女神酒泡沫3
「ドロシー、ドロシーってば。ちょっと、ねえ」
イントレイス邸の門を抜けても、ドロシーはカトルの手を引っ張って歩き続ける。街に入ってすれ違う人々の、二人に対する微笑ましげな眼差しがなんだかカトルは気になるのだけれどドロシーは止まらない。ずかずかざかざか歩く。
「ねえドロシー。気付いてないかもしれないけど、僕、君より身長が伸びたんだよ」
ピタリ、とドロシーの足が動きを止めた。
「そんなこと自己申告しなくてもけっこうよ」
「あ、やっと止まってくれた」
「くだらないことを突然言わないでくださるっっ?」
「くだらないかなあ。コロニーって身長伸びにくいんだよ」
言いながら、カトルは放り出すように離された自分の手を見た。勝手に心のどこかで思っていたことなのだけれど、冷たい、と思っていたドロシーの手は暖かかった。
「婚約のこと、嘘だったんだね」
「……嘘って、私がつきたくてついたわけではないわよ。あれは、あの男が勝手にっ」
「うん、よかった」
「……なにがですの」
「君に婚約者なんていなくて、だよ」
「先を越されて悔しかったとでも?」
「あはは、そうだね」
「リリーナ様にも……」
「え?」
「リリーナ様にも、きちんと訂正しなくては、と思っただけですわ」
「ああ、うん。そうだね」
また、手を見る。
ドロシーはすたすたと歩き始める。
「まったく、リリーナ様にお祝いの言葉を頂いたときには、物事を疑わない素直さに目眩がしたわ」
「僕のときは怒ってたよね。電話、切っちゃうし」
「あれは、呆れたのよ。まったく誰も彼も……と」
正確には、トマヤの諸行に腹を立てて少しばかり周りのことが見えなくなってつい切ってしまった。ということなのだけれど。
「そうなの?」
「そうですわよ」
ということにしておこう。ところで。
「だからどうしてあなたはそうやっていつも笑っているのよ」
「え、笑ってるかな? そんなことないと思うけど」
「その顔で言われても説得力ありませんわよ、ぜんぜんっ」
往来の真中で顔を付き合わせて、ドロシーは失礼にも人差指をカトルの鼻面に突き付ける。突き付けられたカトルは、あれおかしいな、と小首を傾げた。
「ああ、じゃあ、きっと君のせいかな。僕が、君の前にいることが嬉しいんだよ」
とんでもないことをとんでもなくさらりと言うものだから、これまたとんでもなくすべてを乗り越えて、ドロシーはどっと脱力する。
「寝言は寝てから言ってくださる……? 相変わらずわけのわからない人ね」
そうかな? とカトルはうーんと唸った。
「君は、本当はいつでも君なんだけど、今もちゃんと君は君だから、ああ、ちゃんとドロシーだなと思って」
「……それ、何語ですの?」
「あれ、通じないかな?」
おかしいな、とカトルはまた唸った。
「意思の疎通って、難しいね」
「あなたが一人で難しくしてるんだと思いますわよ」
「あ……」
「今度は何ですの……」
「ドロシーも笑ってる」
「……っこれはっ、別に私はっ」
「ほら、そうだよね。思い出すとやっぱり笑っちゃうよね、さっきのテーブルひっくり返しシーンは」
「あなた、お願いだから話の的を一つに絞ってくださるっ!?」
二人してそんなふうにしながら、石畳の街を歩いていく。夕暮れがかった街には明かりが灯りはじめ、はしゃぐ子供たちや買い物帰りのおばさんたちが二人の横を過ぎていく。
「当たり前の風景ですわね」
ドロシーが独り言のように呟いた。カトルは夕日を受けるドロシーの横顔を眺めた。
「そうだね」
答えながら、自分の眼差しにトマヤを重ねた。そうする必要などなにもないのに、なぜか、そうしていた。彼のドロシーを見送ったあの眼差しは、まだ終わりを告げることを許していなかった。
「ねえ、ドロシー」
「なにかしら?」
「手を、繋いでもいいかなと思って」
「……そういうことは思うだけで、口にしないでくださるかしら……」
「あ、そう?」
じっと見てくるカトルの視線に、ドロシーは瞬きだけで応えた。
「あなたもリリーナ様もとんだ災難だったようだけれど、もう犯人は知れてしまっているのだから、これ以上あなた方になにか起こることもないわ」
