007.傷口
なんとなく輪ゴムを指に絡めて遊んでいたら、その輪ゴムをひょいと取り上げられ、
「手を上げろ」
と言われたので上げたのに、輪ゴムがぺしとおでこに飛んできて、なんだか納得がいかなくてフミオはぷうと頬を膨らませた。
「おー、ふぐだ、ふぐ。食ってみてー」
ゴムを飛ばしたタカシはおもしろそうにして、膨らんだフミオの顔を両手で挟む。フミオは顔を挟まれたまま唇を尖らせた。
ミナトが、丸めた新聞紙でタカシの頭をはたいた。
「苛めるな」
「……おまえは俺を苛めるな」
タカシは叩かれた後頭部を大袈裟に撫でる。少し硬そうな髪をわしわししながら飛ばしたゴムを拾う。
「んで? おまえは?」
「わたしがどうした」
「おまえもここんとこ苛められっぱなしだろ」
「なにに?」
「夢」
「……ああ、夢、ね」
たった今、思い出したような顔をするミナトは、もう何日もひとりで朝を迎えていなかった。何日か前にフミオから始まって、次の日はタカシが、またその次の日はフミオが、ミナトの悪夢に添い寝していた。
ミナトはタカシから輪ゴムを取り上げる。
夢が……。
冷たくて。
弾いた輪ゴムが小さく跳ねて床に落ちていくのを見送りながら、
「冷たさに……ぞっとするんだ」
床に落ちた輪ゴムは丸くて、ただ丸くて。踏みつけても痛くない。そこにあるだけなら痛くない。
でも、フミオのおでこは赤くなっている。痛そうに何度もさする。
ミナトは輪ゴムを踏みつけた。
「……早く」
裸足には、ゴムの感触。
「早く、夏が来ればいいのに」
「……だな」
早く。
早く、冷たさなど少しも感じることのない季節が、来ればいいのに。
「とりあえず、夏の前に梅雨、だな」
タカシは窓辺に目を向ける。
フミオがベランダから空を見上げた。
今は雲ひとつない空。でも、もう少しで梅雨が来る。
「季節がめぐってくるのは、けっこー早いな」
ひとつ、ふたつ、とタカシが指折り数え始めたのは……。
……数えたのは、季節。
ひとつ。ふたつ……。
さかのぼれば、今ここにいるさんにんが、ひとりひとりだった時間になる。
ひとつ、ふたつ、指を折るタカシをフミオがじっと見る。目が合って、タカシはそれ以上指を折るのをやめた。
「ミナト、おまえ、ベットもっとでかいやつにしろよ」
「なんで?」
「三人一緒に寝れるだろ」
タカシは真剣で、
「季節がめぐるのは早いって言ったのはタカシだろ」
「それがどうした」
「こんな夢を見る季節もすぐに終わる。そんなベットすぐに邪魔になる。無駄遣いする必要ないよ」
「こーゆうのは無駄遣いっつーのか?」
「無駄遣いだろ」
ミナトも真剣で。
「……さようか」
タカシは食卓の椅子に掛けるとフミオを手招いて、意見が却下されたのが淋しそうにフミオを背中からぎゅっとした。フミオはぎゅっとされながら、また、おでこをさする。まだ痛い、と無言でタカシを非難する。
「……わかった、俺が悪かった。ゴメンナサイ」
タカシもフミオのおでこをさする。ミナトも一緒になってフミオのおでこに手の平を当てて、そのまま、タカシと一緒になってフミオを抱き締めた。
踏みつけていた輪ゴムはフローリングの床の上に置き去りで。
この部屋には食卓や椅子があるだけだ。
ミナトはフミオのおでこに唇を押し付けた。
「そんなに痛い?」
聞くとフミオは少し考えて、ちらりとタカシを見て、首を振った。本当はもうそんなに痛くない。でももっと、とミナトのキスをせがむ。
「なんだ、痛くないのか」
安心するタカシの声には、また少し考えて、やっぱり痛い、と反論した。
「……なんだよ、どっちだよ、こら」
タカシに力いっぱいぎゅっとされてフミオはじたばたする。じたばたするくらいではタカシから逃げられない。タカシはフミオを逃がさないまま、
「おい、ミナト」
「なに?」
「なに? じゃないだろ」
フミオに対抗するようにキスを、せがむ。
「……子供みたいだな」
呆れるミナトにタカシは悪びれもせず、
「悪いか」
「……べつに」
ミナトはフミオの横から顔を出すタカシの、前髪をかきあげたそこにキスをした。タカシは不服そうに、
「ガキみたいなキスすんな」
「なんで? 子供なんだろう?」
「そんなわけあるか」
「……どっちだよ」
呆れながら、ミナトはタカシと唇を重ねた。タカシがより求めてミナトのあごを取る。より深いキスをする。
「……っ、ん、こら、タカシっ」
一歩、退くと、落ちていた輪ゴムを踏んだ。輪ゴムはくるくるねじれて、ねじれたのが元に戻ろうとして、跳ねた。
跳ねた輪ゴムを見て、フミオがなんとなく自分のおでこをさすった。
そこがまだ痛かったわけではないけれど。
痛かった、という記憶が残っている。まるで、傷のように。
……記憶が、傷?
ひどい痛みや、悲しみや、辛さは、傷になる?
気持ちよかったことや楽しかったことや幸せで笑ったことは、傷になる?
同じ、記憶だから。
同じもののはずなのに。
同じものが、傷をつけたりつけなかったりする。
輪ゴムが、人を傷つけたり、傷つけなかったり、する。
記憶が、人を傷つけたり傷つけなかったりする。
ミナトはフローリングの床を見下ろした。裸足で立っている。……冷たい。
冷たい。冷たい。
少しすると、床は足の形に温まる。でも、温かいのはそこだけ。他は冷たい。
冷たいよ。
『冷たいかい?』
……動けない。
ミナトは冷たさを恐れて身動きできなくなる。
「ミナト……?」
タカシの声に、かろうじて目線だけを揺らした。フミオがタカシのそで口を引っ張った。タカシはミナトを抱き上げる。フミオはくつしたを持ってくる。
……傷は、癒える?
ミナトはタカシとフミオに抱きつく。ぎゅっと抱きつく。
抱きつかれてしまって、フミオはくつしたをはかせてあげられない。
「ミナト」
ミナト、とタカシが呼びかける。小さなミナトを軽々と抱きかかえながら、
「フミオが困った顔してるぞ」
顔を上げたミナトに、フミオはくつしたを振って見せる。ミナトはおずとフミオにつま先を差し出した。
フミオが不器用そうにミナトにくつしたをはかせてやる。ミナトはおとなしくくつしたをはかせてもらう。タカシが小さく笑った。
「ミナト、ガキみてー」
ミナトはばつが悪そうに頬を膨らませた。
「……悪いか」
タカシはフミオと顔を見合わせると、ぷ、と笑った。
「べっつにぃ」
「……じゃあ笑うな」
傷なら。
……傷なら、癒える。
きっと癒える。それ以上傷口を広げないようにしよう。いつも清潔に、汚い手で触らないようにすればいい。
消毒する痛みには耐えないといけないけれど。つい、かさぶたをはがしてしまいたくなるのを我慢しないといけないけれど。
癒えるよ。
だから、だからどうかこれ以上、傷口を、汚い手で触らないで……。
おわり
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