011.黒猫
フミオがなにかを抱いている。
察するに、猫、か、犬。だろう、とは思う。
が、タカシにはわからない。相変わらずタカシには、フミオの生み出したものを見る事はできない。感じることもできない。
ただフミオの視線や、仕草から、なんかまた生まれたのか? と思うだけだ。
だから、フミオが抱いているのはもしかしたらウサギやイグアナかもしれなかったし、もしかしたら、フミオが想像した、タカシには想像も付かないようななにかなのかもしれない。
学校から買い物をして帰ってくると、フミオはすでにそのなにかと一緒にテーブルの下にもぐり込んで遊んでいた。
「ただいま」
テーブルの下を覗き込んで言うと、フミオは声で答える代わりに手をひら、と振った。安心した顔で眼差しを細める。ちょうど手を伸ばした場所に頭があったので、その髪の毛をくしゃくしゃと撫でた。
フミオの髪は赤ん坊の髪のように柔らかくて指に絡む。絡んだまま引っ張ってしまって、ごん、とフミオはテーブルに突っ込んである椅子の足に肩をぶつけた。
「うぉっ、悪いっ」
フミオにも不意なことだったけれどタカシにも不意なことだった。
でもタカシが慌てたほどフミオは気にせず、タカシがフミオにしたように、フミオは抱いているなにかの頭をくしゃくしゃと撫でる。多分、頭を、撫でている。
タカシはなんとなく、テーブルの下を覗き込んだまま、
「それ、今度はなんだよ?」
なにか、を指差す。
フミオはフローリングの床にまるをひとつ、描いた。それからツノを描くように、三角をふたつ。
タカシは、やっぱりそうか、と思いつつ、それでもわざと、
「オニ?」
フミオはきょとん、として、それから首を横に振った。さっきの絵に、ひげをつける。左右に、三本づつ。
「ネコ?」
そう、とフミオは首を振る。
そう、と、ミナトならその返事が聞こえるんだろうか? となんとなく考えた。
……考えてもしょうがないことなので、すぐに考えるのをやめる。
「何色? 三毛? 白? 黒? 茶?」
シロ、と、声にはせずフミオの口が動いた。
「白?」
そう、と首を振る。
フミオはタカシには見ることも感じることのできない白猫を抱き締めて、テーブルや、椅子の足の間に器用に挟まれて寝転ぶ。
「どーせならもっと広いトコで遊べ」
タカシはフミオの背中を背を押す。テーブルに両手をかけて、足でフミオを押し出す。
ずるーっと椅子ごと押し出されたフミオは、タカシのその行為に特に文句はない様子で、抱いていた白猫を床に下ろした……ようにタカシには見えた。
フミオの目線が猫を追う。猫はまたテーブルの下に入り込む。フミオも、入り込む。タカシもまたテーブルの下を覗き込む。
フミオがじっとタカシを見た。
「なんだよ?」
フミオはタカシに手を伸ばして、タカシの肩口に触れたかと思うと、それを、抱き上げる。
白い、猫を、抱き上げる。
今、タカシの肩に、いた。
タカシは自分の肩を見る。
猫が……いた?
タカシには、見えない。触れない。鳴き声が聞こえない。体温も感じない。重さも感じない。その毛の感触もない。
猫が、いた?
フミオは猫を抱いている。フミオの腕には、その重みが見える。ずいぶん重そうにしている。大きな、猫、なのだろうか。
タカシには人間の五感の、どこのチャンネルを合わせたら、その猫が見えるようになるのか。
フミオには人間の五感の、どこのチャンネルを合わせたら、その猫が見えないようになるのか。
その猫が、本当に、いるのか。いないのか。
フミオのような人間を、間違えた人間だというけれど、もしかしたらタカシのほうが間違っているのかもしれない。
でも、やっぱり、フミオが間違っているのかもしれない。
この世界には圧倒的にタカシのような人間が多い。それだけのことで。だから、多数決なら、タカシのような人間が、間違っていない、ことになる。
「ネコ、ねえ」
いつもなら、タカシはフミオに見えるものを気にしない。
でもちょっと、今、気にする。
ネコ、とタカシが口にしたので、
ねこ?
と、フミオが両手に持った猫をタカシに差し出す。
……見えない。
目を、凝らしても、見えない。
いっそ閉じてみたらどうだろう? と我ながらわけの分からない事を考えてみた。
目を、閉じる。
閉ざした目の中は暗くて、猫の姿は見えない。白、だとフミオは言ったけれど、黒、じゃないのか? と思う。
目を閉ざした暗闇の中にいる黒猫が目を閉じたら、もう、その姿はわからない。目を、開けば、光るその目でわかるけれど、タカシもまた目を開けば、タカシの暗闇は消え失せる。猫は、見えない。
結局、見えない。
目を閉じた闇の中にも、目を開いた現実にも。
それはどちらも、結局、見えないという、同じ世界。それがタカシの世界。
その逆が、フミオの世界。
そうして多分、その真ん中にミナトの、世界。
「こら、ふたりとも」
背中を蹴飛ばされてタカシは目を開いた。ミナトが呆れた顔で見下ろしてくる。
「なんでふたりしてそんな狭いところで寝てるんだ」
「寝てねぇ」
なあ? と同意を求めると、フミオはこっくり頷く。
こっくり頷いたフミオの傍にミナトは猫を見つける。
念のために、タカシは、
「ネコ、白だろ?」
と聞く。
「しろだよ。合ってる。なに? タカシにも見えるの? それ、本当の猫?」
「フミオにはホントのネコだろーけど、俺には見えねぇ」
「でも、しろ、って……てフミオと会話できた?」
「筆談。と、読唇術」
「なんだ、いつもどおりか」
「いつもどおりだ」
すべてはいつも、いつもどおりだ。
だから……。
「んじゃ、メシにするか」
タカシはテーブルの下から這い出る。一緒にフミオも引っ張り出す。両足首を持って引っ張り出す。
ミナトが再びタカシを蹴飛ばした。
「荷物じゃないんだ、もっと気を使って扱え」
「んなこと言ったって、フミオもおもしろがって喜んでんじゃん。でもまあ、そう言うなら……」
悪かった、とタカシはいつもミナトをそうするようにフミオを抱き上げる。
フミオは、とん、とタカシの胸を叩いた。
「お」
フミオは頬を膨らませる、から、
「ほら見ろ、お姫サマ抱っこは気に入らんらしーぞ。なあ?」
なあ、と言いたそうにフミオが頷く。実際、そう言っているかどうかはわからないが、そう言いたそうにしているのはわかる。
それで十分だ。
「しっかし、フミオ軽いなあ。ミナトより軽いだろ? メシだメシ。食って太れ」
手伝うというミナトの申し出をいつものように断って、タカシは台所に立つ。
にゃあ。
と、声がして驚いて顔を上げた。慌てて振り向く。
フミオとミナトの手元にいるはずの猫は、やはりタカシには見えない。
では……気のせいだ。
タカシとフミオとミナトは同じ場所にいる。でもたまに違うものを見る。
それをタカシは憂いたことはない。愁いたことも、ない。
だから……。
「おい、ネコはなんか食うのか? キャットフードがいい? そんなもんあるわけねーだろ」
だからまた、鳴き声が聞こえても、それも気のせい。
気のせいだと思わなければならない理由が、ある。
だから、猫が白だろうと黒だろうと。
「メシだぞー、手、洗って来いよー」
タカシはいつも、いつもどおり、だ。
おわり
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