きっと、と付け加える。たぶんこのまま終わらないことはドロシーが一番よく知っていた。この程度で終わっているのなら、トマヤの申し出を断った最初の時点でこの話はなかったことになっているはずなのだ。
「あなたが心配する必要は、もうなにもないのよ。そんな目で見なくても、自分のことは自分でかたを着けられるし、迷惑もかけないわ」
もっとも、成り行きとはいえ首を突っ込んできたのはあなただと思いますけれど。と付け加えはしたけれど。巻き込めるものは巻き込んでしまえ主義だと思っていたドロシーからそんな言葉が飛び出して、カトルはなにか違和感を感じて立ち止まった。……ドロシーはなにか、思い違いをしている。
「僕が心配していたのは、君のことだったんだけど」
「なぜ?」
速攻で返されて、立ち止まったカトルは困惑した。心配していると言って、なぜ、と問われる。そういう展開はこれまで体験したことがなかった。
「僕が君の心配するのが、そんなに意外だったかな」
一歩先で一緒に立ち止まっていたドロシーは少しだけ呆れたように、首を傾げて見せただけだった。何も言葉にはしない。
「ドロシー?」
歩き始めたドロシーの後をカトルが着いていく。二人とも、静かに、言葉も交わさずに……。
ドロシーとカトルが屋敷を出てすぐ、一人残されたトマヤの元にあわただしい足音が近付いていた。
「お館様、タガーナ様が……っ」
上擦り気味のメードの声に、トマヤは部屋を飛び出した。
黒塗りの車が目の前で急停止して、ドロシーとカトルは顔を見合わせた。車前面の中央に張り付けられた紋章でどこの車かすぐにわかる。
さんぜんとゴールドにきらめく絡み合った葡萄の葉と蔦の文様に、二人は吐息した。車からは強硬そうな男が四人出てくる。
「ご同行願います、ドロシー様」
丁寧に言ってはいるが、テレビドラマの刑事ものによく見る逮捕状を突き付けるシーンと同じだ。
「却下ですわ」
当然の権利を持ってして主張するが、聞いてくれそうになかった。朝カトルが相手をした人物よりも、失礼、と一礼したのち事を起こしたぶん礼儀正しくはあったが、やるとは同じだ。
二人がドロシーを拘束し、二人がカトルを阻む。銃を持ち出してこなかったのは、ここが街中だということを考慮してのことなのかそれとも、人数を揃えているので必要ないと思ったのか。どちらにしても少し甘かった。獲物もなく、突然背後から現れたのではない同等の立場では、カトルのほうが強かったのだ。
ざらついた石畳に男が一人づつ倒れていく。朝の教訓もあったので、カトルは手加減することをやめていた。しっかり気を失うまで相手を努めるので、倒れた男は立ち上がってこない。
カトルが最後の男の相手を始めると、ドロシーは当然のように空になった車に乗り込みキーを回した。ついでに、車内に備え付けてある携帯の電話を手にすると、もうすっかり不本意ながらも覚えてしまったナンバーを押した。一度の取り次ぎののち目的の人物がモニターに現われる。だが相手の顔を見たくなかったドロシーは容赦なく回線を音声のみに切り替えていた。
「手間を惜しまない努力は尊敬して差し上げてもよろしいですけれど、いい加減に諦めるという努力をなさることをお勧めいたしますわよ」
挨拶はわざと省いていた。返ってきたトマヤの声は、努めて冷静なものだった。
『あなたのボディーガードは、なかなか優秀なようだ』
「ええ、優秀ですし、優秀でなければならなかったのよ。トマヤ様、いい加減に私を必要とする本当の理由を仰いなさい。でなければこちらで調べますわよ」
『無理だよ。情報をガードすることは、情報を持つものの義務だからね』
「そうかしら? ま、よろしいですわ、勝手にやりますから。そちらも私たちのことをお調べになったほうが賢明だと思いますわよ。何も知らないからあなたは私にこだわっていられるのですわ。どうぞ、お調べになってください。その上でも私を必要だなどと言えるかしら。もっとも、もちろんこちらもガードは怠っていませんけれどね」
ガッチャリ。
言うだけ言って切ったところに、一仕事を終えたカトルが助手席側の窓を叩いた。ドロシーは手元操作でロックを解除すると、カトルを中へと促した。
