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006.ピストル




 目が、覚めた。
 フミオの部屋にはいつでも電気が付いていて、いつでも明るくて、まず、今が何時なのかを確かめた。真夜中だ。
 カーテンの向こうは暗闇。向かいの団地のどの窓も暗い。
 フミオはふと顔を上げると部屋を出た。
 ちょうどタカシも部屋から出てきた。ふたりで、ミナトの部屋を覗き込んだ。じゃんけんをしてぐーで勝って、フミオはミナトのベットにもぐり込んだ。
 ミナトが暗さに怯えていたのでドアを開けた。ミナトはほんの少しの明かりにほっとして、
「……おやすみ」
 と言った。
 おやすみ、とフミオも言った。心の中で。
 ミナトはもう半分眠っていて、やがてすっかり眠ってしまう。フミオも眠った。
 なのにまた、ふいに、目が覚めた。
 そこは暗くて、でもすぐに頭まで布団をかぶっていたことに気が付いて布団から顔を出した。
 部屋のドアは少し開いたままだった。
 カーテンの向こうには夜明けが近くて、闇はない。目に見える闇は、ない。
 ミナトは穏やかに眠っている。
 その白い頬に触った。温もりと柔らかさに顔を寄せて、唇で触れた。まだ残っていた涙の跡を、そのまま、唇でなぞった。
「……ん」
 ミナトはフミオの感触に身じろいで、けれど、目は覚まさない。ミナトはフミオの温もりの傍にいて、今は、悪夢の中にはいない。
 フミオは、ミナト、と呼んだ。
 声にはせずに呼ぶ。
 声にしない声は、それでもいつも必ずミナトに届く。
 なぜだろう?
 タカシにはたまに届かないことがあるのに、ミナトには届く。
 ミナト。
 ミナト。
 呼べば、ミナトはほんの少し眠りを浅くして、寝ぼけながら伸ばした手でフミオを掴まえて抱き寄せる。
「……ん、もう、朝?」
 寝言のようにうから、
 まだだよ、と答える。
「……そ、う」
 探し当てたフミオの手と手を繋いで、また眠りに落ちていく。
 フミオと、ミナトと。
 並んで立てば同じ高さに目線がある。同じくらいの身長。同じくらいの肩幅。同じくらいの手足の長さ。
 だけれど……。
 フミオは繋いだ手の感触を確かめる。同じくらい……でも、違う。全然違う。
 皮膚の薄さが違う。爪を立てれば簡単に裂けてしまいそうな柔らかさは、フミオやタカシにはない。その肌の白さも滑らかさも、桜色の爪も、フミオやタカシにはない。
 そして、あの人、にもない。
 あの人……。
 そう、あの人。
 ミナトの夢をフミオも見る。
 正確には、見るわけじゃない。感じる。
 感じるだけ。
 だって、ミナトの夢は闇の中で闇の夢を見るから。闇の中の闇を見分けることはできないから。
 だから、感じるだけ。
 ミナトと同じ姿をした闇を。
 『愛してるよ』とミナトに告げた闇を。
 ……フミオはミナトの手を強く握った。空いていた手でミナトの耳元の髪をすき、眉の生え際からまぶたを確かめる。
 はっとして顔を上げた。
 部屋の隅に残る闇が、呼んだような気がした。
 呼んで、告げる。
『触るな』
 と。
『それは僕のものだよ』
 と。
 違う、とフミオは首を振る。
 違う。
 違う。違う。
 夜が明ける。
 ここにはミナトがいてフミオがいて、壁の向こうにタカシがいて。
 それだけだ。
 闇はない。
 ねえ、ミナト。
 『愛してるよ』とあの人のように言葉にはしない。声にはできない。それでも、ねえ、ミナト……。
 フミオはミナトにキスをする。そうしていることを知ってか知らずか、ミナトはくすぐったそうに少し笑む。
 フミオはミナトにキスをする。
 少し、ミナトの唇が開く。フミオを誘う。
 ……フミオはミナトの頬にキスをした。
 つきん、と体の奥が痛んだ。なんの痛みだろう。きょろきょろと辺りを見回しても答えはない。
 ミナトが起きていればフミオの痛みの理由を察して、その手で、口で、フミオの体を慰めてくれただろうけれど。
 ミナトは眠っている。
 フミオは自分の熱を、自分ではどうすることもできない。タカシのように素直に、ミナトが欲しい、のだと気が付けない。
 吐き出せない熱が切なくて、手を、握り締める。
 手を握り締めるだけのフミオを闇が笑う。嘲笑う。
 フミオは闇を見る。笑われて、気に入らないとか、そういう感情はフミオにはない。誰かを、なにかを、疎ましいと思うこともない。
 笑う闇を見て、違う、と思うだけだ。
 違う、それは何かが、違う。
 どうして笑うの。
 なにが、おかしいの。
 闇の傍に輪ゴムが落ちていて、フミオはタカシが輪ゴムを飛ばす仕草を真似してみた。親指と人差し指を立ててピストルの真似をする。
 ばん、と闇を撃つ。
 撃ったのと同時に、とさ、と静かな音がして、その重みにベットのスプリングが揺れた。
 フミオは自分の手元を見下ろす。
 黒……だか、銀……だかに鈍く光るピストルが、落ちていた。
 フミオは瞬きをする。今、生まれたものに触る。冷たい。持ってみた。重い。
 小首を傾げて少し考えると、とりあえず枕の下に押し込んだ。
 枕を動かされてミナトが目を覚ます。時計を見て、まだ早いから、とまた眠る。フミオと布団を手繰り寄せて、目覚し時計が鳴るまで、タカシが起こしに来るまで、ふたり、一緒に眠る。
 部屋に朝日が差してくる。闇は少しも残らず消える。
 ばん、と撃った闇は消える。
 ……今は、消える。


おわり


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