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018.片方だけの翼




 ただいまー。と家に帰ると、ちょうど、台所で。
 疲れたようにテーブルに肘を付いたミナトの耳元にタカシが顔を寄せていた。
 ミナトは裸で、
 タカシが、耳元になにか言ったのか、それともタカシの仕草がくすぐったかったのか、ミナトは首をすくめて身をよじる。
 ミナトが笑っていたのかどうなのか、玄関からふたりを見るフミオにはわからない。ミナトは向こうを向いていて。
 タカシの表情も、ミナトの髪に埋もれていて。
 タカシはミナトの髪に指を絡めて仰向かせ、ミナトの、耳元から唇に、唇を押し付ける。もう片方の手のひらがミナトの背中から胸元にたどり着いたあたりで、玄関に立っているフミオに気が付いた。
 上半身裸のタカシは、フミオが抱えていた数冊の本を見て笑った。ミナトの髪を撫でると、多分、それまで自分が着ていた制服のシャツをミナトの肩にかけてやる。
 ミナトもフミオに見向いて、
「おかえり」
 図書館帰りのフミオが、なにを借りてきたのか気にする顔をした。
 フミオは自分の抱えた本を見下ろして、テーブルの、ミナトの向かい側に座り込む。
 タカシがバスルームから、
「ミナト、シャワー浴びろよ」
「タカシの後でいい」
 フミオが広げる本がおもしろそうに覗き込む。
 外の空気はまだ肌寒いけれど、家の中は暖房が効いていて暖かい。ミナトは自分が裸でいることを気にしない。
 風邪ひくなよ、とバスルームからタカシの声が聞こえて、ミナトは、ひかない、となんの根拠もなく返す。フミオが自分の部屋から毛布をずるずる引きずって持ってくる。ミナトに、掛けようとして、手が、ミナトの肩に触れた。
 今まで外出してたフミオの手は冷たくて、一緒に毛布に包まった。
 向かい合わせではなく、隣り合わせた椅子に並んで掛けて、並んで毛布をかぶる。
 テーブルの向こう端に置き去りにした本をミナトが手を伸ばして引き寄せる。
 フミオも、真似をして手を伸ばした。
 伸ばしたふたりの手の長さは、同じ、くらい。
 肩口から、指の先まで。
 立って並べば、その身長も同じ、くらい。
 床に着いたかかとから、頭のてっぺんまで。
「フミオ、おっきくなったなあ」
 同級生と並べば、まだ、まだ、小さいけれど。
「大きくなった、なあ」
 出会った頃に比べればずいぶん大きくなった。もうすぐミナトより大きくなる。
 出会った頃。
 フミオはずいぶん小さかった。
 一年……もう、二年、も前の話に、なるだろうか。
 フミオはミナトが拾ってきた。
 タカシが学校から帰ってくると、ミナトしかいないはずの家の中に、なぜか、フミオがいた。誰だ? とタカシが聞いたので、フミオ、とミナトが答えた。
『あ、そう』
 タカシの返事は簡単だった。
 夜になると、フミオは与えられた部屋ではなくて、なぜか、ひとの部屋のドアの前で毛布に包まって眠った。ミナトが誘っても、タカシが誘っても、一緒に寝ようとはしなくて、いつもひとりで、でも、いつも、ミナトかタカシの傍で眠った。ミナトがタカシの部屋にいても、タカシがミナトの部屋にいても、どちらでも、ふたりのいる部屋のドアの前で、ひとりで眠っていた。
 ある晩、ごん、と音がして、タカシの部屋から裸で出てきたミナトは自分の足元を見下ろした。
 フミオが眠っていた。ミナトが勢いよく開けたドアが背中を叩いても、それでも、静かに眠っていた。
 フミオが眠っているので、ドアがそれ以上開かなくて、ミナトはタカシの部屋から出られない。
 戸口で立ち尽くすミナトに、
「どーした」
「……フミオ、ドアで殴っちゃった」
「はあ?」
 タカシが力任せにドアを押すと、ドアが開いた分、フミオも床の上をいざった。でも、それでも目を覚まさない。
 タカシもミナトも、フミオをフミオの部屋に連れて行ったり、自分の部屋に入れたりしようとはしなかった。そうしてしまうと目を覚ましてしまう。目を、覚ましてしまうくらいなら、眠れないくらいなら。どこででも、眠れる場所で眠ればいい。
 ふたりはフミオが目を覚まさないのを確認して、そうして自分の部屋で眠った。
 でも。
 明け方、フミオが目を覚ますと毛布の中にミナトがいた。裸のミナトが寒そうにくしゃみをする。くしゃみを、するけれど、まだ眠っている。
 フミオはびっくりして、何度か瞬きをした。
