みたいのを我慢するように息を飲み込む。非常階段の踊り場の隅で、打ちっ放しのコンクリートに横になる。小さく丸まる。目を閉じる。疲れたのか眠いのか、痛いのか気分が悪くなったのか。
しばらくして、足音に目を、開いた。なにかを探そうという素振りはない。ただ、目を開いた。開いた目には、誰かの足、だけが映る。
瞳に映った足は、そのまま。その場に立ち続ける。足元に、水の入ったペットボトルを置いて、一時間でも、二時間でも。
一時間でも、二時間でも、少女は、タカシの両足と、水の入ったペットボトルを見ている。
そのまま、日が暮れて、朝が、来る。
少女が、目を閉じた。
「限界なのか」
タカシが尋ねる。少女は答えない。限界、だ。
少女も。タカシも。
タカシは、少女胸倉を掴み上げて、掴み上げられても目を閉じたままのその、頬を、はたいた。
一度、二度。三度、四度。力任せに、力の限り。
少女は、一度、見開いた目を、かたくつむった。痛みに、行為に驚いて開いた目を、痛みと、行為に耐えるように、つむった。
タカシは、唇の端で、小さく笑った。掴んでいた胸倉を離せば、少女のからだが崩れ落ちる。崩れ落ちたからだを、また、蹴飛ばした。蹴飛ばして、踏み付けた。
少女は小さく、小さく、うめき声を上げた。
小さな小さなうめき声に、タカシはまた笑った。
一度入り込んだら迷いそうな広い団地の中の、どれもこれも同じ建物の中のひとつの、非常階段、に。
壊れたひとが、ふたり、いる。
多分、壊れている。それともこれが正常、なのかもしれないけれど。
建物が、日常の誤りを非常ベルで告げるように。
ひとの間違いは、どう、告げる?
ひとの、エラーは。間違いは。
建物の非常は、間違いは、火事だったり、泥棒だったり強盗だったり、子どものいたずらだったり。
ひとの、非常は。異常は。
ひとの、それは。
ただ、ひとと違うひとで、あること、で。
少女を、殴ったり蹴飛ばしたり。
殴られても蹴飛ばされても無抵抗だったり。
それが、間違いだと気が付かない限りは間違いではなくて。
それは、ただ、建物の片隅で起こったというだけの、こと。
建物の片隅には、このふたりしかいないから、もしかしたらこれは、異常ではなくて非常ではなくて、日常、なのかもしれない。
ひととして間違っていても、人格にエラーがあっても。
そういえば、ひとには、非常ベルなんて、ないから。
非常でも、日常でも。
あるが、まま。
「……おい」
タカシの足元に崩れ落ちた少女の、腫れ上がった頬を、タカシが撫でた。タカシが蹴飛ばした少女の腹を、タカシがさすった。
倒れこんだ少女のそばに膝を着いて、少女を抱きかかえた。抱き上げることはできないから、抱きかかえる。
無抵抗な人形。意識があるだけの、ひと。
もう一度、その頬をはたこうとタカシが手を振り上げたとき。
少女は、タカシに、しがみついた。手を、指を動かす。手に触れたタカシのシャツを握り締める。力なんか入らない。それでも、確かな力、で。
タカシは、背中にしがみつく少女の手を、見たくて振り返る。
自分の意思を取り戻した少女を。
軽々と、抱き上げてやることはできないけれど。それでも、ふたつみっつ年下の、からだの小さな少女を、抱き締める。摺り寄せられた頬が熱い。腫れた頬。タカシが叩いた。ペットボトルの水で濡らしたハンカチを、熱を持つ頬に押し付けた。ペットボトルの水を、くちうつしで、飲ませる。
少女は水を、飲み込んで。
「……ミナト」
と、呟いた。
小さな声と一緒に、泣き出した。飲み込んだばかりの水が。
「ミナト」
タカシが呼べば、溢れて流れた。
抱きついていたミナトが、ふと、顔を上げた。目が合う。
なんだよ、とタカシが口にするより先に、
「……タカシ?」
幼いかわいらしい声が、タカシを呼んだ。タカシが告げていない名前を、呼んで。
目を見開いたタカシが、倒したペットボトルの、水が、打ちっ放しの、コンクリートの床に広がっていくのをふたりで、見た。
なにが……。
正しいのか正しくないのか。間違っているのかいないのか。エラーなのかそうでないのか。
ひとはよくわからない。
わからないまま、そのままで。ずっとずっと、そのまま、で。
タカシひとりだった部屋に、ひとり、ひとが増えた。
タカシとミナト、ふたりの部屋にもうひとり増えるのは、もう少し、後の話。
おわり
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