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015.ティンカーベルの死骸




 誰か、が、ティンカーベル、と呼んでいた。
 それではかわいらしすぎて口にし辛いからと、誰か、以外の彼らはティンカーベルを略したティンクを略してT.K(ティーケー)と呼ぶようになった。
 まだミナトともタカシとも出会う前、フミオは部屋の隅で、そう、呼ばれていた。
 毎朝必ず同じ時間に、誰か、がやって来て、
「おはよう、今日も元気かい?」
 と聞いた。
 その時間が何時だったのかフミオは知らない。ただなんとなく、今日もこれがいつもの時間なんだと、思った。
 部屋の隅でひざを抱えて、その誰か、が自分たちのことをティンカーベルと呼ぶのを、聞いていた。
 部屋の中には、誰か、がティンカーベルと呼ぶにんげんが何人かいた。
 誰か、以外の人間がふたり一組でやって来ては、
『今日のT.Kはどれだ?』
『目立つものから連れて行け』
 フミオたちをT.Kと呼んで、いつも、部屋の中でも特別に目に付いた彼女を真っ先に連れ出して行った。
 フミオは彼女のことをよく覚えていない。
 濃くて赤い長い髪がくるくるしていた。青白い顔で、小さなくちびるはいつも少し開いていた。目は、薄い茶色だった。着ていたワンピースは痩せてしまったからだにサイズが合っていなくて、いつも肩からずり落ちていた。立ち上がると、フミオよりも頭がふたつ分大きかった。
 ふたり一組でやってきた人間に呼ばれると、意思も気力もないように立ち上がって、その手を引かれるままに部屋を出て行った。
 フミオは、彼女のことをよく、覚えていない。
 赤いくちびるや、痛そうなくらいに短くした爪は思い出せるけれど。
 彼女の外見なら、思い出せるけれど。


 部屋の中で、フミオはひざを抱えて、壁にもたれて時間を過ごしていた。
 隅が好きだったので、いつもその場所にいた。
 彼女は、戻ってくるといつも、フミオの横にぺたんと寝転んだ。フミオは同じ体勢で時間を過ごしたけれど、彼女は時間を持て余すように爪を噛み始める。
 後になって、フミオはふと思った。
 彼女は爪からなくした。
 ふたり一組の人間は、彼女は足からなくした、と言っていたけれど。
 彼女は爪からなくした。それから足をなくした。腕をなくして、首をなくした。そうしてなにもなくなって、なにも取り戻さないまま、なにも自分では見つけることができないままいなくなった。
 彼女のからだはいつでもフミオの傍に寝転んでいたけれど。
「おはよう、今日も元気かい?」
 誰か、の声に、もう、反応をしなくなった。
 誰か、はひどく悲しそうな顔をした。
「ティンカーベルがまたひとり、いなくなった」
 彼女のからだはずるずると部屋から引っ張り出されて、二度と戻ってこなかった。
 フミオは少し顔を動かして、彼女がいつも寝ていた場所を見た。
 噛み切られた爪のかけらが落ちていた。
 彼女が噛み切った、彼女のかけらが落ちていた。
 ひとのかけらは、ひとの一部で、ひとから離れたときに死んでしまう。
 ……死んだの?
 フミオは、彼女のことを覚えていない。というか、知らない。
 フミオがこの部屋に連れて来られたときにはもう、彼女はその声も、笑顔も、音に耳を傾ける仕草もなくしていた。空っぽだった。
 それでも、からだの中にはなにもなくても、動いていたのに。生きて、いたのに。
 動いている間は、生きていると、認識されていたのに。
 今は、そのからだもない。
 フミオは爪のかけらを見つめた。
 彼女が噛んでいた爪。
 爪を噛んでいた歯。くちびる。
 ぎざぎざだった爪。
 細い指先。痩せた手。痩せすぎて血管の浮いた腕。
 くちびる。
 くちびるにかかっていた、濃い赤い色をした長い髪。長い髪を受けていた薄い肩。
 それから。
 肩からずり落ちていたワンピース。草色、だった。草色からはみ出した足も細くて、だから長く見えたのか。
 細い、細い足首。筋の浮いた足。足の爪は、長かった。
 そう、長かった。
 フミオは、彼女を見る。
 いつも傍にいた彼女を見ていたように、今も、見る。
 爪のかけらから生まれた彼女は、いつものようにそこに寝転んでいた。
 その部屋にいた他のにんげんは、彼女が生まれてくるのを特に感情なく見ていた。フミオよりも小さな少女がいた。少女をなにかから庇うように座っている青年がいた。フミオよりいくつか年上の少年がいた。少年の友人らしい少年がいた。それから、彼女を、いつでも見ていた、サラリーマン姿が似合いそうな男性が、いた。
 彼らはフミオと同じように、いつも部屋の中の同じ場所にいた。その場所から、いつもと同じ場所に生まれた彼女を見る。
 男性が、彼女に触れた。くしを通されることなくうねって絡まっていた赤い髪に、指を絡めて口づけた。
 でも、そうするだけだった。
 フミオは彼女を知らない。
 だから、彼女の中身を作れない。想像できない。生み出せない。
 彼女は……。