 自分のくしゃみでも目を覚まさなかったミナトは、フミオの瞬きの、音が、聞こえたように目を覚まして、
「なに?」
 と、フミオに聞いた。
 フミオは咄嗟に、なにもない、と首を振った。
 なにもない。なんにもない。
 なんにも言ってない。なにも、言えない。言葉にする声が、ない。
 だから、なに? と聞かれるようなことは、なにもない。
「そうか?」
 ミナトは、なにもない、と何度も何度もフミオが言ったのを聞いたように返事をした。なにもないことに安心をしてまた眠る。
 フミオはなんとなく、起き上がって、裸のまま眠るミナトを見下ろした。
 華奢な肩と細い手足と、膨らみかけた胸とぺたんこのお腹を触ってみる。
 まあるくなりきっていないからだは、女性、のものとは違う、でも、子供でもない。柔らかい肌は男でもない。
 フミオはミナトから毛布を剥いで、白い背中を触ってみた。もしかしたら、ある、のかもしれないと思った翼は、ない。
 真っ白で、立ち上がれば床に着くような、広げれば、大人でも男でもない軽いからだを空に持ち上げる翼を。
 なぜか、想像した、のだけれど。
 翼、なんてない。
 だからここにいる。こうして、床の上で眠っている。飛べない重いからだを支え続ける二本の足を休ませる。
 ……ここに、いる。
 このままどこにもいかないで。
 フミオはミナトに毛布を掛け直す。ふと、掛け直そうと思った毛布が、ミナトの背に触れて、片方だけの翼、に見えて、また瞬きをした。
 どうして、そんなふうに見えたのかわからない、けど。
 フミオは掛け直した毛布に一緒に包まって眠った。毛布の端を掴んで眠った。
 翼、なのかもしれないそれを掴んだ。
 ……どこにもいかないで。
 でも。
 もしも。
 もしも、翼が欲しいなら……。
 そんなことを考える。
 いつでもあげるよ、と考える。
 でも、だけど。
 本当は、そんなことミナトは考えていないかもしれない。考えたこともないかもしれない。フミオが勝手に、思っただけのことなのかもしれない。
 こんなふうにミナトの背中に片方だけの翼があるように見えるのは、もともと両方あった羽根の片方をもがれたからなのか。どこかに自ら置いてきただけなのか。それとも、誰か、と分かち合って生まれてきたのか。それとも。翼が欲しいと、願っている最中、なのか。それとも。
 きれいだな、と思うそれだけの理由で、フミオが勝手に見ている幻なのか。
 わからないまま。
 あれから一年……二年が経って。
 フミオは少し大きくなった。
 ミナトは変わらず、変わらないままで。今でも不意に、柔らかい毛布が、優しい片方だけの翼に見えたりするから。
 フミオは毛布の端を掴んで目を閉じる。
 本を見ていたミナトの笑った声が聞こえた。
「寝るな」
 昼寝したら夜、眠れなくなるぞ、と笑って、
「寝かせない」
 並んで座っていた椅子からするりと腰を落として、床に座り込む。
 床から、椅子に掛けたままのフミオを見上げて。伸ばした、さっきは本を手繰り寄せた手でフミオの襟元を引っ張った。
 フミオは膝で立つミナトとキスをして、キスを、したミナトの歯がフミオのシャツのボタンを噛んだ。ボタンをはずして、はずした場所に唇を押し付ける。襟元から順に下がって、ミナトはフミオのベルトをはずす。フミオ自身に直接触る。でも、反応がない。
「眠くて、したくない?」
 その、場所から見上げてくるミナトに、フミオは微かに首を振る。ミナトはそこが手の中で反応をはじめると、フミオの膝の間に割り込んで口に咥えた。
 ミナトには、まだ、タカシとの行為の熱が残っていて、フミオを舐めながら、フミオを口の中で感じながら、自分のその場所に、自分の指を入れ込んだ。
 シャワーを終えたタカシは、ふたりの行為に気付かない振りをして自分の部屋に入る。
 ふたりはふたりだけで、ふたりの行為に夢中になる。
 ミナトの背中に翼が、あってもなくても。こうしている今日は昨日と変わらない。明日も、今日と、変わらないはず、だった。
 変わらないで、と願う。
 その翼が本物でも偽物でも。
 誰も、飛んでいってしまわないで。
 フミオがつま先まで反応するのを見てミナトはさらに夢中になった。
 ミナトの口の中の熱さにフミオはかたく目を閉じて、ふたりに引っ掛かる毛布の端を強く掴んだ。
 翼……なのかもしれないただの毛布を、強く、掴んだ。


おわり


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