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020.はたち




『貴方はなにが欲しい?』
 そんなことを聞かれたことがある。
 そう聞いてきた笑顔があんまり優しくて、暖かくて、
『……別に』
 ただその笑顔があれば、
『なにも、いりません』
 ほんとうにほんとうに心からそう思ったのに。
 心から、残念そうに、
『そんなはずはないわ。もっとよく考えてみて。ね』
 否定をされて、笑顔が消えて。
『でも……』
 タカシの、
『物が、欲しいわけじゃ、ないんです』
 言葉は、届かない。
『物ではないの? それは買えないものなの? 大丈夫。貴方の手に入らないものなんてなにもないんだから』
 だから、なにが欲しいのか、きちんと言ってごらんなさい、と。
 言われたけれど。
 あのとき、彼女に、どう答えればよかったのか。タカシには未だにわからない。
 それだけがあればいいと思った笑顔は簡単に、
『欲しいものが言えないの?』
 なぜ言うことができないのかまったく理解できない、という表情に変わってしまった。
 笑顔が、見られないのなら、もう欲しいものなんて。
 ない。
 とは、伝えられないまま。
『ちゃんと、欲しいものを欲しいと言える大人にならなくてはだめよ? 欲しいものを手に入れることのできるおとなにならなくてはだめよ?』
『おとな……』
 簡単に口にするその言葉を、繰り返したら。……繰り返しただけ、なのに。なにを勘違いしたのか、
『はたち……』
 そうね、と彼女は考えて、
『二十歳までは待ってあげるわ』
 タカシの何かに、ラインを引いた。
『それまでは、なにも欲しくないなんていう貴方のわけのわからないわがままも許してあげるわ。だって仕方ないわよね。こどもだもの』
 ラインを引かれて、タカシは。
 彼女から目をそらした。
 彼女はタカシの欲しいものを知らない。知ろうともしない。
 でも、タカシは、彼女が欲しいものを知っている。彼女が納得する答えを、知っている。
『わかり、ました』
 こう、言っておけばいい。
『あなたの、期待にそえる答えを見つけられるように、努力します』
 彼女の顔を見ないまま。窓の向こうを眺めたまま、答えた。
 彼女は気が付かない。
 それがその言葉がタカシの本心だと、思っているから。
 だからもう、
 タカシは、
 なにも期待しない。
 なににも、期待しない。
 そう決めた、のに。
 一度。
 二度。
 三度。
 袖口を引かれて、タカシは視線を落とした。
 フミオが灰皿を差し出している。
 ベランダで。ろくに吸いもしないうちに灰になったタバコに、今、気がついて。タカシは、もったいない、と言いたそうな表情でタバコを灰皿に押しつけた。
 タカシの気持ちを察したのか、それともなんとなく、なのか。フミオは灰皿でタカシの小脇を突く。
 タカシは、フミオの額を突いた。
 まだタバコを吸うの? と聞きたいらしいフミオに、
「今日は、もーやめとく」
 フミオから灰皿を取り上げて、部屋に入る。
 フミオはタカシについて部屋へ入らずに、ベランダの柵にもたれてどこかを見ている。
「ミナトが帰ってきたか?」
 それ以外にないような気がしてそう聞いたのに、振り返ったフミオは、そうじゃない、と首を横に振った。
 フミオは、ミナトが帰ってくるのを見ているわけでも、待っているわけでも、ない。
「じゃあなんだよ?」
 聞くタカシに。フミオはタカシを見て、また、どこか、景色を見る。
 タカシが……。
 タカシが、タバコを吸うのも忘れて見入っていたものを、見る、ように。探す、ように。
 でも。
 タカシが見ていたものは、そんなとこから探しても。そんなとこから見てみても。
「なんも、ねーよ」
 あるわけが、ない。
 あるわけがないのに。フミオはベランダから離れようとしない。
「晩飯の買い物にでも行くか?」
 誘っても、動かない。
「じゃー、留守番しとけ」
 頼んだぞ、と部屋を出る。壊れて動くことのないエレベーターを通り過ぎて階段を降りる。団地の、中の、ひとつの、四角い棟の天辺の隅を見上げれば、まだベランダにいるままのフミオがどこかを見ている。