「乗りなさいカトル、仕方ないからあなたで我慢してあげるわ。それで、どこかしら」
「なにがだい?」
「あなたの宿泊しているホテルに決まっているでしょう」
「え、ああ、そう?」
何が「そう?」なのかよくわからないが。聞き出した目的地をナビゲーションシステムに打ち込むと、とにかくドロシーは車を出発させた。
「あなたでは心許ないけれど、私もいるしなんとかなりますわね」
「あの、ドロシー?」
だから何が? と尋ねるとドロシーは平然と答えた。
「トマヤ・イントレイスの情報収集に決まってますわ。本当はそういうことはリリーナ様の王子様のほうが得意そうですけど、あなただって苦手ではないはずですわね」
元ガンダムパイロットなんだから、と付け加える。
「なんか、少し偏見入ってるよね……」
呟きながらも反対の意を示さないカトルだった。このまま済むとは思っていなかったのだし、それで決着が着くというならそれにこしたことはない。ただ、人様の車を当然のように乗り回しているドロシーは気になったが。それでも、ブツブツと今後の対策を練っているドロシーの姿に安堵しているほうが、大きかった。実は思ったよりも、先ほどの沈黙がこたえていたのだ。
……沈黙よりは、ずっといい。
◇
『ねえ。ねえ、お兄様』
「……ああ、なんだい」
『どうしてあの人は、ここに来てくれないの?』
「タガーナ……」
トマヤが妹を抱きしめるのを、白衣の医師と看護婦たちが見ている。まだ四十代も後半だが、どんな苦労を重ねてきたのかかなり髪の量の気になる医師は、何もかもを諦めなければならないように首を二、三度横に振った。看護婦たちは何かをひそひそと囁きあっている。
……トマヤはタガーナを抱きしめる。
「誰もいなくなっても私がいる。彼女も、必ず連れてくる」
『ほんと? ほんとうね?』
ベットの中で、タガーナは儚く笑んだようだった。
『あのねお兄様。わたし、ドロシーのようになりたかったの』
「……そうだね」
『この世界は嫌いよ。わたしがこんなわたしでしかない「ここ」は嫌いよ。でもね、でももしも私がドロシーのようだったら……ううん、ドロシーだったら、きっと好きになれるわ。赤い靴をはいて踊るのよ、ドロシーのように』
「タガーナ、ドロシーは必ず私のものにする。そして、おまえのものになる」
『素敵ね。はやくドロシーが来ればいいのに。はやく、はやく。ね、お兄様、はやくしないと女神酒が濁ってしまうわ』
『女神酒ガ、濁ッテシマウ』
……彼女は。
彼女はいつでもあの赤いエナメルの靴を履いて、蜜蜂のようにくるくると踊っていた。相手はいつも決まっていた。とても背の高い彼女のお父様。お父様の手の中で、くるくると回る。黄金の髪が、とても奇麗な子。
『っまあ。可愛らしいこと』
みんながあの子を見てる。あの子に注目する。みんな、みんな、わたしのことは「その目」でしか見てこないくせに、あの子のことは「そんな目」で見るのね? どうして? どうして違うの?
可愛らしいのはあの子の赤い靴?
あの子の金の髪?
わたしがあの子だったら、みんなはわたしを見てくれる?
「その目」以外の眼差しで見てくれる?
ふと、そんなことを考えたらドキドキした。
わたしがドロシーだったら。この心ごと全部あの子になれたら。
くるくる回るあの子。
天使のようだとトマヤ−お兄様も言っていた子。
ああ、ほんとうね。天使だわ。
みんながほめたたえる、ドロシーという名前の天使。
モシモワタシガどろしーダッタラ。
……あの子のお父様が亡くなったと噂で聞いた。それ以後、あの子の姿を見ることはなくなった。
ドロシーが来ない。
そんなのはイヤ。
わたしの天使が来ない。この世界は悲しいことばかり。だから忘れようとした。そうして、そのままずっと忘れていられればよかったのに。
現れなければよかったのに。
現れるから。
……ねえ、天使様。
あなたの役目は人々を先導すること?
世界はまた揺れたわね。コロニーがトレーズ・クシュリナーダの娘だと名乗る小さな少女によって落とされそうになったわね。それを止めたのはリリーナ・ドーリアン? ガンダムのパイロットたち? 大統領?
