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009.大人になったアリス




 いつでもフミオとタカシが傍にいる。

 フミオと手を繋いで歩く。
 タカシは少し前を歩く。
 みんな手にはスーパーの買い物袋を持っていて、がさがさがさがさ食材が揺れる。

『それは夢だよ』

 フミオがはにかんだように小さく笑う。
 タカシが当たり前の顔をして、夕食を食卓に並べる。

『夢、だよ』

 フミオがキスをする。それは子供のようなキスだけれど、優しい。
 タカシが抱き締める。それは少し乱暴だったりもするけれど、でも、優しい。

『それは、ミナトがこれから見る、夢、だよ』

 いつでもフミオとタカシが傍にいる。
 ……これは、夢?


      ◇


 唇に触れた唇の感触に、ミナトは目を覚ました。
 目を覚ます直前に、キスをしたのは誰だったんだろう? と考えた。
 フミオ?
 タカシ?
 ふたりを思い浮かべて、ミナトは、ふ、と微笑む。
 フミオ。
 タカシ。
 と、微笑んだ唇がふたりの名前を呼んだ。
 確かに呼んだ。
 でも、
『ミナト』
 と呼ばれて目を覚ましたその瞬間に、ミナトの微笑みはフミオとタカシの名前を忘れた。そうして、微笑んだことを、忘れた。
 目覚めた目に映るのは、家や部屋の広さを思わせる高いばかりの天井。
 耳に聞こえるのは、
『ミナト』
 と自分を呼ぶだけの声。
『ミナト、夢を見ていたね』
 すぐ横から、
『幸せそうに見てたね。でも、どんなに幸せでも、それはただの夢だよ』
 ミナトは声に見向いた。まだ少し寝ぼけた顔で、ゆめ? と聞き返す。もぞ、と動くと被っていたシーツが、さわ、と音をたてた。
 真っ白なシーツだった。
 スプリングのよく効いたベットに寝ていた。
『ミナト』
 ミナトを、当たり前の顔をして、ミナト、と呼ぶ声は、ミナトと同じ声だった。それから、ミナトと同じ顔をしていた。
「……ゆめ?」
 ミナトがもう一度口にすると、
『時間をやたらに気にするウサギに、お茶会にでも招かれた?』
 ミナトは小首を傾げた。そのまま、また眠りについてしまいそうな様子で、甘えたように枕を抱き締めた。
「夢なんて、見てない」
『そう?』
「うん、覚えてない。覚えてないのは、見てないのと同じ」
『そうだね』
「うん……」
 ミナトは枕を抱き締める。愛しそうに、まるで、誰かを抱き締めるように抱き締める。誰かに、甘えるように抱き締める。
 部屋の壁にかかっているのは、新品の中学の制服。
 ミナトの髪は黒い。
 ミナトはまだ、フミオにもタカシにも出会っていない。
 フミオもタカシも、まだミナトに出会っていない。
『ミナト』
 ミナトを呼ぶのは、
「……なに? イクミ……?」
 眠そうな、眠そうな目を、重たそうに開く。その目に映るのは、ミナトを呼ぶのは、イクミだけ。
 イクミはミナトの頬にかかった艶のある髪をかき上げた。
 ミナトに触れるのは、イクミだけ。
 コン、とノックの音がして、イクミは慌ててシーツを被った。顔を出した母が、仕方のない子ね、と静かに笑った。
『まだ起きているの? 早く寝なさい』
『はーい。もう寝ます』
 答えるのはイクミ。
『おやすみなさい、お母さん』
『おやすみなさい、イクミさん。ミナトさんも……』
 おやすみなさい、と声をかけようとする母に、イクミは、し、と人差し指を自分の唇に押し付けた。
『ミナトはもう、すぐに夢の中だよ。不思議の国のアリスのように楽しい夢を見るんだよ』
 ときに少し残酷で、でもしょせんは夢だから、目が覚めたときには楽しいばかりの夢を見る。
 ……楽しくて、そして残酷な夢を見る。
『イクミさんも、楽しい夢をね』
『はい、お母さん』
 母が、母親の顔をして優しく笑う。
 イクミは子供の笑顔を返した。
 ドアが閉まる。母の姿が消える。
 イクミは横に眠るミナトにからだを寄せた。ミナトは眠っている。幸せそうに夢を見ている。
『……幸せなの? その夢はそんなに楽しい?』
 ミナトが見る夢にイクミはいない。
 ミナトの夢の中にいるのはフミオ。
 ミナトの夢の中にいるのはタカシ。
 イクミはミナトを抱き寄せた。邪魔そうにシーツを跳ね上げて、ミナトをその足で跨いだ。ミナトの両脇に両手を付いて、見下ろしたミナトに唇を落とした。
『……ねえ、アリス』
 夢の中のお茶会は楽しい?
『大人になったアリスも、夢を見る?』
 唇に触れた唇の感触は、イクミ。……イクミだった。