「なんもねーっての」
 そんなことはタカシがいちばんよく知っている。でも、もしかしたら、フミオには見えているのかもしれない。
 タカシには見えないものが、フミオには見える、から。
 ……見えているなら、ちゃんと、そこには、優しくて暖かいものが見えているといい。
 歩き出したタカシをフミオが見下ろす。いってらっしゃい、と手を振る。
 タカシには見えていなくても、タカシが気が付かなくても、フミオは手を振る。
 タカシが買い物から戻ってきたとき、出て行くときと同じように見上げたベランダには、フミオとミナトが並んで座っていた。
 ふたりで、どこかを見ている。
「なんか見つかったかー?」
 どんなに大声で聞いたって、高い場所にいるふたりには聞こえない。聞こえるように言ったつもりもない。ひとりごとよりももっと、小さな声で、言った。
 ミナトがベランダから身を乗り出した、と思ったら、大声でタカシを呼んだ。
 どんなに大声を出しても届かないと思ったけれど、ミナトの声は、ちゃんと聞こえた。
 部屋に、入れば。ふたりして、おかえり、とベランダから顔を出した。そのまま、ベランダにいるままだったから、
「なんか、いいもんでも見えてんのか?」
 ミナトとフミオは、ベランダの、座り込んだ場所からタカシを見上げた。ふたりして、タカシを指差した。
 フミオの声を聞くことはないけれど。
 ミナトの声が、
「タカシが見えた」
 フミオと顔を見合わせて笑った。
「タカシは、わたしの声が聞こえただろう?」
 物が……。
「聞こえた聞こえた。近所迷惑だからあんまりやんな」
 物が、欲しいわけじゃないんです。
「わたしも聞こえると思ってたわけじゃないんだけど。フミオが聞こえるって言うからやってみた」
「フミオが?」
「どうも、ほかの棟に反響? して、声が届きやすいみたいだ」
 また、フミオと顔を見合わせて、
「というから試しにやってみた」
 試しに……。
「なんでも、試してみるもんだな」
 満足そうにミナトが笑う。
 試しに。
 あのときも、試しに、言ってみればよかったんだろうか。
 欲しいものは物ではなくて、あなたの、笑顔、だったと。
 言ったら、通じただろうか。わかってくれただろうか。
 でも。でもそうしてもらった笑顔は、本当に欲しかった笑顔なんだろうか。それは欲しいと言って、もらうもの、だったんだろうか。
 おとなになれば、わかるんだろうか。
 自分がほしいと思ったものをほしいと言える自分に、なれるんだろうか。
 タカシは自分の足元を見下ろした。
 はたち、までの時間が、多いのか少ないのか。そのときになってみないとわからない。今はまだ、そんな先のことは、どうでもいい。そのときに、なにを欲しいと思っているのかなんてことも、どうでもいい。今はもう、あのときの彼女のあの笑顔が欲しいとも思わない。この先に、なにを欲しいと思うのかなんて想像もつかない。
 足元に見えるのは、ただの、ベランダの、コンクリート。それだけで、それ以外の、なにものでもない。
 ……なにかのラインが、そんなところに見えるわけでもない。
 足元を、タカシは蹴飛ばして。
 フミオとミナトと並んで座り込んだ。
「なに蹴飛ばしてんだ」
 ミナトに聞かれて、並んで座るミナトの顔がすぐそばで。
「タカシ?」
 たかし、と動いた唇に、唇で触れると。ミナトは意表を突かれた顔をした。タカシはその唇で笑う。
「なんだ、誘ったんじゃないのか」
 なんとなく、誘われた気になったけれど。
「あほか」
 ミナトは、なあ、とフミオに同意を求めながら、
「欲しがってんのはおまえだろ」
 そう言われれば、
「……そーだな」
「じゃあ、おまえが誘え」
「はいはい」
 ミナトを、
 軽々と抱き上げた。
 ふと、フミオが何かを見つけたように、タカシの足元を見る。じっと見る。
 タカシは、
「なんもねーよ」
 なにもない、足元を、もう一度蹴飛ばした。
 なにも、ない。
 引かれたラインが、消えることもない、けれど……。


おわり


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