024.猫の目石
カツン。
と、音がしたような気がして、ミナトは反射的に振り返った後、自分の足元を見下ろした。
放課後の校舎の、階段の、踊り場の窓からどこかを、見ていた。
ミナトの足元にはフミオが座り込んでいて、ミナトが見下ろすと、なあに、と言いたげに見上げてくる。目が合うと、ミナトは小首を傾げた。
カツン、と、音が、したのは。
気のせいだったのかと思い、また、窓の外を見ようとすると、フミオが呼んだ。
誰に聞こえなくてもミナトにだけは聞こえる声で呼ぶ。
ミナトは、呼ばれて、フミオの隣に座り込んだ。フミオにもたれて、足を伸ばす。わざと体重をかけると、重いよ、とフミオがかすかに笑う。
そのフミオが、なにかを差し出す。手のひらに、握り締めていて、なにかは、わからない。
ミナトは、開いた手のひらでそれを受け取る。
転がるように手のひらに落ちたのは、つるんとした緑色の、
「……飴?」
だと、思った。
けれどすぐに、
フミオが、違う、と首を振るより先に、
気が付く。
緑色の、石。
光にかざせば、きれいに、一筋の光のラインが見えた。
「これ、どうした?」
聞けば、フミオは踊り場の隅を指差した。
「……え、落ちてた? そこに? そんなトコに?」
緑色の、その石は。
「落ちてたって、だってこれ……」
その、石の価値を、フミオはわからない顔をする。
この、石が本物なら、その価値は。
「おれのだよ」
割り込んできた声を、ミナトとフミオ、ふたりで見上げた。
踊り場に降りてくる人物を、ミナトはどこかで見たことがあった、ような、気がした。でも、思い出せない、から。
「それ、探していたんだ」
穏やかな声をしていても、穏やかな表情を見せていても、悪意も敵意も感じなくても、ミナトはフミオを背に庇う。
階段を降りて、踊場で、ミナトの前に立った彼は、困ったように、静かに笑っただけだった。
「おれは、それを探していただけだよ?」
ミナトは、すぐに立ち上がれるように片膝を引き寄せる。
「お前のものだという証拠は?」
「ないけれど」
困ったなあ、と彼は呟いて。
「大事なものだから、返してくれないかな」
ねえ? と覗き込んだミナトに、ほんの少し驚いた顔をした。
「あれ、君、タカシのとこの子、だっけ?」
「タカシの子どもみたいな言い方するな」
「うん、ごめんね」
からかった、わけでもない、態度に、ミナトはぽかんと、彼を、見上げた。
「……おまえ、どういう……」
どういう、なに、なのか、と。
聞いてどうするつもりもなかった。それでも聞いていたのは。最後まで、聞けなかったのは。
「……ごめんね」
ミナトから石を掠め取ろうとした彼、から。
ミナトは咄嗟に、石を握り締めていた手を退いた。その手を、簡単に掴まれた。
ミナトも、フミオも、まさか、そんな簡単に、掴まれると思っていなかった。
そこまで、
その石が自分のものだと主張するのなら、石を、返してもよかった。返そうと思った。その手を、掴まれて、ムキになった。
ミナトは引き寄せていた片膝の勢いで立ち上がろうとした。
その、勢い、を。
なにをどうしたのか、空いていた片手で、簡単に、撫でられただけで殺されて、ミナトはしりもちをつく。捲くれたスカートを気にしたのは、ミナトではなくて、彼、だった。
ミナトは、呆然として、彼が自分のスカートを直してくれるのを見て、いた。今まで、誰にも負けたことはない、のに。こんなふうにあしらわれることなんてなかった、のに。
緑色の、石を、きつく握り締める。
絶対に渡すものかと、思ったわけじゃない。握り締めた手の中に、石が、あっただけだ。
彼は、それを見て。もう一度、ごめんね、と口にするより先に、その口が。
その指先が、ミナトのあご先に触れるのと同時に近付いて、唇を、押し付けてきた。
その間、瞬きもせずに目を見開くばかりのミナトに、彼は眼差しを細めて見せて、それから、なにか考えるように一度離した唇を。
