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女神酒泡沫2



「昨日はドロシーの言う通りにしたのだけれど、本当によかったのかしら」
 同じ年頃の人物が他にいないため一緒にいることの多いカトルに、リリーナはいまいち納得いかないように小首を傾げた。M計画メンバーのために用意された部屋のあるホテルはモーニングタイムの真っ最中だ。
 リリーナは、昨夜パーティー会場に着く直前にドロシーから入った連絡を思い出す。
『トマヤ様はきっと、必死になってリリーナ様にお近付きになろうとするわ。リリーナ様はなるべくすごく嫌な顔をして、けれど最終的にお話を承諾してくださればいいのよ。あ、とってもじらしてくださいね、とっても』
 たしかに昨夜のイントレンス公はなにやらとっても必死だった気が、しないでもない。
「本当なら、あのような申し出は受けないようにしていたのだけれど……」
 出資してくれるというのは嬉しいが、M計画そのものに興味を持っていない人物からの依頼は拒否していた。それになにより。
「まさかイントレイスの方からあのようなお話を出されるなんて思ってもいなかったから、重ねて驚いてしまったわ」
 二人のテーブルに、焼き立てのパンの入ったカゴが運ばれてくる。リリーナは煎れたての紅茶を一口飲んだ、
 イントレイスはロームフェラの傘下にいる……ことはいるのだが、代々、何事にも積極的に与しようとしない性格で有名だった。その昔は統一連合への出資すら拒否したこともあるという、わけのわからないロームフェラ財団の一員だ。それでも常に一目置かれていたのは、やはり爵位のせいなのか、誰もが羨み、誰よりも何もしなくとも財団の中では高い地位にあった。トマヤの父親であった前公も重要な地位を与えられていた。だがそのために、オペレーション・デイブレイクでは連合首脳部の一員として真っ先に抹殺された。その際、夫の後追い自殺という形で母をも亡くしたトマヤは、若くして爵位を継いだもののすでに隠居生活を始めたかと噂されるほど今まで以上に消極的な財団の一員となっていた。
 トマヤ・イントレイスは父母を亡くして以来激しく、争い事を好まないようになっていた。争い事に関わった人物も嫌悪するほどだと聞いている。が、かといって派手な平和活動にも興味はない。
「私などは最も彼の忌むべき人物だと思っていたもの」
 しみじみとリリーナが言う。たしかに戦中戦後現在に至るまで、トマヤにとってリリーナは一番お近付きになりたくない人物の代表といってもいいはずだ。
「それを言うのなら僕も同じ立場です。でも、人の考え方は変わるものですから」
 戦争参加者が嫌いというのなら、カトルもリリーナもドロシーも、同じ立場だ。イントレイスほどの人物なら、少し調べればすべてわかってしまうことなのだ。それでも彼はドロシーを選んだ。
「公のおかげで費用の問題もなんとかなりそうですし、M計画も動きが取りやすくなりました。ドロシーには素直に感謝しておきましょう」
 などと口調は穏やかなカトルだったが、実はリリーナがトマヤのことを気にしている以上に、シナリオにはなかった昨夜のドロシーご立腹シーンが気になってしかたがなかった。そもそもシナリオはリリーナにしか用意されていなかった。あれはおそらく、本当に彼女の機嫌を損ねたのだろう。
 でも、だから、いったい何が?
 激しく気にはなるのだが答えがどこかからやってくるわけでもなく、カトルは出されたスクランブルにされた卵をフォークでつつく。
 ドロシーとは久しぶりに逢ったのに、何かとても悲しいような気がしてならない。いっそ、なんて失礼な女だ、とでも思えば気が楽になるのか。けれどそうするには彼女のことを知り過ぎているし、まったく知らない女性だったとしても、カトルにそんなふうに思うことができるわけもない。
 スクランブルエッグがさらにスクランブルにされていく様を、リリーナが心配げに見ている。目が合うと、何でもありませんよとカトルは笑った。
 そこに、五飛とラオがリリーナを呼びにやってきた。食事の途中だというのに、どうしても会いたがっている人物がいると言う。
「わかりました。行きましょう」
「こちらです、外務次官殿」
 立ち上がったリリーナを、ラオが促す。カトルは食べかけの朝食を眺め、二人の後を着いていこうとする五飛のジャケットを引っ掴んだ。
