021.潰れた苺
真夜中に、喉が乾いて水を飲んだ。
水道水は生ぬるい。
コップに残った水を捨てて、吐息した。はっとして振り返る。
……気配が。
したと、思ったけれど。
なにもない。
冷蔵庫を背にして座り込んだ。コップを手にしたまま、で。
ミナトはコップを、覗き込む。
生ぬるい水を捨ててしまったから、空っぽだ。それでも、コップを傾けると、数滴のしずくが集まって、しずくは水に、なる。
コップを傾ける。なんとなく、からだも傾いて、冷蔵庫の前に倒れこむ。コップの中の、しずくの集まった水がこぼれて頬に落ちた。
……冷たい。
飲んだら、ぬるかったのに。肌に触れると冷たくて。目を閉じた。
肌に触れた冷たさに、咄嗟に、呟いた名前がある。心の中で呟いた名前を、奥歯で噛み締めて、飲み込む。
冷たい……冷たい、体温をした、もうひとりのミナトが。
目を開いたら、すぐ傍に、同じように横になっている気がした。それとも、すぐ傍に立って、すぐ傍から見下ろしているような気がした。
目を、開くと。
もうひとりのミナトは、すぐ傍に、座り込んでいた。
もうひとりのミナトを、ミナトは、イクミ、と呼ぶ。
イクミと呼ばれたもうひとりのミナトはミナトをミナトと呼んで眼差しを細めた。笑った。なにが楽しかったのか、なにがおかしかったのか、なにを、馬鹿にしたのか。
ミナトはゆっくりからだを起こす。
並んで座ると、もう、
自分がミナト、だったのか。自分はもしかしたらイクミ、だったのか。よくわからなくなる。ただ心だけが、その中にあるなにかのカタチだけが、目の前のミナトの形をしたミナトを拒絶するから。
だから、かろうじて。
自分はミナトだと、自覚をする。
イクミはミナトを拒絶しない。同じ形をした同じものだと主張する。
ミナトはイクミを拒絶する。同じ形をしているだけの違うものだと主張する。
ほんとうは、
カタチだって、
違う、のに。
男のかたちと女のかたちをしているから、抱き合えば、違うものだとわかるのに。
ただこうして向き合っているだけなら、同じ、かたち。
同じ身長、同じ体重、同じ顔。
イクミのからだには筋肉が付かない。肩幅は華奢なまま、首は細いまま、腕は重いものを持ち上げられず、早く走ることのできる足もない。
ミナトの胸はそれ以上膨らまず、腰にも太ももにも脂肪が付かない。
ただ向き合っているだけなら、鏡に映る自分の姿を見ているようで、からだが、男にも女にも分化せずにとどまったまま、ただ、ここにある。
コップを、持っているのがミナト。
コップを、持っていないのがイクミ。
この家には、イクミのコップはない。
ミナトは空のコップを持ったまま、
真夜中の、台所で、ひとり、冷蔵庫の前に座っている。
幻だ。
もうひとりの自分なんて、いない。
冷たい、ものを、口にしたくて。冷蔵庫の前からからだをいざらせた。自分のからだが、重い荷物のようで、また、吐息する。
真夜中は、静かだと思ったけれど。台所では冷蔵庫のモーター音が、時々、思い出したように床に響く。真夜中は、暗闇の中にあるんだと思ったけれど、冷蔵庫の扉を開ければ、冷気と一緒に明かりが流れ出てくる。
重いからだで立ち上がって覗き込んだ冷蔵庫の中の、すぐ口にできそうなものは牛乳とオレンジジュース。それから、苺。
ミナトは流しにコップを置いた。
その瞬間、また、もうひとりのミナトが現れて、ミナトのすぐ傍から伸ばした手で、苺を、ひとつ、手に取った。
苺を、手に取ったのは、ミナトなのかそれとももうひとりのミナト、なのか。
苺を手にしたミナトが、ミナトに向かい合って、眼差しを細める。
苺を手にしていないミナトが、ミナトに向かい合って、眼差しを細める。
笑っているのか嘲笑っているのか、それとも、泣きたかったのか拒絶をしたかったのか逃げ出したかったのか。
ミナトのコップを持っていないミナトが、ふたり。
ひとりはミナト。ひとりはイクミ。
ひとりは確かにここにいて。ひとりはここには存在しない。
ひとりにはある体温が、ひとりには、ない。
ひとりには……。
ひとりには、手にとって、食べることのできる苺が。
ひとりには。
『ミナト』
どんな、声で呼ばれても。どんな感情で呼ばれても。どんな思いを込められても、どんな目で、見られても。
『ミナト』
苺を、かじって含んだ口が、唇が、
苺を手にとっていないミナトの唇に、口に、苺を移す。
触れた唇は冷たい。
苺を押し込めながら入り込んでくる舌が舌を撫でる、その舌も、冷たくて。
ミナトはもうひとりのミナトを突き放した。
筋肉の付かないからだは簡単にミナトから離れる。離れて笑う。全部、見透かしたように笑う。
ミナトは自分の口の中に自分の指を突っ込んだ。口の中に残るのは、ただ、冷たい感触。冷たい舌の感触。冷たいイクミの、感触。
苺は……。
どこにも、少しも、苺の味は。
確かに口移しされた苺の、味は。
どこにも、ない。
口に突っ込んだ指で苺は触れない。触れない苺は飲み込めない。
ミナトは流しに苺を吐き出す。触れることのできないそれは、下を向いて、口を開けば、口から落ちた。落ちたそれは確かに苺の色していた。潰れた苺の形を、していた。
ミナトは何度か咳き込んで、まだ、そこにいるイクミに見返った。イクミとの距離を測りながら、冷蔵庫の中の苺を確かめる。
そこに、ある苺は、ミナトには触れない。
タカシには見えない。見ることもできない。
これは、フミオの……苺。
ミナトはその、苺の形を、見ることができるだけ。
形を、見ることができるだけのミナトを、イクミが笑う。
触れることのできないものが確かにそこにあることに戸惑うミナトを、笑う。
笑いながら、
『逃げられないよ』
ミナトが少し間違った人間であることから。
『逃がさないよ』
ミナトを、イクミから。
笑う、イクミの声と姿と冷たさを拒絶して。
ミナトはゆっくり、ゆっくり目を閉じた。ずるずると座り込んで、床の冷たさと固さとワックスの匂いにすがるように横たわった。
『ミナト』
静かに、呼ばれて、一度だけ目を開けた。
ミナトの目の前に、床の、すぐそこに。イクミはかじりかけの苺を落として、踏みつけた。
果汁が、ミナトの鼻先に跳ねた。でも、冷たい感触はない。苺の香りもない。それは、なにもないのと同じ。
なにもない。
もうひとりのミナトも、イクミも、ない。いない。
次に……。
次に目を開けたときに、そこにあるのは、
潰れた苺、
だけ。
おわり
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