なにか考えるように瞬きをした、かと思ったら。
あご先に触れていた指先で、力任せに、口をこじ開けて、
「な……っ」
抵抗の言葉より先に、ミナトの唇に触れたのは、
再び、彼の、唇。
さっきよりも深い角度で重なって、口の中を侵される。その舌を、噛み切ってやろうと閉じた歯が、噛んだのは。
口の中に突っ込まれていた彼の指、だった。口をこじ開けている、親指。
親指の根元に噛み付く。
ほんとうに噛み付こうと思った舌も、唇も、逃げて。逃げた場所から彼は自分の親指が、ミナトに噛み付かれている様を、見ている。
ミナトは、奥歯に力を込める。
このままもっと、力を込めたら、食卓に並んだ食事のように噛み切れるだろうか。噛み、砕けるだろうか。
彼の、親指の皮膚に歯が食い込む。その皮膚を裂く、裂ける、と思った一瞬に。気を取られて。
握り締めていた緑色の、石を、取られた。
取られた、と思った直後に、口の中に血の味が広がって、そこで彼はやっと手を退いた。
退いた手を、フミオが掴んだ。素早くはないフミオの動きを、彼は避けずに、わざと、掴まれて、その手の甲に、フミオが、爪を立てるのを、見ていた。
ひとの指先が、爪が、器用になにかをはがし取るように、ひとの皮膚も、力の加減次第で、きれいに、はがれる、のだろうか。
フミオの力は、彼の手の甲に、三筋、血が滲む程度の傷を残しただけ、だった。
彼の手には、ミナトが噛み付いた噛み跡と。
フミオが、付けた、爪跡、と。
彼は自分の手の傷跡をじっと見て、
「うん、ごめんね」
フミオの頭を撫でて、階段を下りていく。途中、大事なことを忘れてた、というように振り返って、拾ってくれてありがとう、と笑った。
彼を見送るミナトの表情を、
「さっさと返さないからだ」
いつから見ていたのか。
タカシが階段の上から、見下ろしていた。
「悪いのはわたしか」
「おまえがそう思ってんなら、そーだろ」
さっさと、返してやればよかったのだ、と。
「あんな石、持ち主も確かめずにほいほいと渡せるか」
「そりゃそーだけどな」
階段を下りてきたタカシが差し出した手を借りて、立ち上がる。
タカシは、ミナトの唇の端を、親指の腹で撫でた。付いていたのは、彼の、血。
「猫の目石、だったろ?」
「あんな大きな、エメラルドのキャッツアイなんて、いくらすると思ってんだ」
「まーなー」
ふたりの会話を、フミオはきょとんとして聞いている。
タカシはフミオの両手を引っ張って立たせながら、
「フミオにとっちゃ、ただのきれいな石、なだけだったよなあ?」
うん、とフミオは素直にうなずく。
「あいつに、とっては?」
ミナトの問いには、
「大事なもん、なんだろ」
ミナトも彼から聞いた、それ以上でも以下でもない答えが、返ってきた。
石が、きれいでもきれいでなくても。石の価値がどれくらいのものであっても。石の価値などなくても。
彼に、とっては。
きっとただの、大事な、石。
「あいつ、誰。タカシのこと知ってた」
「クラスメイトのアキヤ」
「クラスメイト……」
だから、多分、見たことがあった。それだけの、人間。
「あの石、二、三百万するだろ」
聞けば、多分な、とタカシは肩をすくめた。
「うちの何年分の家賃だよ」
「そーゆーちょっぴりむなしい計算はするな」
帰るぞ、と言うので帰路に付く。
タカシに並んで、フミオと手を繋ぐ。
世の中にはたくさんのなにかがあるけれど、大事なものはそんなにない。
数少ない大事なものに、つける価値は、ひと、それぞれ。
内包物によって偶然できる光の筋を持つ石の直接の価値以外のなにかも、
故意に付けた手の甲の傷跡も、
口の中に広がった血の味も、
ゆっくり歩くフミオと手を繋ぐミナトに合わせる歩調も、
他人には意味のない、自分だけの、なにか。
おわり
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