「僕の護衛は?」
「……いるのか、そんなものが」
 五飛は憮然とする。が、どうやら食事を一人で続けるのが味気ないのだと気付いて、仕方なげにリリーナのいた席に腰を下ろした。
「君とかラオとかいるでしょ。そうするとたまに、僕ってそんなに弱くて頼りなさそうかなあって思っちゃうんだ。もちろん、君たちほど腕に自身があるわけじゃないんだけど」
 五飛は黙って給仕の持ってきた水を飲む。くだらない会話に付き合う気はないという態度だ。それを察したカトルは肩を竦めると、話題を変えることにした。
「五飛、イントレイス公のおかげでM計画も動き始めます。君にも、お礼を言っておかないと」
 仕事の話になると、口調が変わる。何となく五飛も姿勢を正すが、口調は相変わらずだった。
「そんなことを俺に言っても仕方がないだろう」
「でも、竜大老に口添えしてくれたのは君でしょう? それに、どうしたってL−5コロニーの本当の陰の権力者は君なんだし」
 陰のなんたら、というあたりに五飛はいささかげんなりする。
「聞こえがよくない言い方をするな。代表も、名義上だけだ」
「だけって、それが一番大切な気がするんだけど……」
 どうしてそういう言い方しかできないかなあ、とカトルは思う。
 オペレーション・メテオから端を発した戦争で、一族の最大の権力者である超老師が亡くなり、L−5コロニー群は統率者を失ったかに見えた。もちろん、実際は住民によって選出された代表者がいるにはいるのだが、代表者は代表者であって、絶対権力とは別のものだ。
「大老は表に出られるのがお好きではない。世情にも関心のない御方だが、俺のことは気にかけてくださるからな」
「うん、そうだね。彼は君がかわいくてしかたがないみたいだったから、すごくね」
 だから大老は、五飛との何気ない会話にのぼったM計画への出資を決めてくれたのだ。
「……かわいいはやめろ」
 ぼそりと五飛が呟く。カトルは肩を竦めてごまかして、聞こえない振りをした。それについて討論を始めると長くなりそうな気がしたのだ。
 大老は超老師―竜紫鈴の実弟である。生まれながらに躰が強くなかったため、直系の男子とはいえ「戦士の一族」であるその場所からは除名されて当然の立場にあった。命も長くないと言われて生を受けたほどだ。けれど姉である紫鈴は彼を、他の一族のものたちのように見捨てようとはせず他のコロニーへと移住させ、老朽化の進んだ自分たちのコロニーとは違う安定した生活を与えた。おかげで強くはないけれどそれなりに健康な躰を手に入れることにできた彼は、六十の歳を過ぎた頃、自爆することを決意した姉より、すべての財と地位を譲り受けることになった。その昔、と言っても五年ほど前のこと、一族の中では珍しく学び屋に入りたいと言い出した五飛を支援してくれたのも、彼である。
「ところで、あのね五飛。以前、竜大老にお会いしたときにね、彼は本当に君のことを心配していて……まあ、あの、とても具体的に、なんだけど」
「なんだ、その歯切れの悪さは」
「その……、大老は今でもお一人だし、御自身の血を継いでいる者がいないということをとてもうれいていらして、その……」
「もう、血族に意味はないだろう」
「……って言うか、そうじゃなくて。いや、そうなんだけど」
「なにが言いたいんだ、なにが」
「だからね、君に見合ったお嫁さん候補がいないことを嘆いていらして……」
 ぶー。と五飛が吹き出したのは水である。
「それでね、いいお嬢さんがいたら紹介してやってくれって言われて……あの、五飛?」
 不意討ちを食らって五飛は半死状態だが、カトルだって困っている。
「できれば君の好みを詳しく……」
「まじめに言うな、まじめに!」
「ええ、だってまじめな話だよね?」
「そんなもの必要ないと五飛が言っていたと、大老にお伝えしろ」
「言えるわけないじゃないか、五飛、自分で言ってよ」
「言えんっ」
 ドカン、と手にしていたグラスを乱暴にテーブルに置く。あんまり乱暴で、中に入っていた氷が一つ飛び出して床の上を滑っていく。カトルは五飛の気と、何事かとこちらに向けられてくる周りの視線とがひとしきり治まるのを待って、卵を一口、口に運んだ。
 うかがうように上目で五飛を観察して、それから、声のトーンを落とす。
