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016.濁って沈め




 食事が終わったので、タカシの横に立って、タカシが食器を洗うのを見ていた。
 ぼうっと見ていた。
 タカシは手際よく、三人が使った同じ皿を三枚と、同じうつわをみっつ、泡だらけの泡を流して積み上げていく。
 ミナトは皿を見て、うつわを見て、流れていく泡を目で追う。
 タカシが一度肘でつついたのは、ミナトが邪魔だったからでも、見てるなら手伝え、と言うわけでもなかった。
 ただ単に、触れただけだ。あんまり傍にいたから、触れただけ、だった。
「なんかおもしろいか?」
 と聞かれて、
「ヨゴレが、流れてくなと、思って」
「そりゃ、流してるからなあ」
 わりと暖かい休日だった。
 食器を洗い終えると、フミオがタカシのシャツを引っ張った。
 フミオは、ミナトがタカシの食器洗いを見ていたように洗濯機を見ていて、洗濯が終わったので呼びに来た。三人でぞろぞろとベランダに出て、ミナトは、タカシとフミオが洗濯物を干すのを見ていた。
 ……しばらくは、洗濯物干しを見ていたけれど。
 ミナトは飽きたようにベランダから身を乗り出した。どこかの家族が仲良く洗車をしていたので、タカシとフミオが洗濯物干しを終えるまで、どこかの家族の車がきれいになっていくのを見ていた。
 フミオに手を引かれてバスルームに行くと、手伝え、というわけでも、おまえの仕事だ、というわけでもなく、スポンジを手渡されたので浴槽を洗った。
 フミオが水を流す。まだ水浴びをする季節ではないので、お湯にする。バスルームに三人でいるのは狭かったので、タカシはさっさと出て行った。あとは任せた、と言われたわけではないけれど任されて、ミナトはフミオと風呂を洗った。
 フミオが湯を流す。
 ミナトは湯が流れていくのを見送る。
 排水溝に最後の泡が流れて落ちた。
 排水溝が泡を吸い込む鈍い音がした。
 文字にしたらカタカナで、濁音がついたような音だった。
 その音に、ミナトはなんとなく座り込む。
 ぺたん、と濡れた浴槽にもたれて座り込んで、ミナトも濡れる。
「……おまえさんたちねえ……」
 様子を見に来たタカシは、ミナトと、なぜかミナトと一緒になって座り込んで濡れいてるフミオに頭を抱えた。でもずぶ濡れのふたりに頭を抱えたわけではなくて。
「今度からは洗濯が後……」
 家事の手順を考え直す。
「風邪ひく前に脱げよー。ついでに少しあったまってから出て来い」
 ミナトとフミオの服を、
「ほれ、ばんざーい」
 子供にするようにバンザイをさせて脱がせて、もう一度洗濯を始める。
 フミオが出した湯を、ミナトは頭からかぶった。フミオがシャワーヘッドを差し出してくるので受け取って、フミオの頭から湯をかけた。
 ミナトはフミオの濡れた髪を撫でて、頭を撫でて、思いついたようにシャンプーする。同じ泡でフミオはミナトの髪を洗った。
 バスルームからは出しっ放しの水音と、ミナトとフミオがはしゃいでいる音がする。笑い声も、なにか喋っているのもミナトだけだけれど。タカシには、ミナトの声しか聞こえないけれど、ふたりではしゃいでいる。
「……本格的な風呂タイムになってやがる」
 タカシはベランダで、洗濯機が回り終わるのを待ちながら一服する。取り出したタバコに火をつけて、ひと際高く聞こえたミナトの笑い声に、
「なあにやってんだか」
 吐き出した煙を目で追って、一緒に笑った。
 あはは、とミナトは笑っていた。
 声に出して笑って、狭いバスルームの中で、体中泡だらけになったフミオとじゃれていた。ミナトも泡だらけで、泡だらけの素肌が触れ合うとくすぐったい。
 そのうちにミナトもフミオも笑い疲れて、シャワーを高い位置に固定すると、その下で、ふたりで、並んでシャワーを浴びた。
 頭の天辺から順に泡が流れ落ちていく。
 ミナトは、フミオの体を流れ落ちていく泡を眺めた。目が合ったフミオはきょとんとして、笑った眼差しで近付いてきた。唇が触れ合ったので、お互いの細い腕を絡めて抱き合った。泡の流れた素肌は、触れてもくすぐったくない。
 足元に流れていく泡が、ミナトの体を流れた泡なのか、フミオの体を流れた泡なのかわからなくなった。
 泡はまた、濁音のついた音を立てて排水溝に流れていく。
 流れていかないものは、絡まって残った髪の毛だけ。
 その髪の毛をつまんで捨てて、バスルームの掃除は終わり。
 きれいにさらさらバスルームを流れる水は、汚れのない、濁りのない水になった。


