008.愛想笑い
あはは、とミナトが声に出して笑った。
フミオはまた花を出して見せた。
初めはふたりして暇そうにそこに立っていただけだった。ミナトもフミオも学生服姿で、ふと足元にあった葉をフミオが指差したので、
「あじさいだよ。まだもう少し、咲きそうにないな」
そこには一面のあじさいがあって、咲いた姿はきれいだろうな、とミナトが呟いた。
フミオはきれいに咲いたあじさいを思い浮かべた。
ふたりがもたれていた、ふたりの背丈ほどの門の上に、ぽん、とあじさいの花がこぼれた。
赤く咲くあじさいだった。
フミオは少し考える。
すると今度は青く咲くあじさいの花が現れた。次にはまだ変色前のグリーンの花が、ころりと転がった。
赤と、青と、グリーンと。
「フミオは芸が細かいなあ」
あはは、とミナトが笑う。
フミオは背伸びをしてあじさいの花を手に取ると、足元の、まだ花を付けていないあじさいの木に咲いているように飾った。
チャイムが鳴ってふたりして顔を上げた。学校のチャイムだ。キン、コン、カン、コン。
フミオがミナトの袖口を引っ張る。ミナトは校庭の奥の校舎を指差した。しばらくすると昇降口からタカシが姿を現す。
フミオはタカシに向って駆け出した。駆け出した、と言ってもそれはとてもゆっくりだけれど、それでもそれがフミオの精一杯で駆けて行く。
高校の正門で、ミナトとフミオはタカシの帰りを待っていた。なにか委員会があったらしい。
『なんか、じゃなくて球技大会のだっつっといたろ』
とタカシが呆れたように言うのは、もう少し後、夕食の時間のこと。
ミナトの視線の先でフミオがタカシにたどり着いた。
タカシは隣に並んだフミオを見下ろしながら詰襟の襟元を緩める。歩調をフミオに合わせてゆっくりにする。他の生徒たちはゆっくり歩くタカシに、会釈をして追い越していく。タカシは、お疲れ、と片手をあげて応える。フミオが、ばいばい、と手を振る。
ミナトはそんなふたりを見ていた。
「ねえ」
と声をかけられて、ミナトはタカシとフミオから視線を外した。振り向くとクラスメイトが、あじさいの花を、見ていた。
ミナトから表情が消える。今までは確かに、もう少し、穏やかな表情をしていたのに。
そんなミナトを見て、彼女が、柔らかく笑った。笑ったまま尋ねる。
「ねえ、あの子、間違えた人間?」
ミナトは応えず、視線をタカシとフミオに戻した。
「やあだ、それ、怖い顔」
彼女の表情はミナトには見えない。見る気もない。でも彼女の表情は変わらずに柔らかいのだろう。声も柔らかかった。
「ミナトにはこの花が見える? 触れる?」
ねえ、と肩を叩かれて、
「わたしに触るな」
機嫌悪く答えたミナトは結局振り向いて、目にした彼女に、驚いた。
「……おまえ……」
「ハナ」
彼女が短く言う。
ハナ、と。それが彼女の名前。クラスではミナトのみっつ前の席に座っている。ミナトは彼女の後姿しか記憶にない。
「ハナ」
ミナトは彼女の名前を言い直した。
ハナはミナトより少し高い視線で、相変わらず柔らかく笑った。
「間違えた人間は、あの子ね?」
ハナはその手にフミオのあじさいの花を持っている。
「私も、そーなんだけどね」
あじさいの花をミナトに手渡す。思わず手を出したミナトの手を、あじさいの花はするりとすり抜けて落ちて、足元に転がった。
赤い、あじさいの花。
ミナトは花を受け取ろうとした格好のまま、赤いあじさいの花を見おろした。
「ミナトは、少し、間違えた人間なんだね」
ハナがあじさいのハナを拾い上げる。
少し間違えた人間の数は少ない。間違えた人間の数は、さらに少ない。だから生きにくくて儚い。
ミナトはハナの後姿しか知らなかった。
ミナトはフミオを、眺めた。
フミオを、眺めた。
……大丈夫。そう、大丈夫。
ミナトはフミオの笑った顔を知っている。
タカシはフミオの笑った顔を知っている。
ミナトもフミオも、タカシの笑う顔を知っている。
フミオもタカシも、ミナトの笑う顔を、知っている。