「五飛は、必要ないって、言うんだ。そっか、ふーん」
「おまえは必要なのか? だったら人の世話などしていないで、自分の嫁でも探せ。昨夜のあの女でさえ相手がいるんだ、おまえもすぐに見つかる」
「……女の子ってさ、かわいいよね」
「かわいかったか?」
「一般的に、だよ」
 昨夜のドロシーに関してすかさず突っ込みを入れる五飛に、カトルは複雑な顔をした。笑っていいのかどうなのかよくわからない。いや、笑っていいわけはないのだけれど。
 ドロシーは、そう、奇麗だった。でもそれは彼女が彼女であるがための形容詞だ。カトルの周りで彼女だけが、カトルの目にはそう映る。
「五飛のお嫁さんは、かわいかったかい?」
「…………そんなことまで聞かされたのか……」
 五飛は足を組み直した。また水を飲む。
「そんなことが知りたければ、また大老に会いに行けばいい。大老はおまえを気に入っているようだ」
 大老に聞け、と。大老を気遣ってのことなのか、自分の口からコメントしたくないだけなのか。
「……うん。そうしようかな」
 おとなしく引き下がっておいて、でも今度しらふじゃないときにまた聞いてみよう、とカトルは密かに思う。本人の口から聞かなければ意味のないこともある。ただ五飛の相手の名前とか、身分とか、そういうことを知ってしまったんだということを今は伝えておきたいだけだった。自分が知ってしまったことを五飛本人に黙っているのは、なにか申し訳ない気がしていたのだ。これで少し、すっきりした。
「まったく、そのような心配ばかりされて……大老にとっては、俺はいつまでも子供だ」
「でも、ちゃんと君という人物を見極めておられるし、未来の君には大きな期待をされているよ」
「こんなことは早くやめるように説得しろ、とも言われたか?」
 五飛はプリベンターの制服の襟元を、少し引っ張った。自分でも言っていた通り、五飛は竜大老の望みで名義上は大老の後継者としてしている。だが、実際に自分がいる場所は彼のもとではない。勝手なことをしている……と思ってはいるけれど。
「おまえを見ていると、家に入ってしまうのはずいぶん大変そうだからな」
 五飛はじっとカトルを見る。カトルはどう答えようか、うーんと指をあごに持ってくる。やりたいことをやっているのはお互い様だ、と言うべきか言わざるべきか。もったいぶって、うっふっふと笑う。
 今は戦時中ではない。敵が来るとか来ないとか、会話に時間の制限はない。
「ねえ五飛、この会議が一段落したら、今度一緒に飲まないかい?」
 できればみんなと色々な話をしたいね、とカトルは言う。特に異存のない様子の五飛は、酒の話題でふと思い出したことを口にした。
「そういえば大老が女神酒を全部揃えたと言っていた……ような気がする」
「女神酒って、あのイントレイスの銘柄の? 三十四種全部?」
 それはすごいね、とカトルは興味深げに身を乗り出した。
 「女神酒」とはイントレイスの造るワインの中でも透明度の高い、最高級の銘柄である。生まれた娘のためにその年の最高のワインを捧げ、嫁ぐときに競売にかけられる。そのため市場に出回るのはかなり不定期になり手に入れにくく、女神酒を入手するための争いは激しい。が、それとは正反対に、競売によって得た金を持参金に加え嫁いでいった娘は誰もが幸せになるといわれているワインだ。なにしろ「幸せ」付きのものなので、買い手は多くなっても少なくなることがない。日が経つにつれ入手困難となっていく逸品である。
「あ、でも何割かは白濁してて飲めないって聞いたことがあるけど」
「飲むんじゃなくて、集めることに意義があるのだからいいんだろう」
 たぶんな、と念のため五飛は付け加える。
「なるほど……」
 のんびりとした会話はいつまでも続くと思われた。
 銃声が響いたのは、そんなときだった。
 それはずっと遠くからで、緩やかな音楽の流れるフロアでは誰も気に止めることなく朝食を続けている。が、カトルと五飛は同時に顔を上げていた。二人して腰を浮かしかけたところに、五飛の胸ポケットからピロピロと電子音が流れてきた。
「おい、何があった!?」
 ピロピロ音はSOSを告げるものだ。携帯の通信機からの応答はない。代わりに小さなデジタルの画面には発信者のナンバーが表示され、点滅を続ける。
「五飛、発信者は誰?」
「ラオだ」
 二人はすぐにその場を駆け出した。