いいえ。立ち上がったのは市民。そしてその先頭にあなたはいたのよ。大きな画面、一杯に映っていたわ。 わたしは、またあなたを見つけたわ。
さあ、急がなくては。女神酒が濁ってしまうその前に。
◇◇
「タガーナ・イントレイス……」
ディスプレイに現れた名を、カトルが呟いた。
「公の実妹で現在十七歳……だそうだけど、ドロシー知ってる?」
「さあ、会ったこなどないと思うわ」
「三十九代目の女神酒の所有者、だって」
「三十九代? 今市場に出ているものは三十四種よ。計算が合わないわよ、どういうことなの」
「……さあ?」
「さあって、あなたね……」
そんなことでは私たちのしていることに意味がないでしょう、とドロシーはカトルの肩越しに画面を覗き込んだ。
「あなたもリリーナ様ものんきなこと。その二人がトッププロジェクトの中心人物だというのだから、世の中平和なはずですわね」
と言いながらも本当は今の平和を喜んでいる……というわけではなく、実際言葉通り心底呆れているドロシーだった。
ホテルに到着すると何はさておきリリーナの元へ駆けつけたドロシーだが、元女王様はいつも通り穏やかでいらした。
『たいした傷ではないわ、気にしないで。あなたのせいでないのなら、それでいいのよ』
ではドロシーのせいだったらどうしたのか−と突っ込む気はなかったが。
『貴様、よくものこのこと顔が出せたものだな』
重体のまま意識の戻らないラオを気にかけ機嫌の悪い五飛とサリィとに正確な事実を伝えなだめる、という難関を突破した後だっただけに、リリーナの簡単さにドロシーはがっくりと座り込みたくなったものだった。が、さすがリリーナ様、私のことをよくわかっていらっしゃるわ。と素直に喜べなかったのは、リリーナも、そしてカトルも、人を信じるということに疑いを持たないからだ、と思う。
優しいのだ。
そのすべては万人に対して平等で、誰かに個人的に向けられることはない。彼らにとっては誰も彼もが、同じ位置に立つ同じ人間でしかないのだ。
……一個に執着するトマヤも扱いにくいが、何にも執着しようとしない彼らもまた……。
「要するに、他人事は他人事ということでしかないということかしら。それとも、すべてを自分のせいにして背負っていきたいのかしら……できるはずなどないのに」
「なんのことだい?」
「……さあ?」
振り返ったカトルにドロシーは肩を竦め、真似てとぼけてみせた。
一緒にどう? というリリーナの夕食の誘いを断り、代わりに頼んでおいたルームサービスが届く。軽食に添えられたお茶が、部屋の香りを変える。
手際よくキーボードを叩き続けているカトルに、ドロシーがティーカップを渡した。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「……ねえドロシー、聞いてもいいかい?」
画面から目を外さないままカトルは尋ねてくる。ドロシーは周辺機器の置かれた机の端にもたれると、カトルと同じように流れていく画面の文字を追った。
「なんですの?」
「『も』って何かな、と思って」
「………も?」
なんだそれはという顔つきで、ドロシーはさらに画面を覗き込んだ。どこかにそんな暗号でもあったのかと思ったのだ。違うよ、とカトルが少し笑う。けれどすぐに、その笑みは消えた。
「公に言っていただろう? 『カタロニアの名前も』って。だから他にも何か放棄したのかなと思って」
「……ああ」
ドロシーは画面から目を外し、お茶を飲み込んだ。
「細かいことを、覚えているのね」
「どうしてか気になっただけだよ」
「……お優しい気配りですこと」
そんなふうに言って話題を変えて、ドロシーはごまかしてしまうつもりだった。そう、相手がカトルでなければそうしていた。そうしなかったのは、カトルだけが、それを知っているからだ。どうしてもごまかせないからだ。
この男だけに告白したことがある。あの戦争で自分は何をしたのか。誰を、殺したのか。
きっちり律儀に、この男は覚えているはずなのだから。
「お祖父様から相続されるはずだった財産の権利を放棄したのよ。……私にも、それくらいの感傷はあったということよ」
「デルマイユ候爵の……? そういえば、噂になっていたね」
