TOP  小説TOP ・ 前へ  目次  次へ



019.深海




「まだ見つからないの?」
 なにしてるの? 馬鹿なんじゃないの?
 上からものを言う少年に、彼の口元は笑って見せた。
「探しているよ。これでも必死にね」
「ひとひとり探すのに、いったいどれだけの時間をかければ気が済むの」
「さあ、どれくらいだろうね。見つかってみないことには、なんとも」
「ずいぶん、のんきなことを言うんだね」
 部屋をノックする音に、ふたりは一時会話を中断する。運ばれてきた飲み物を、彼は受け取り、少年は、必要ない、と簡単な手振りで断る。
 彼がカップにゆっくりとミルクを入れるのを見ながら、
「あなたも、上から責められているんじゃないの? 彼を逃がしてもう二年?」
「そう、ちょうど二年、になるかな」
 彼はミルクをかき混ぜる。
「君は? 彼女を失ってからどれくらいになるのかな? 二年半……もう三年になる、かな?」
「失ったわけじゃない」
「……ほう」
 そうかい、それはすまない言い方をしたね、とまた口元だけが笑う。
 少年は特に表情を変えず、彼が飲み物を口にするのを見る。
「あなたのティンカーベルと一緒に暮らしている彼女を、早く僕に返して」
 少年は先ほどから少しも表情を変えることがない。それは少年にとって表情を変えるほどのことではないのか、それとも、懸命にそうしようとしてそうしているのか、彼にはどうでもいいことだった。
 同じように、彼の事情も少年にはどうでもいいに違いない。
「ミナト、と言ったね。君の彼女は」
 今さら、そんな質問に少年は答えない。
 彼はカップを置かないまま、
「君のからだが、深海の底で腐ってしまわないうちに見つけたいとは思っているよ」
「僕のからだなんてどうでもいいよ」
「……そうかい」
「そうだよ、と何度も言っているよね」
「そう、かい」
「もともとあんなからだに用はない」
「しかし、そんなからだ、でも、なければ困るだろう。君が望むものに君の遺伝子が繋がらない」
「だからああして、海の底に預けてある」
「なのに、腐ってしまってもいい、と?」
「最悪、それでもかまわない」
「彼女が、見つかれば……?」
 少年はふと、自分の手のひらを見る仕草をした。五本の指を順に折りたたんで、そこになにを掴もうとしたのか。
「ミナトなら、もう見つけてる。いつも僕の見ている先にいる」
「君の……ね」
 少年がつとそらした視線の先を彼が追う。そこには、部屋の壁があるだけだけれど。
 少年はきっと、彼女を見失ったことがない。
「ないよ、そんなこと、あるわけがない」
 そうかい、と彼は答える。
 少年の言う、ミナトという少女とともにティンカーベルがいるという。ティンカーベルの固有名詞になど興味はなかったし、この先もどうでもいいことだとは思うけれど。
 フミオ、という。
 二年前に逃げ出したティンカーベルを、彼は気に入っていた。フミオがまだ「ここ」にいいたとき、フミオはフミオと同室にいた女性のティンカーベルの形を再現して見せた。あれは空っぽだったけれど、あの女性は、そう、最初から空っぽだった。空っぽのものを空っぽに再現して見せた。
 フミオ、とこの少年が呼ぶティンカーベルは、あの女性に中身があったなら、その中身まで再現しただろうか? ほんの少しの笑い方の癖や、髪のねじれ方や、声の高さや瞳に映るものの色まであの女性を再現することができただろうか?
「君が、あのティンカーベルの存在を教えてくれていることには感謝しているよ」
「だったら、さっさとミナトを見つけて」
「もう少し、詳しい情報があればね」
「僕はミナトの心を見てるだけ」
「彼女のカタチがどこにあるかまではわからない、と?」
「そう言ってる」
「彼女の心が、常に少年ふたりの名を呼んでいるのを聞くだけ、だと……」
 そう言っている、と少年は答えない。答えないことで、ふたりに対する思いがどんなものなのか彼には推し量ることができるような気がする。
 少年が立ち上がるのを見て、
「名前だけでもわかっているのはありがたいことだよ。ただ、今のこの世界にはひとの数が多すぎる。いつのころからか戸籍の管理もされていない状態で、どこに誰が住んでいるのかわかっているのは、そこに住んでいる本人だけなんだよ」
「そんなことわかってる。だからさっさと探してよ」
「そうだね」
 カップをソーサーに戻す硬い音に、少年はまず耳を傾け、それから目を向けた。
 そんな、仕草に、彼はまた口元だけで笑う。
「そうだね、なるべく早く探さなくては。こちらは、君にも興味がある。できれば君のからだが腐ってしまう前に、そちらも見つけたいと思っているよ」
「できるなら、してみれば?」
「できるのなら、そうするよ。君というティンカーベルの存在も捨てがたい」
 少年は彼の声を聞き、彼を見る。
「そんな名前で僕を呼ぶな。鳥肌が立つ」
「……その、肌に?」