 他にやり方を知らないように、ミナトはフミオの髪を乱暴に拭いた。フミオはミナトの乱暴な手がおかしくて肩で笑う。くすくすと、そうされることが嬉しいみたいに、遊びの延長みたいに。
 ミナトの髪はまだ拭かないままでべったりと濡れていた。
 髪を伝って落ちた雫しずくが首筋を流れたのに、少し、びくりとした。
 冷たい、と思ったのか。気持ちが悪い、と思ったのか。
 ……両方だ。冷たくて、気持ちが悪い、と思った。
 しずくの、たかがそんなことで、夢を、思い出す。
 思い出す、夢がある。
 昨夜も、犯された夢を見た。
 それは暗闇に見る夢なのに。鮮明で。鮮明で。鮮明で。
 ほんの小さなきっかけではっきりと思い出す夢は、どこか記憶の一番透明な場所にあるみたいだった。それが澄んだ水の中なのか硬い硝子の中なのか、どこかは知らない。
 でも、見える。はっきりと。
 だからはっきりと思い出す。
 ……そんなものは、ぐるぐるぐるぐる。
 首筋を流れるしずくを。
 タカシが舐めて取った。
 ……ぐるぐるぐるぐる。
 ミナトはタカシを仰ぎ見る。
 眼差しで、しずくを吸い取った唇を求めたら、
「あ」
 タカシは、思い出して声を上げて、
「まった、ストップ」
 なんとなく洗濯セッケンの匂いのする手のひらでミナトの鼻先を押しやった。
「吸った。さっきタバコ吸った。すんません」
 ミナトは都合悪そうにタカシを睨んで、けれど引き寄せてキスを、した。
 タカシの口の中はタカシの吸うタバコの味がした。煙草の、煙と草の匂いがする。
 言葉に表しづらい我慢できない味がして、ミナトはまたタカシを睨んだ。
「だーから、謝ってるだろ」
 タカシは笑いながら、首筋から流れていくしずくを舐める。
 ミナトはフミオが差し出した歯ブラシをくわえた。ハミガキコの泡立った泡で匂いを包んで洗い流す。それで多少はマシになる。
 口の中の。
 口を開けて見せても見えない嫌な匂いとか。
 どこか一番透明な場所にある夢、とか。
 見えないのにそこに確かにあるものは、ぐるぐるぐるぐる、かき混ぜたらなにかに濁って姿を現したりしないだろうか?
 ぐるぐる、濁って見えたら、濁って沈め、沈めてしまえ。タバコの匂いのように吐き出せないなら、沈めばいい。ふと思い出すのが困難な、どこか奥の奥に見えないように沈められたら。
 吐きだすことも、皿や洗濯物や浴槽や体の汚れのように、セッケンを泡立てて力任せにこすって、それでも洗い流すことも出来ないのなら。
 沈めてしまえば、ちょっとはマシになるだろうか。
 同じ、この中に。
 この中に、自分の中にあることに変わりはないけれど。
 それでも……。
 ミナトはうがいをして、吐き出した水が流れていくのを見送った。
 それでも。
「……沈まない、けどな」
 そんなに簡単には沈まない。流れていかない。
 諦めたように吐息するミナトを、脱衣所の、洗面台の鏡の中からタカシが見ていた。
「静めてやろうか?」
 ミナトは鏡の中のタカシを見る。
 タカシは背中から回した手で、下腹部を撫でた。もう片方の手を、ミナトの口に突っ込んだ。
「せっかくハダカなんだし」
 指先がミナトの舌を引っ掻く。
 ミナトは特に抵抗、しないまま。
「……意味が違う」
「わかってる」
 タカシにもフミオにも、ミナトが朝からおかしいのはわかっている。昨夜もまた、おかしな夢にうなされていたことは、わかっている。
 タカシはミナトの腰を引き寄せた。指先を、口の中と、下腹部と。
 より奥に潜り込ませた。
 ミナトがはっきりと覚えているのは、フミオが脱衣所を出て行った気配だけだった。
 あとはタカシに預けて。
 わりと暖かい休日を過ごした。
 簡単な昼食を済ませて買い物に行った。乾いた洗濯物を取り込んで、夕食の支度をするタカシを、ミナトはフミオと一緒に見ていた。


おわり


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