 感触に目を覚ましたミナトは、黒い瞳を大きく見開いてイクミを見上げた。
「イクミ?」
『なあに?』
 同じ声。
 声が、重なる。
 同じベットの中で、同じシーツを被って、その中で。
「……イクミ?」
 イクミがミナトの膝に手をかけた。両膝を割って入る。
『そんなに怯えた顔をしないで。大丈夫、僕たちはもともと同じ場所から来たんだから、一緒にいる事は不自然なことじゃないよ』
 イクミの手は熱かった。
「イクミ、また熱が……」
 イクミのからだは弱くて、すぐに壊れる。
『熱……? 熱くらいあるよ。生きてる人間だもの』
 イクミはミナトの鎖骨に唇を落とし、割った膝をなぞり、その奥に指を入れ込んだ。
「……や、いや!」
『どうして? 僕はもう我慢できない』
 指が、より奥へと入り込む。
 ミナトはイクミの肩を掴んで、首を振って嫌がった。
『ほんとうに嫌なの?』
「い、……やあっ」
 ミナトはイクミを押し退けた。
 イクミはミナトの力を避けきれずにベットからずり落ちた。
「イクミ……っ」
 ミナトは慌ててベットから飛び降りた。ベットから落ちたままの格好で天井を眺めるイクミを抱き締めた。
「ごめん、イクミ、大丈夫?」
『大丈夫だよ』
 イクミもミナトを抱き締める。抱き締められて、ミナトはからだを強張らせた。たった今、イクミにされた行為を思い出す。
 からだを強張らせるミナトを、イクミは小さく笑った。
『ミナトは僕より優しくて、僕より強くて、僕よりきれいだ』
「……同じ顔、だよ」
『今は、まだ、ね。でもそのうちに、ミナトはお母さんのように美人になる。お父さんのように背が伸びる。誰より強くなる。誰より……僕を簡単にベットから追い出したように、僕を置いて成長する。僕のからだは出来損ないで、僕は全部、ミナトに置いていかれる』
 イクミはミナトを抱き締める。華奢な腕がミナトを拘束する。
『一緒に生まれたのに、同じものを見てきたのに、この先、ミナトは僕と違うものを見る。だから』
 ……だから。
『ミナトの「今」をちょうだい』
 イクミはベットからシーツを手繰り寄せた。真っ白なシーツをふたりで被った。
『せめて、僕の手の中で大人になって。今は僕の夢を見て』
「でも……」
『ミナトは力尽くで拒否できるよ。僕はミナトには敵わない。でも……僕が敵わないことを知ってるミナトは、僕に酷いことをしないよね?』
 イクミはシーツの中でミナトの顔に触れた。そのまま唇に触れる。唇に唇で触れる。
 ミナトはきつく目を閉じた。
 床の上でシーツに包まって、イクミを、受け入れた。
「……っあ、イクミ……」
『いい声だね、もっと、聞かせて』
「で、も……っんっ」
 ミナトのからだに初めて入り込んだイクミが、静かに動いた。
『お母さんたちが気になる? 大丈夫だよ』
 カチャリ、と響いたのはドアに鍵の掛かった音だった。イクミはこんなふうに、ときどき、なにかに触れることなく物を動かした。
『これで誰も入ってこられない。僕たちだけの部屋だよ。僕以外のものを気にしないで』
 ドアの鍵に触れることのなかったイクミは、ミナトには触れた。
 触れて、動いて。
「あ……や、…………っ」
『もっと、僕だけ感じて』
 静かに、動いた。ゆっくり動いた。ミナトをじわりと味わって、じわりと、追い詰めた。
『痛くない? そう、素直ないいからだだね』
 イクミが動く。ミナトが声を上げる。
「イクミ……ん、あ、イクミ……っ」
『ミナト、大好きだよ。どうして僕たちはひとつで生まれてこなかったんだろう。そうすれば、僕も、ミナトも、こんな想いをすることもなかったのに。……でも、今はひとつだね。このまま、今が永遠になればいいのにね』
 ……つ、とイクミが息を漏らした。
 永遠なんてない。
 終わりがある。
 まして、こうしてからだを繋げるのは、永遠ではなく、その終わりを全身で感じたいから。だから、終わりがある。
 ミナトが切なげに声を上げた。
 イクミは、ミナトの切なげな声に終わりを見る。
 もう、静かになんて、ゆっくりになんて、動けない。


 永遠なんてない。
 イクミの望んだ「今」はもうミナトには過去になっていて。
 ミナトは今、フミオとタカシといる。

 でも。
 でも、と夢の中でイクミが笑う。
『永遠なんてないんだよ』
 そんなものはないんだよ。
『……永遠なんて、なかったよね?』
 今は冷たい手で触れながら、
『終わりがあるよ』
 必ず来るよ、と、今夜も夢の中で笑う。


おわり


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