      ◇


「五飛その音、緊迫感なさすぎじゃない?」
 ピロピロと気の抜ける音にカトルは眉をひそめたけれど、
「レディ・アンの趣味だ」
 あっさり言われてカトルは考えた。なるほど。緊迫感も緊張感もないおかげで、朝食のフロアは騒ぎにならずに済んだ。これがエレガントと言うものだろうか。
 カトルと五飛だって騒ぎをわざわざ大きくする気はない。それでも若さと勢いにまかせて全速力でフロアを駆け抜けていく姿は、M計画メンバーとプリベンターという組み合わせが仲良く走っているのだから大変目立っている。
「リリーナさんに何かあったのでなければいいけど」
「知らんっ」
 応答がなければ会話ができない、会話ができなければ状況を把握できない。
 発砲音だけを頼りにたどり着いたのはフロントフロアだった。一転してこちらは、かなりの騒ぎになっていた。
「すみません、通してください、すみません」
「どけ。どけと言っている!」
 二人二様に集まる人々を押し退ける。そこに倒れていた人間は、二人。
 一人はラオだ。
「おい!」
 声をかけても返事があるわけがない。首の下、かなり心臓に近い辺りを打ち抜かれ意識を失っている。放っておけばすぐに命も失いそうだ。
「大丈夫ですか? しっかりしてください」
 もう一人、カトルが声をかけたのはホテルの宿泊客の女性だった。ラオを至近距離から撃ち、貫通した弾がこめかみをかすっている。命に別状はないだろうがショックで気を失っている。
 カトルは辺りを見回した。
「どなたかドーリアン外務次官を見ませんでしたか?」
 彼女の姿がない。発砲したと思われる人物の姿もない。
 ピルルと再び五飛の携帯が鳴った。五飛が応じると、カトルまで聞こえるほどのサリィの大声が飛んできた。
『ドーリアン外務次官らしき女性を抱えた男を、駐車場付近で見たっていう通報が入ったわよ。何が起こったのか報告しなさい』
「駐車場? 地下か……」
『ちょっと、五飛?』
 通信機に向かって一人ごちる五飛にサリィは怪訝に返すが、五飛は聞いちゃいない。
「救急医料班を急いでフロントによこしてくれ」
 一応上司なのだがそんなことも気にもせず、だから何があったのか説明しなさいっ、と喚くサリィとの連絡を切ってしまう。
「カトル、おまえはここで医療班を待っていろ。俺が……っ」
 俺が行く、いいな。五飛がそう言おうとしたときにはカトルはもうその場にはおらず、地下へ向かう通路の角を曲がってしまっていた。
「カトル!」
 五飛の声を、カトルは背後で聞いていた。けれど足は止めなかった。
 サリィに応対していた五飛よりのカトルのほうが早く動けたから動いた。それだけのことだった。