ハナの笑う顔なら、今、知った。
ミナトはハナの、耳元の髪をそっと掴んだ。ハナの髪はミナトの髪と違って黒く艶やかで、きれいだ。
ハナは、笑う。
「同じ人間を見つけて安心するのは、なんでかなあ?」
でも、
「でもね、私たち、どうして違う人間に分類されてるのかなあ」
「……さあな」
間違えた人間は生きにくい。誰にも、誰にも、見つからないように、見つからないように生きていく。隠して生きていく。でなければ……。
ミナトはハナの髪を引っ張って、笑うとかわいらしい顔を自分の胸に抱き寄せた。ハナは泣いていない。でも、泣いている。フミオを振り返る。フミオも泣いていない。泣いていない。
ミナトが抱き締めるのはハナ。それから、フミオ。
生きにくいものを守りたいと思うのは、エゴ、なのかもしれないけれど。
ひやり、と冷たい感触にミナトは飛び退いた。通りすがりの若い男がミナトの手を掴んだ。
冷たい手、に、ミナトは逃げる。
若い男はいやらしく笑った。
「おじょーさんたち、レズ?」
身長が高い。わざわざミナトとハナに視線を合わせて覗き込んでくる。ミナトはハナを抱き寄せたまま、一歩、門の方へと後退さった。男はかまわず寄ってくる。
「女同士もいいかもだけど、オレも混ぜてよ。いっしょにヤんない?」
男はまだ花をつけないあじさいの木を踏み付ける。フミオの花も踏み付ける。男にはなにも見えない。見ようとしない。
だから、踏み付ける。
これが、間違えていない人間。今のこの世の中の大半を占める、これが、当たり前の人間。
男の冷たい手がハナを掴んだ。
ハナは特に怯えたりはしなかった。そんなことには慣れているように愛想よく笑った。
柔らかい笑顔は消えてしまった。
ハナは怯えていない。泣いていない。でも、泣いている。意味のない笑顔を顔に乗せるたびに何かが少しずつ壊れていく自分を、知っているようだった。
だから、ミナトはそんなふうに笑わない。
だからタカシはそんなふうに笑わない。
だから、フミオは、そんなふうに笑わない。
たとえ、そんなふうに笑わないことで上手く生きていけないとしても。
そんなふうに、笑わない。……笑えない、から。
「触るな」
ミナトはハナに触れる男の手を掴み上げる。その手は、冷たい。ぞっとする。
冷たさに思い出した夢を壊すように、男をはたいた。はたかれ、逆上した男の振り上げた手を避けて、さらに男をはたいた。何度もはたいて、我を忘れた。
気が付くとフミオに抱き締められていた。
ミナト。
とフミオが呼ぶ。
ミナト。
とフミオがキスをする。
タカシがミナトと男の間に割って入っていた。男にはもう意識がない。白目をむいてタカシの足元に倒れている。
「ミナト……おまえホント、いつか人、殺すって。勘弁してくれ」
とりあえず、表面上でそんなことを言って、タカシはミナトの頭を撫でた。フミオに、
「俺も混ぜろ」
と言いながらミナトにキスを……。
「会長?」
ハナに、呼ばれて。
タカシは寸前でミナトの唇を眺めた。そのままハナを見る。正門前の騒ぎにずいぶん人が集まってきていた。
タカシはかまわずミナトの唇を掠めた。でもそれだけで、それだけなのがずいぶん物足りない顔をした。素直に物足りない顔をするのが、ミナトにもフミオにもおかしかった。
男に踏み潰されたあじさいの花は、そのまま枯れて茶色に変わり、土に還る。
人の目に生まれた花も、生まれなかった花も、土に還る。
花は、誰かに、人に、見て欲しくて咲くわけじゃない。
人は、誰かに、人に、見て欲しくて笑うわけじゃない。
……多分、きっと。
タカシは騒ぎを収める段取りを立てる。
フミオはミナトを抱き締めたまま、また、キスをする。触れるだけ。掠めるだけ。
ハナはミナトとフミオを見て顔を赤くした。ミナトとフミオ横目で見て拗ねるタカシを見て、笑った。
おわり
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