ロームフェラの総帥トレーズ・クシュリナーダの伯父であり後見人でもあったデルマイユ候爵である。その彼の計り知れない財産の行方、などというニュースを終戦後抑制されることのなくなったメディアが放って置くはずがなかった、……がどういうわけか、誰にどれだけの分配がなされたのかということが出回ることがなかったのは、報道陣が他人のプライバシーを尊重したわけではなく、報じられた巨額の財のほんの一部を持ってもみ消されたに過ぎない。
「あのまま報道が続いていたら、君がJAP地区にいる理由もわかったかな」
「私がJAP地区にいたらおかしいとでも?」
「そんなことはないけど」
ただ何となく、イメージじゃないよね、と。
「今、あの地区は雨季まっただ中ですわよ。少し前までは桜が一面に満開で、でもその前は雪が降るの。夏は暑くて湿気が多いわ。季節感の落ち着かないところよ」
「………もしかして、嫌いなのかい?」
質問に、ドロシーはカップを置いた。部屋の明かりは画面が放つ淡いものと、部屋の隅で密かな光を発しているスタンドだけ。
「嫌いなはずないわ。だって誰よりも、トレーズ様の愛された土地ですもの」
「そう……」
カトルはそこで手を止めた。画面には目的の情報が現れている。
「四季の美しい土地だからと、ずっと以前から気に入っていらしたのよ。トレーズ様の話を聞くたびに私の父も好きになっていったわね。いつか行こうねと……死んでしまったけれど……そう、ずっと、昔の話だわ。トレーズ様の所有物の処分を任されていた彼女が、あの家を私にくれたのよ」
レディ・アンという、ドロシーとは違った形で彼を想っている女性。
「彼女には、家と一緒に赤い靴をもらったわ」
「くつ……かい?」
「ええ、そう」
家と靴というアンバランスにカトルが不思議な顔をする。ドロシーはもったいぶるように首を傾げてみせた。
「エナメルの赤い靴よ」
そのときのことを思いだしながらおかしげに笑う。
靴をくれたとき、レディ・アンはなんと言っていただろうか? 確かこんなふうだった。オズの魔法使いのドロシーの靴とか、JAP地区には異人に連れ去られた赤い靴をはいた女の子がいたとか、あさっての話でごまかそうとしていたけれど、要は、またこの赤い靴がはけるようになればいいと、そういうことが言いたかったのだ。
ドロシーは小さい頃、ずっとずっと小さい頃、父に買ってもらった赤いエナメルの靴を誰にもかれにも −トレーズにも見せびらかして歩いていた。いつで
も、特に父と出かけるときには必ずはいていた。けれどあれは父の葬儀の日。赤い靴を履くんだと言ったら、母にひどく叱られた。
『だって、お父様もこの靴をお好きだとおっしゃっていたわ』
『でも駄目なのよ、ドロシー』
『どうして?』
問いつめても、何を聞いても母は泣くばかりだった。最後には執事やらコック長やらもやってきて、三人がかりで靴を取り上げられた。その後意地になったドロシーは裸足で葬儀に参列した、とごくたまに母が思い出しては語るが、ドロシーは覚えていない。
覚えているのは、それ以後赤い靴が嫌いになったということだけだ。
そんな話をトレーズから聞いたことがあったのか、それとも母あたりから聞いたのか、それはわからないけれど。レディ・アンからもらったときには素直に、みんなとんだ子供扱いだこと、と腹を立てる気も失せたほどに、嬉しかったのだ。
「……そういえば」
ふと、ドロシーは身を乗り出した。
父と赤い靴。
まるで何かのキーワードのように当てはまって、カトルに見向いた。
「トマヤ様の妹の名前、タガーナといったわね」
「うん、そう。今彼女は……」
言いかけるのをさえぎって、ドロシーは続ける。
「小さい頃イントレイス邸のパーティーに何度か行ったことがあるわ。そのときいつも会場の隅にいたのがたしか、タガーナよ」
そうだ、いつもいつも隠れるようにして小さくなっていた少女がいた。そして気付くといつも、彼女は自分を見ていた。あんまりその視線が気になって話しかけようとしたら逃げられてしまったこともあった。恥ずかしがりやさん。とか思っていたのだが。後で聞いた話によるとたしか。
「喋る事ができなかった……のよね」
「そう記してあるね。それから……」
カトルはディスプレイを示した。
タガーナ・イントレイスは声と、健康な躰を持たずに生まれてきた。そして今は。
「両親を亡くしたショックもあって。二年前に夢の中に留まることを選んでいる」
精神的にも脆かった少女は、今は夢の中でしか話すことも笑うこともしない。
「タガーナは、今もあのお屋敷にいるの?」