『たとえば、酒が濁ったら?』

『お兄様、とても浮かない顔だわ。どうしたの?』
 問われて、トマヤは窓際から離れ、妹の傍に寄った。
「なんでもない。だから、そんなに心配そうな顔をするんじゃないよ」
『でも……』
「大丈夫。彼女はすぐに私のもとにやってくる。私もおまえも、心配することなど何もない」
『ほんとうに?』
「ああ、本当だ。私がおまえに嘘をついたことがあったかい?」
『いいえ。……そう、もうすぐなのね? とても素敵ね。とても楽しみね、嬉しいわね』
「そうだろう? だから安心して、さあ、おやすみ、タガーナ」
『ねえ、ねえお兄様。わたしこの頃夢を見るのよ。とてもきれいな夢よ』
「……そうかい?」
『ええ、だからこの頃は、眠るのが嫌いではないの』
「タガーナ、タガーナ。いいからもう、お喋りはやめておやすみ」
『わかったわ。でも、あのね、お兄様』
「……なんだい?」
『お兄様も、いい夢が見られますように。私のように、目が覚めたときに、お兄様も幸せでいられますように』
「タガーナ……」
『おやすみなさい、お兄様。眠るまで傍にいてね』
「ああ、いるよ」
 トマヤは自分と同じ色をした髪を撫でる。タガーナの寝息は静かに整っていって、すぐに夢の世界へと落ちた。妹がどんな夢を見ているのかは、トマヤにはどうでもいいことだった。
「……タガーナ」
 目を閉じている妹を、揺り起こしたい衝動にかられる。タガーナは本当に眠っているだけなのだろうか。もしもこのまま、二度と目を覚まさなかったら? ……心配することは、いつもいつも、そればかり。
 握った手も、去り際に口接けた頬も、冷たい。
 タガーナの容姿は、職人が丹精を込めて手がけた人形のように可愛らしくて、美しい。そう、そして血の通わぬ冷たい人形の姿そのままのようでも、ある。白い肌。痩せた頬。精彩のない瞳。すべてが人形のようだ。けれど……けれど。まだ、生きている。ギリギリのところで生きているのだ。まだ、まだ人形ではない。
 トマヤは強く陽の差し込む部屋のカーテンを閉める。
 静まり返った場所に聞こえるのは、壁にかけられた時計の秒針の進む音と、タガーナの寝息だけ。二つの音に、トマヤは今日も安堵する。

『たとえば酒が濁ったら?』

 ……そんなことはさせない。濁らせなければいい。
 いや、たとえ濁っても。
 あの彼女を。
 手に入れることができれば。
 満足する。
 ……するに、決まっている。