 少年の肌は白い。白くて白くて、青く見える。触れれば、きっと、冷たいのだろう。氷のように氷の温度で冷たいわけではなくて、ただ、体温がない、という冷たさなのだろう。
 少年は喉の奥で笑った。この日初めて表情を作った。
「そう、この肌に」
「それはますます、興味深いね。綺麗な籠を用意して閉じ込める準備も一緒に進めておかなくては。君もまた、この世界の貴重な妖精なのだから」
「そんなにかわいらしいものだと本気で思ってるわけじゃないくせに」
 おや、と彼は眉を上げる。
「思っているよ」
 心の底からそう思っているのか、嘘を吐いているのか。
「あ、そう」
 少年にはどうでもいいことだった。
 十四、五歳の背格好の少年は、よく磨かれた床に映る自分の姿を見下ろした。
 つるりと姿を映す足元の向こう側では、少年と同じ背格好をしたミナトが、笑っている。
 ともにいたとき、あの少女はいつも静かに笑っていた。くすくすとかわいらしく笑っていた。
 なのに今はその声が、笑い声が聞こえてきそうなほどに大きな口を開けて笑う。なにがおかしいの。なにがそんなにおもしろいの。なにがそんなに、楽しいの。
 笑うミナトにフミオが抱きつく。そのフミオを抱き上げたら、抱き上げられたフミオが少しすねたような顔をして、それがかわいくてミナトは笑う。
 背後から現れたタカシが自分の腕を捲くって見せて力こぶを自慢する。真似をしたフミオにはそれはない。ミナトには少しある。タカシは少し無理をして、なんとかふたり一緒に持ち上げる。ミナトはまた笑う。子供のように笑う。大声で、笑っている、のだろうか。
 少年にはその声は聞こえない。でも、楽しくて楽しくて仕方がなくて笑いたい、そのココロが見えるから。ココロだけが見えるから。
 タカシが、背中から抱き上げているミナトの首筋に唇を押し付けた。少し、ミナトの笑い方が変わった。なにかを期待してタカシに振り向いた眼差しも。それでも離さずにいるフミオを抱いたままの腕の感触も。
 今、そこにあるももを手放したくないと思っているミナトの感情のすべてが。
 ココロが見えるから。
 ココロしか、見えないから。
「……ばかばかしい」
 少年は足元の姿を踏みつけた。
 踏みつけたのは、少年によく似たミナトの姿だったのか、それとも床に映った少年の姿、だったのか。
「ミナト……最後に君を手にするのは僕だよ。それまでは笑っていればいいよ。元気でいればいいよ。そうであればあるほど」
 踏みつけた床を見下ろしたまま、
「味わう絶望が大きくなるだけなんだから」
 少年は彼に見向く。ほかにすることがないように、もう一度椅子にかけた。
「早く……早く彼女を見つけてよ。僕は僕のからだが腐ってしまってもかまわないけど、ミナトはこの冷たいからだがずいぶん嫌いだから、間に合えば、もう一度あのからだを使ってもいい」
 彼はまだ中身の残っているカップに手をかけたけれど、結局、手には、しないまま、
「そうだね。君の望みを叶えるにはそれが一番いい。ひととひととの交わりはそうであるべきだと思っているよ。優しく触れるのがいい。健康なからだを無理に開くのはよくない」
 は、と少年が笑った。
「まさか、この場所でそんなあたりまえの言葉を聞くとは思わなかった。でもそうだよね、僕はミナトのからだに傷を付ける気はない。そのときがくれば優しくするよ。ミナトが望む温かい僕をミナトのあの柔らかい場所で受け入れればいい」
「ひとつ、聞いてもいいかな」
「なんだよ」
 少年はもう一度見た床に映る自分の姿から目をそらし、身を乗り出すようにテーブルに肘を付いた。
 少年、とはいうけれど、その姿は儚くて、少年こそが少女に見えることがある。その少女を。まるで、鏡に映った自分を欲するように。
「色濃い、同じ血を持った片割れと肌を合わせる狂気は、いったいいつ君に生まれたのかな、と、思ってね」
「なんだ」
 そんなことか、と少年は興味を失った顔をした。肘を付くのをやめる。
「名前が付いた瞬間からだよ」
「生まれたときから、ということかい」
「違うよ。生まれ出たとき僕たちは同じものだった」
 同じ、ただの、ひと、だった。
「一緒に生まれてきた僕たちを勝手に男と女に分けた、その瞬間からだよ。僕は男でミナトは女だった。そういう名前がついた。男と女になった。男が、女を欲しがってなにが悪いの。なにが間違いなの。これは狂気じゃない」
「自然の摂理。つまり、神の意思である、と?」
 そう言った彼ですらおかしなことを言っていると思ったのか、その表情が口元だけでなく、微かに笑った。少年も笑ってみた。足元に映っていた少女を脳裏に思い浮かべ、口元だけで笑った。
「違う。僕の意思だよ。でも、そうだね、そう思われても別にかまわない」
 神だなんて。
「そんなものがこの世に存在するならね」


おわり


TOP  小説TOP ・ 前へ  目次  次へ