「公と一緒にいるはずだけど」
「……トマヤ様のどこに、私などにかまっている暇がありますの」
「どうかな、君が最後の頼みだったとも、考えられるけど」
すでに何かを察した様子のカトルに、ドロシーは詳しい説明を要求する。視線を受けて、カトルは小さく頷いた。話をまず、女神酒に持っていく。
「女神酒と呼ばれるワインがどんな色をしているか、知っているかい?」
「たしか、限りなく透明に近いはずでしたわね」
実物を見たことはないが、それくらいのことは知っている。だがそれがなんだというのか。
「その女神酒がひどく白濁してしまった記録が残ってる。それは市場に出されていないんだ」
「管理場のトラブルでも?」
「所有者である女性が、亡くなっているんだよ。事故で二人、病気で一人、どちらも結婚する前に」
「そのせいで濁ったとでもいいたいの?」
「神に捧げたと言われるワインだからね、所有者を変えることが許されていないために本来の所有者がいなくなれば濁って売り物にはならなくなる。そう言われてる。今現在出回っているものでも所有者に多くの幸福を与えたものほど、白濁してきているそうだよ。結婚後その所有者の亡くなった後から、徐々にね」
それはそれで「神の嘆き」などというプレミアがついて、より高価になっているという話だ。
「それであなたは、タガーナや私にその女神酒がいったいどう関わってくるといいたいの?」
「それなんだけどね。タガーナさんは三十九代目の女神酒の所有者だろう? それで出ているのが三十四種。出回っていない四種のうちの三種の説明はこれでついたよね。それで、残る一種についてなんだけど……」
うーんと唸って、カトルはプリントアウトした一覧表をドロシーに手渡した。
「消えちゃったんだよ、ね」
「……消える?」
うさんくさげに睨むドロシーに、カトルは肩を竦めるしかない。たしかに、そうあるのだ。
「所有者の命と引き換えに、ビンの中身すべてと、ある一人の人間が、ね」
◇
女神酒の始まりは、ささやかな親心である。
イントレイスはもともと爵位を持たない名ばかりの貴族で、娘の生まれたその年の最高のワインを娘に捧げるというのが小さな幸せであり贅沢でもあった。けれどそれが習慣になった頃から、イントレイスは爵位と共に地位を上げていっている。「伯」を授けられる頃には、娘に、そして神に捧げられるワインは正式に「女神酒」と名付けられ、『女神酒は娘に一つの幸いを与える』そんな噂もすっかり定着した。
幸いとは単純にも「幸せな結婚」ということでしかないのだが、イントレイスの直系の女子がみな穏やかな生活を送っていることは事実なのである。
「女の幸せを結婚だけに限定しているあたりは気に入りませんわね」
ドロシーの呟きに、カトルはあえてノーコメントを決め込んだ。今論じなければならないのはそういう問題ではない。
「四代目の女神酒の所有者だったアエカ・イントレイス……彼女が結婚したときの記録には、持参金に女神酒で得た金額が加えられていない。そして……ここを見て。五代目のクレイル・イントレイス。彼女の女神酒が第四種目として市場に出ているんだ」
「この表では、それしかわかりませんわよ。あなた、消えたとかどうとか言わなかったかしら」
「ずいぶん昔のことだからね、おおやけの物としてはそれで精一杯なんだよ。問題はトマヤ・イントレイスがどこまで、それ以上に調べたかって言うことだよ」
カトルは椅子ごとくるりとドロシーに向くと、次いでプリントアウトされたものをドロシーと覗き込んだ。ドロシーは素早く目を通す。
「………………なんですの、これは」
「だから、ここで公の情報が途切れていなければ、問題は起こらないはずなんだけど」
「絶対に途切れていると思いますわよ……」
「偶然だね、僕もそう思うよ」
「嬉しくない偶然ですわね」
「そう、だよね」
困ったね、とカトルは吐息した。
「これはアエカ・イントレイスの死亡届けになるはずのものだったんだ。脈拍が停止したのは彼女が十六歳のとき。タガーナさんと同じで、もともと躰が弱かったとある。死亡と同時に女神酒がいっせいに濁る。けれどそれから数時間後彼女は息を吹き返し、その後、女神酒は入れ物だけを残して跡形もなく消えてしまっていた」
「女神酒が死んだ所有者を生き返らせたと、あなた本気で言っているの?」