      ◇


 リリーナをさらっていったのはM計画反論者か、あるいは次期大統領選に出馬する彼女以外の人物を支持するものか二つに一つだろう、とカトルは踏んでいた。フロント係は、リリーナを呼び出した人物が犯人だと言っていた。身代金目当ての誘拐ならば、もう少し目立たない人物を選ぶものだろうし、自分ならあんな目立つ人物をさらったりはしない。何よりやりすぎれば彼女の星の王子様の追跡が恐ろしいことを知っている。
 目的地である地下駐車場に続く階段を下りていく。果たして彼女はもう連れ去られてしまった後なのか、それともまだこのどこかにいるのか。広い駐車場を窺っていると、突然背後に人の気配を感じた。反射的に振り返ると、勢い良く伸びてきたものから身を反らす。手袋をはめた手だ。
 カトルを捕まえることができなかった手から、ち、と舌打ちが聞こえた。
「おとなしくしていれば、怪我をせずに済むぞ」
 男の声だ。カトルは身構える。
「発砲騒ぎもリリーナさんを連れ去ったのも、あなたですか。何が目的です」
 男が鼻で笑った。華奢な追跡者を、あからさまに馬鹿にしたのだ。
 カトル・ラバーバ・ウィナーはウィナー家の当主でありM計画のメンバーとしてのみ名を知られる存在である。オペレーション・メテオにもその後の戦争にも、参加したという記録は、もちろん一般には出回っていない。
 男はカトルをたやすい相手だとしか思わなかったのだろう。口が軽くなる。
「こうも簡単に引っかかってくれるとは」
「嬉しそうですね」
「手間がはぶける。主人は二人の身柄を御所望だからな」
 男が銃を構える。カトルは瞬時に身をかがめると、男が発砲したのを合図に懐へと飛び込んだ。弾はカトルにかすりもせず、男が次いで引き金を引こうとしたときには、カトルはすでに男をコンクリートの床に投げつけていた。
 背を強かに叩き付けられて呻く男を見下ろして、カトルは手の平に残ったものを見つめた。投げ技披露のために胸倉を引っ掴んだ。そのときに外れた男のバッチだ。
「……これは……」
 はっきりと見覚えのあるマークの入ったものだった。カトルは男から銃を取り上げる。その一瞬を突かれて、足を、男にはねられた。膝をついたところを背後から羽交い締めにされる。
「………っ」
 腹部に鈍い衝撃を受けた。スタンガンだ。用意のいいことだ。気を失うまではいかないが、力が抜ける。カトルの手放した銃を、男はすかさず拾い上げようとする。カトルがそれを蹴飛ばしてさらに抵抗しようと試みたところに、三度、銃声が響いた。男の銃が弾かれて、大きく飛んだ。
「……五飛」
 現れて危機を救ってくれた人物に、やあ助かったよ、とカトルは笑顔をつくって見せる。いささか力がないのはスタンガンのショックが残っているせいだ。
「本当におまえにも護衛が必要なのか!?」
 五飛は男に銃口を合わせたままうなる。
「うん……ちょっとこれは、面目なかったね」
 カトルは、あははと笑うしかない。太陽付近くんだりまで命をかけてお使いに行ったこともあったが無事に帰ってきた。そんなこともあったというのにさすがにこれは、近頃少しばかり気を抜きすぎていたかもしれない。いろいろな形の戦いを終えても生きているのは、ガンダムという機体が優れていたためだ。そう思うのも思われるのも本意ではない。今度一度五飛相手に護身術のおさらいでもしよう、そうしよう、と心に強く決める。
 五飛が銃を背に突きつけると、男は両手を頭に乗せた。カトルも立ち上がる。
「五飛、ラオとあの女性の具合は?」
「たぶん大丈夫だろうと言うことだ」
「……そう」
 カトルはまだ手の平の中に残っていたものを握り締めた。
 五飛は男に手錠をかける。
「リリーナ・ドーリアンはどこにいる」
 観念した男は素直にリリーナの居場所を口にした。薬をかがされ、柱の陰で目を閉じていたリリーナをカトルが抱き上げる。さっさと歩け、と五飛に小突かれる男に目を向けた。
「ここまでするほどに、イントレイス公は僕に何か恨みでも?」
「なに?」
 振り向く五飛に、カトルは手の平の中のものを見せた。葡萄の蔦をモチーフにした紋章。それは間違いなくイントレイスの門地の人物であることを示すものだ。
「……あのイントレイスがか!?」
 さすがの五飛もさすがに意外そうな顔をした。イントレイスの事なかれ我関せず主義は五飛だって知っている。
「おまえや俺たちが気に入らないからといって、わざわざ手を出すとも思えんほど世俗に無関心な人間だと思っていたがな」
 昨夜の今日で、二人がガンダムパイロットだということに腹を立てた、と五飛は思ったのだが。よく考えると何か違う。知らないからたった一人しかよこさないなどという無謀なことができたのだ。つまり彼は何も知らずに、ただただこの男をよこしたと言うことになる。
 だが男は、それも否定した。
「公ではない。ドロシー嬢のお望みだ」
「ドロシーが?」
 カトルのつい声が大きくなったのは素直に驚いたからだった。なんだ、と言いたげに、五飛が他人事のように肩を竦めた。
「相変わらず、手間をかけてまでおまえと対立する場所にいる女だな」
 どうやらホワイトファング時代のドロシーを思い出したらしいが、でもそれなら君だって僕と同じ立ち場だろう? と突っ込む気は今のカトルにはなかった。
 ……ドロシーが、僕たちを?
 眠っているリリーナを眺めると、乱暴にされたのかそれとも抵抗したのか、手の甲に小さな傷ができていた。
 カトルの脳裏は、なぜか金色に染まっていた。
 「彼女」の金色だ。
 ……ドロシーが? それは違う。ドロシーならリリーナへの乱暴を許さないだろう、それに、彼女ならもっと狡猾な手段を用いてくるはずだ。ガンダムパイロットの手練を軽んじたりすることはないだろう。
 ……ドロシー、君に何が起こっているんだい?
 ふと思ったとき、どこかで彼女の声が聞こえたような気がした。


