014.どうぞご勝手に
まだ幼かった、ふたりでいたあの頃は。
ふたりでいることが絶対だと、思っていた。
「ミナトさん、ミナトさん」
屋敷の長い廊下の途中で母に呼び止められて、ミナトは、
「はぁい?」
と立ち止まった。母を見上げて、
「なんでしょう?」
ちょこん、とかわいらしく小首を傾げる。長く伸ばした髪を、頭の左右の高い場所で結んでいて、黒い真っ直ぐな髪が一緒に揺れた。母が少し小さい人で、ミナトもその年頃の平均の身長よりやや低い。
一生懸命に見上げてくるミナトに、母は少し困ったように笑いながら、ミナトと同じように小首を傾げて見せた。
「ねえ、ミナトさん。イクミさんがずいぶん不本意な表情をしているように見えるのは、お母さんの気のせいかしら?」
「フホンイ?」
それなあに? とミナトはさらに首を傾げた。そのたびに左右の髪がさらさら揺れる。
母の表情はあいかわらずで、ミナトはついとイクミを見返った。負ぶっていたイクミを間近で見る。
イクミとミナトは、ミナトの髪を短くしただけで、ふたり、同じ姿になる。
同じ姿の、同じ人間。同じ入れ物。
このときはまだ、中身さえも同じだと、そう思っていた。
ふたりでいることが、ひとり、なんだと思っていた。
ふたり一緒にいることは、当たり前、ではない。絶対だと、思っていた。
「イクミはフホンイ?」
聞くと、イクミはミナトと同じ顔をして、違う表情で、
「そうだね、どちらかといえばね」
フホンイだよ、と答えた。
「……ふぅん」
そうなんだ、とミナトは納得する。でも、意味はわかっていない。
ミナトが意味をわかっていないのは、イクミにも母にもわかっている。困ったものだよね、とあまり困っていない様子でイクミが肩をすくめて見せると、母は静かに柔らかく微笑んだ。
母はいつも静かで穏やかな人だった。のんびりとした人だった。
ミナトは母に似た口調で、のんきに、
「それで、ワタシは、なにをどうしたらいいの?」
「そうねえ」
と母はミナトと同じ口調で、
「イクミさんに聞いてみたら?」
ミナトはまたイクミを見る。よっこいしょ、と背負い直す。
背中から、ミナトの首にしがみついていたイクミは、
「僕……自分で歩く」
「それは、わたしのおんぶ、イヤ、ってこと?」
「そう、だね」
「イヤ、なのがフホンイ、ってこと?」
「……そう、だね」
「えー」
ミナトはかわいらしくくちびるを尖らせる。母もイクミも、そんなミナトをかわいらしいとは、思ったけれど。
「『えー』じゃなくて」
と言われてミナトは少し考えて、
「じゃあ、抱っこにする?」
「……自分で歩ける」
ミナトは咄嗟に、
「それはいや」
「どうしてさ」
「だって、イクミ遅いんだもん」
そのひとことに。
一瞬、イクミが傷付いた顔をした。
一瞬、ミナトが、傷付いた顔をした。
一瞬、同じ顔が、同じ表情をした。
同じ表情をしたことに気を取られて、母がどこか申し訳なさそうに眼差しを伏せたことには気が付かない。
自分のことだけに精一杯だった。
お互いのことだけに、精一杯だった。
ふたりは同じ速度で歩けない。ミナトは元気で、どんな速度でも歩けるけれど。イクミはイクミの速度でしか歩くことができない。
イクミはイクミの理由で傷付いた。
ミナトはミナトの理由で傷付いた。
イクミは奥歯を噛み締めただけで理由を口にしない。イクミはミナトに追いつけない。
いつの頃からだったろう、物心付いた頃から、イクミはミナトに追いつけなくなっていた。だから、どんなに頑張っても、追いつけないのだ。そう決まっているのだ。
イクミがふいと視線をそらした。
ミナトは慌ててその視線を追いかけた。
ミナトは、ミナトが傷付いた理由を口にする。
「だって、離れちゃうよ?」
ミナトは、まるでお気に入りのぬいぐるみを抱くように、軽いイクミのからだを負ぶったまま離さない。
「ワタシとイクミ、歩く早さ、違うんだもん。違うと、距離が、離れちゃうでしょ? 離れちゃうのは、イヤでしょ?」
イクミが、そらした視線をミナトに戻した。
ミナトは、それでもイヤだと言われたらどうしよう、と恐る恐る、
「イクミ、そんなに、おんぶ、イヤ?」
離れたくない、というわけじゃない。
離れるわけがないと、思っていた。
同じ姿の、もうひとりの自分は、まるで鏡に映る自分だった。
鏡をのぞいて。
そこには必ず、自分がいる。