ドロシーは嫌な顔をする。こういう真実味のないばかばかしい話は嫌いなのだ。が、そのばかばかしい話はさらに続く。
アエカが息を吹き返したという頃、イントレイス家のメードの一人が行方不明になっている。アエカと同じ歳の少女だが、彼女には身寄りがなかった。日頃ベットに入ったきりのアエカの世話をしていたのもその少女だ。のちに、生き返ったというアエカが嫁ぐとき、古株のメードが、アエカが行方不明のままのあの少女にひどく似ていたと言っている記録がある。もっともそれは、気のせいだろうということで片付けられているが。
「アエカは家族とその少女以外にはほとんど姿を見せたことがなかった、とあるからね。見間違いだと強く言われて否定することができなかったんだろうね」
「だからつまり、本当は見間違いでなかったとしたらどうだと言いたいわけなの」
ドロシーの目が据わっている。いい加減に付き合っていられないぞ、と言いたいのだ。詰め寄られて、カトルはお手上げ……もとい、降参を示すように両手を上げた。ちょっと、迫力が恐い。
ドカンとドロシーがテーブルを叩いた。
「アエカが行方不明のはずのメードと躰を取り替えたなどと言うのではないでしょうね?」
「僕はともかく、君はそう思ったわけだろう?」
「僕はともかくってなんですの、僕はって、つまり私がそう思うくらいだからトマヤ様も同じことを考えて、死にかけたタガーナと私とで同じことをしようと思っているとでも!?」
「……そう、だったら、困るよね」
「もしそうだとしても、どうして私でなければいけないのよ」
自分でなければその迷惑を被るのは誰でもいい、と言いたげなドロシーにカトルはホールドアップしたまま苦笑するしかない。
「アエカはこの少女が唯一の友人だったんだよ。大好きだったんだろうね」
「タガーナが私のことを大好きだとでも?」
「友達じゃないのかい?」
「たった今タガーナのことを思い出したところですわよ。私、こんなことのためにわざわざこんなところまで出向いているわけなの?」
「彼は、きっと必死だったんだよ。たった一人の妹のために」
なだめるような言い方にドロシーは、打ち出された最後の用紙を握り締めた。今までのように喚いているよりも、低くなった声が違う意味で恐い。
「私、あなたのそういうところ嫌いだわ」
「……はっきり、言うね」
「私に、自分を偽ってまであなたの前で笑顔を作れとでも言うの? あなたは誰にでもそうなのよ。でも私は嫌いなものは嫌いなの」
「……同情だと、また君は言うのかい?」
『あなたは私に同情しているだけなの』
「僕は、君が、そうすることを嫌いなことを知ってるよ?」
「あら、そうかしら」
否定の言葉に、カトルは椅子から立ち上がった。目線の高さが二人、同じになる、いや、少しだけ、カトルの方が高い。
「どうしてかな。僕はいつも、君の気に触ることを言ってしまうようだね」
「ええ、その通りね」
「ねえドロシー。僕はいったいどうすればいいのかな。どうすれは君に……」
ワカッテモラエルノカナ。
「なにもなさらないで」
「……なにも?」
「ええ、そうよ」
「僕は君に何かをしているのかい?」
ドロシーの握り締めいている紙が、手の平の中でしわを作る密かな音を上げた。
「どうしてあなたはそうなのかしら。自分のしていることを覚えていないの? そうでしょうね、きっと覚えていないのですわ。あなたにとってそんなことは当たり前のことでしかないから、だからいちいち記憶していられないのよ」
カトルがドロシーの名を呟く。ドロシーは自分の名を聞いて、一度気を沈めるように瞬きした。
「なぜあなたは、私のことを心配だと言うの? それが、それこそが同情ではないの? ここに私以外の誰かがいても同じことをしているのではないの、あなたは」
「ドロシー、僕は……」
その先に何を言いたかったのかカトルにもわからない。それでも何か言うはずだった。……言うはずの言葉は、ドロシーに制された。
「もうけっこうよ。手伝ってくださってありがとう。あとは自分でいたしますわ」
眼差しをそらしたドロシーは、カトルが呼んでも聞かない。迷いもなく足を運ぶと扉のノブに手をかける。
それと、同時だった。
けたたましく、ぶしつけなノックが響いたのだ。
開いた扉の先に立っていたのは。
タガーナを抱いたトマヤだった。
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