『ねえ、カトル。それをなんと言うか知っていて?』
『違う、僕は……』


 彼女に、自分は必死になって何か言い訳しようとしている。これは「あのとき」の、MO−Uでの会話だ。彼女は麻酔が聞いてきて意識の遠ざかっていく自分に、笑いかけた。

『−いいえ、違わないわ。あなたは私に……………』


 あのときの彼女の言葉。

 ざかざか歩け立ち止まるな、おらおら、と誘拐未遂犯を連行する五飛は威勢がいい。
 カトルは脳裏に焼き付いた金色が眩しくて、目を、細めた。


      ◇◇


 この世界は嫌い。
 世辞も愛想もすべてが泡沫のように、目には見えない悲鳴をあげて消えていってしまう。同情すらここまでは届かない。心に染みない。ほら、目の前でまた消えていってしまう水の泡。
 ここから助けてくれるのは、いつも彼女だけだった。 奇麗な天使だけだった。
 彼女の傍にいたい。彼女が傍にいてほしい。
 そうすれば、少しはこの心も奇麗になるかもしれない。何もかもが大嫌いな世界だから、この心も嫌い。嫌いなまま、この心は成長していってしまう。
 彼女はあんなに奇麗に、女神のように成長した。
 女神酒の祝福を受けたのは、まるで彼女のよう。
『トマヤはそう思わない?』
 彼女こそが、この心であればよかったのに。
 せめて、この心の傍にいてくれたらどんなにいいか。
『トマヤ……』
「…………」
『トマヤ……』
「…………」
『お願いトマヤ。早くこの世界の雑音を消して。早く、彼女を手に入れて』


