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003.欠けたグラス




 椅子の上で膝を抱えて、フミオはじっとテーブルを見ていた。
 かたん、とした音に見向くと、窓の外……風の、音だった。
 びっくりした、というように瞬きして、また、テーブルを見る。
 グラスがひとつ、載っていた。新品のグラスだった。
 それをじっと見て、フミオはまた瞬きした。小首を傾げて、きょろきょろと辺りを見回した。ミナトとタカシはいない。
 今は、家に、フミオがひとり。
 それから、グラスがひとつ。
 細長いグラスだった。足元はガラスが厚くどっしりとしているのに飲み口は薄くて、非力なフミオでも力を込めれば手で、割れてしまいそうだった。
 フミオは膝を抱えたままグラスを見ていた。
 ミナトとタカシはまだ帰ってこない。小さなあくびをひとつ、する。
 ……グラスの中に、水が、入っていた。試しにひと口飲んでみた。
 水、だ。
 冷たい。
 冷たい、と思った途端、からん、と氷が浮かんだ。フミオはグラスを振る。からからと氷の冷たい音がする。
 音を、じっと眺めて、水を一気に飲んだ。ふう、と息をついて。気が付いたら眠っていた。



「……フミオ、フミオ」
 頬を撫でられて目が覚めた。
 机にべったり突っ伏して眠っていたフミオは、
「眠いのなら、部屋で寝なきゃ」
 と覗き込んでくるミナトに首を横に振った。
「もう眠くないのか?」
 と聞かれて、縦に振る。
 ミナトの向こうでタカシが夕食の支度を始めていた。がさがさとスーパーの買い物袋の音に完全に目が覚めた。
 グラスはテーブルの上にまだあった。
 フミオがグラスをじっと見るので、ミナトも見た。
 ミナトは冷蔵庫から出したペットボトルをタカシに投げ付けるところだった。
「フミオも何か飲む? 喉、渇いてない?」
 フミオはちょっと考えて、いらない、と首を振った。喉は、もう、渇いてない。さっき水を飲んだ。そのグラスを手に取る。もう、水は入っていない。残っていたはずの氷もなくなっていた。溶けてなくなった、わけではなくて、蒸発でもしてなくなってしまったようだった。
 新品だったはずのグラスは、汚れやキズでまるでもう何年も使っているもののように白く曇っていた。
 グラスは空だけれど、フミオは手にしたついでになんとなく口元に持っていく。
 グラスが唇に触れると、ぱりん、と脆く小さく欠けた。かけらが、唇を引っ掻いた。
「……フミオ?」
 何をやっているんだ、とミナトがグラスを取り上げる……取り上げようと思ったのだけれど、取り上げられなくて……。
「うわ……っ」
 ミナトは小さく悲鳴を上げた。
 なにやってんだ、おまえら。とフライパンを片手に振り向いたタカシには、フミオのグラスは見えない。
 ミナトには見えるけれど、触れない。
 その、欠けたグラス、を。
 フミオはゴミ箱に捨てようとして考え直して、ベランダに出て(不燃ゴミ)とタカシが書いたカゴの中に入れた。
 かちゃん、と他のゴミと一緒になった音は、ミナトやタカシにも聞こえたのだろうか?
 フミオはまた椅子の上で膝を抱える。
 鍋の火加減を見るタカシを見る。
 ミナトが隣の椅子に掛けたので、そちらを見る。目が合ってミナトが笑ったので、フミオも笑った。
「あ、フミオ、唇、切れてる」
 フミオの下唇に触れたミナトの親指が、少し、血で汚れた。フミオはミナトの親指をじっと見て、引き寄せて、血を舐めた。
「舐める場所が違うだろ」
 ミナトはおかしそうに笑って、フミオの唇を舐める。舐めると、フミオは逃げる。ミナトが、悪かったよ、と言いながら舌を引っ込めたので、その唇にキスをした。
「メシだぞー」
 タカシがテーブルを拭きながらふたりを見て、
「いちゃいちゃと……バカップルか、おまえらは」
「おまえもする?」
「……後でゆっくり」
 とにかくメシを食え、と言う。
 三人がテーブルに着くと、フミオは膝を抱えるのをやめる。足をぶらぶらさせるのを、行儀が悪い、とミナトに注意され、いいじゃねーかやらせとけよ、とタカシが言う。
 フミオは窓の外を見た。風の音は気にならない。
 テーブルの上には食事が並ぶ。不意にグラスが現れたりはしない。
 安心したように、いただきます、と手を合わせた。


おわり


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