 誰か、が彼らをティンカーベルと呼ぶのは、彼らが妖精の粉を持っていると思っているから。
 その物語の中では、妖精の粉をかけられ、信じれば、誰でも空を飛べるようになる。
 誰か、は、彼らが生み出すものを信じていた。信じようとしていた。
 世間では彼らのことを「間違えた人間」と呼ぶ。
 誰か、は彼らのことをティンカーベルと、呼ぶ。ただの人間を、空を飛べる存在にしてくれると、信じている。
「おはよう、今日も元気かい?」
 今日も、同じ時間に、誰か、がやってくる。
 誰か、は彼女の姿を見つけて目を細めた。笑ったようにも見えた。なにかを確かめるために凝視したようにも、見えた。
「彼女を生んだのは誰?」
 誰か、に、誰も、答えない。
 フミオはもうとっくに声をなくしていた。実は足もなくしかけていて、いつも抱えているばかりのひざから下は使い物にらなくて、今はひとりでは歩くことができない。ぼくだよ、と立ち上がることができない。
 少女は腕をなくしているので、指差すことができない。
 少年たちは耳をなくしているので、誰か、の言っていることがわからない。
 青年は、自由になる目で思わずフミオを見てしまわないように、少女だけを見ている。
 男性は、誰でもなくただ彼女だけを見ている。
「彼女を生んだのは誰?」
 再びの問いかけにも、誰も答えない。
 誰か、は吐息して部屋に入り込んだ。彼女に触る。……彼女に、触れない。
 見えるけど、決して、触ることはできない。
 誰か、はいまいましげに部屋の床を蹴った。部屋の中にいたすべてのにんげんに向かって言った。
「どうせ生むのなら、誰にでも見えて、誰にでも触れるものを生んでみればいいものを。そうすれば……」
 ……そうすれば。
「君たちは、この世界の財産になる」
 部屋の中を見回して、フミオに、目を止めた。
「でも、こんなものを生んでばかりでは、君たちはただ、気味が悪いばかりだ」
 フミオは、誰か、を見上げた。目が合って、見下ろされる。なにか違うものを見ている顔をされる。
「君だね」
 彼女を生んだのは、君だね。
「でも」
 でも。
「こんな出来損ないのティンカーベルはいらないよ」
 そう言われて、フミオは首を横に振った。
 フミオにとって彼女は出来損ないではなかった。
 フミオには、今ここにいる彼女も、ついこの間までここにいた彼女も変わらない。だって、同じ、中身がない。
 フミオには同じものだ。
「こんな、ティンカーベルの死骸などいらないよ」
 ……死んでいる、と言うから。
 フミオは自分の手を、見た。
 そうか……死んでいる、のか。
 彼女も、フミオも、フミオには同じもの、だった。
 ……死んでいる。
 きっとフミオも、死んでいる。
 でも。
『フミオ』
 なぜだろう。最近聞こえる声があった。もう忘れてしまっていた名前を、思い出した。かわいらしい少女の声だ。
 フミオは少女の姿かたちをまだ知らない。でも、すぐ傍で寝転んでいた彼女よりはよほど、知っている、ような気がする。
 姿かたちばかりを似せて作り出すことができないくらいには、十分に、その少女を知っている。
 きっと、もうすぐ逢える。
 きっともうすぐ、この部屋から出ることができる。
 だからせめて、このまま足を失っても、手を失っても、からだも足も失って、頭をなくしても、それでも。
 それでも……。
 声が、なくても。
 その少女の名前を。
 例えば、ミナト、と、呼んでいるのだと伝えることができるだけのなにかさえあれば。
 ……それでいい。
 でも、なにかってなんだろう。
 フミオは寝転がる彼女からも、誰か、からも、もう興味がないように目を逸らした。
 手も、足も、なくす場所ならまだたくさんあった。全部がなくなるまで、考える時間なら、たくさんあった。


おわり


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