鏡をのぞいて、そこに自分が映らないなんてこと、ない。想像したこともない。
だから、
それは、絶対。
鏡に手を伸ばせば、鏡の中の自分も手を伸ばしてくる。鏡に触れた場所は、鏡の中の自分が触れる場所。
伸ばした手の。指先。手のひら。
もう片方の、指先。手のひら。
ひらひら、同じ速度で近付いて、触れた瞬間は冷たいのに、すぐに、冷たくなくなる。
ミナトがイクミを抱く手も、イクミがミナトに抱きつく手も、暖かい。
でも、離れたら、きっと、冷たくなる。
「……おんぶ、いや?」
泣きそうな顔をしたミナトに、イクミはずいぶん穏やかな顔をした。なにかを満足した顔をした。
「いやじゃ、ないよ」
「ほんとう?」
「……うん」
イクミは柔らかく笑って、
「だから、ミナトの勝手にしていいよ」
その口調も柔らかかった。
『ミナトの、好きにすればいいよ』
そんなふうに、聞こえたミナトにも、言ったイクミにも嘘はなかった。
鏡の中に映る自分は自分だから、なにを考えているのかなんて、手に取るようにわかった。間違えようがない。
だから、ふたりがふたりでいることに間違いなどないはずだった。
ずっと、ミナトの鏡にはイクミが映っているはずだった。
ずっと、イクミの鏡には、ミナトが映っているはずだった。
「イクミ……。ねえ、イクミ。辛い? 大丈夫?」
イクミは夜になると、その日に溜まった疲れに熱を出した。
同じベッドの中で、ミナトはイクミとまくらを並べて、熱であつくなったイクミの手を握って眠った。
繋いだ手の温度は、同じ、だった。はじめは少し違っても、そのうちに一緒になった。
そんなふうに、ふたりでいることが絶対、だった。
それは間違っていなかったはずなのに。
いったい、なにの、どこを間違えたのか。
どこを間違えたから「絶対」であったことが、そうでなくなったのか……。
どこを、間違えた?
なにを間違えた?
誰が、間違えた?
……誰が、間違えた?
タカシとフミオと暮らすようになって、気が付いた。
どうしても歩調の遅いフミオを抱えて歩こうとするミナトに、呆れたようにタカシが言った。
「手を繋げ、手を」
「……繋いで、わたしがフミオを引っ張って歩くのか?」
「あほ。おまえが、ゆっくり歩いてやれ。合わせろ。気遣え」
それは今まで聞いたことも考えたこともなかった言葉だったから。
ミナトはなにを言われたのか分からない顔をした。それでもフミオと手を繋いだ。ゆっくり、歩いた。
……なんだ。
そうすることは、意外に、
「なんだ、簡単じゃないか」
少し呆然として呟いたミナトを、タカシが笑った。いつか見た母の笑顔のように柔らかく、笑った。
「やればできるじゃねーか」
まるで母親が頭を撫でるように、くちびるで唇に触れた。
……母親のようだと、思ったけれど。
あのひとはそんなこと教えてくれなかった。
誰も教えてくれなかった。
……あのとき、イクミに歩調を合わせて歩いていたら、とふと思う。
ふと、思っただけだ。
ミナトと、イクミと。ふたりがふたりでいるためには、ふたりはいつも一緒にいる必要があった。
ミナトはイクミを離さなかったし、イクミもミナトを離さなかった。
離れる必要がなかった。
でも今は、傍にいる必要がない。
ほら、傍にいなくても、一緒にいなくても、こんなに、平気だ。
でも、平気だ、と思っているミナトをイクミは笑う。
笑っている。
夢の中でも。
現実でも。
あの日。
ミナトが家を出ると決めたその日を、ミナトは誰にも言っていなかった。
でも、当たり前のように、ミナトがしようとしていることにイクミは気が付いていた。
『僕を置いて行くの?』
ミナトは答えなかった。その顔も見なかった。
……見なくても、当たり前のように、イクミがしようとしている表情に、ミナトは気が付いていた。
『僕から離れるの?』
幼かったときに見せたあの柔らかさは、
『そう、ミナトの好きにすればいいよ』
柔らかさは、もうどこにもない。
突き放すように言う。
そうして、なにもかもをわかったふうに、言う。
『勝手にすればいいよ。でも覚えておいて。僕が、勝手にすればいいよ、と言ったから、ミナトは勝手ができるんだよ』
だから……。
『どうぞご勝手に』
おわり
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