      ◇◇

『−…………』
 呼ばれた気がして顔を上げたトマヤは、すぐにそれが幻聴だということに気が付いて苦笑した。
「どうかされましたか?」
 気遣うように問われる。が、相手が相手だったのでさらに苦笑を重ねることになる。
「君が、私の心配をするのかね?」
「意外ですか?」
「……意外? いや、そんなこともないのだろうね。どうやら君はすべてにおいてとても融通の利かない人物のようだ」
「そうですね、僕もそう思いますよ」
 出されたお茶を、カトルは疑いもせずに口に運んでいく。トマヤはカトルが一口含むのを見届けた。
「その紅茶には、毒が入っているよ」
「そうですか? 気が付きませんでした」
 カトルはほんの少しも表情を歪めることはない。トマヤはおどけて降参のポーズを示すと、テーブルを挟んだカトルの向かいの椅子にかけた。
「さて、ところでカトル君。私には、君が私を訪ねてくるという理由がはっきりしない。もうそろそろ会議の始まる時間ではなかったかね? 私は不真面目に行なわれているM計画に無駄に投資する気はないよ」
「会議は延期されました。僕もリリーナさんも、心配されるほど不真面目ではありません」
「それはよかった」
 カトルはカップをソーサーに戻すと、テーブルに置いた。カチャリ、と硬質の音が静かな部屋に響く。
 会議が延期された理由は二つあった。一つは、今朝の騒ぎからそれほど時間が経っていないため、リリーナの体調をみなが気遣ったこと。もう一つは、イントレイス公爵家からの多大な投資が急きょ決まったため、書類が整わなかったこと。いや、整っていることは整っているのだけれど、不備があってはならないことなので十分にチェックの時間を取ることにしたのだ。そういう名目で、誰もがリリーナのことを気にかけている。
「それで、君はなぜここに?」
「僕をここに呼んだのは、あなたです。イントレイス公」
「私が、君を?」
「ええ、そのはずです」
「……なるほど。確かに君は融通の利かない……」
 く、と喉の奥で笑う。
「私は驚いているよ、カトル君。なぜ君は、無傷で、こうしてここにいるのだろうね」
「それはあなたが、リリーナさんや僕にあの手荒い使いの方をよこされたことを、お認めになられるということですか。わざわざドロシー・カタロニアの名を使うなどと回りくどいことまでなさって、何がしたかったのです?」
「ほう……、君は彼女の名を出されていながら当然のようにここに来た。彼女のことをすばらしく信用しているのか、それともしていないのか、どちらかのようだ」
「それにお答えする必要が、ありますか?」
「ぜひ、伺いたいものだね」
「……生憎ですが、お答えできません」
「なぜかね。私に話すことのできない、彼女とのなにかがあったとでも?」
「まず、あなたのお話を聞かせていただきます。僕達をどうするつもりだったんです。もちろん、ドロシーのことも含めて」
 カトルの眼差しは揺るぐことがない。
 カチリ。……と音がして、それまでなにかを計算し続けていたトマヤの視線が、宙に浮いた。
 小さく音を立てるのは、部屋に置いてあるアナログの時計だった。その音にトマヤは見向き、次いで響く秒針の音に目を見張る。静かになりすぎた部屋で、トマヤは無意識にもう一つの音を探し始める。
 ……呼吸する音。
 彼女の…………。
「イントレイス公?」
 うかがう訪問者の眼差しにトマヤは我に返り、大きく息を吐き出した。
 ここは。
 ……ここは、彼女の部屋では、ない。
「……君たちをどうするか……だったね」
「ええ」
 トマヤの声が微かに震えている、そう思ったのはカトルの気のせいだったのか。
「それはこちらのせりふなのだよ、カトル君。まったく君は……君は無傷でここにいて、いったい私はこの先、君たちをどうすればいいのだろうね」
 トマヤは、凝った装飾の施された窓の枠の向こうの景色を眺めた。温暖な気候のこの土地だが、ここ数日は日差しが強い。光に細めた眼差しが、そのままカトルに向いた。
「君たちをどうすれば、私の気が済むと思うかね」
 目の光はどこか歪んでいて、カトルは息をのんだ。
「……僕達は、あなたに何か失礼でもしましたか?」
「いや、そうではない」
 あっさりと否定されて、カトルは脱力を感じる。けれどそれを気取られてはいけない気がした。この男はどこか……。
「そうではないが、彼女の執着するものはすべて、消し去ってしまいたかったのだよ。……そう、そうしたかったのだよ、私は……」
 いいながら、トマヤは自分の中での結論を見つけたようだった。本人はそれですっきりしたようだが、それを言葉にされ、聞かされるカトルは居心地が悪い。トマヤは冗談を口にしているわけではなく、そして自分はトマヤの目の前に、いるのだ。
「……どうやっても彼女は私のものにならない。いや、私のものになどならなくてもいい。だが手に入れなければならない」
「ドロシーは、公の御婚約者だったはずですが」
「ああ、ああそうだ。彼女は私のものだ」
 独り言のようにも聞こえた。
 腰を浮かしかけたトマヤは、支離滅裂になりかける己の言動を取り繕うように、何度も頷いては自分に確認を取っているようだった。
 少しづつ狂っていくように見えるこの男の前で、逆にカトルは冷静さを増していく。
「それほどにドロシーを想っておられるのに、なぜ彼女の名でリリーナさんを傷付けるなどということをなさったのですか」
「邪魔だったのだよ。ドーリアン外務次官も、君も!」
 大きくなった声は、秒針の刻むときの音を完全に消した。
「そう、邪魔なのだよ。彼女の心を少しでも占めるものはすべて! 私には彼女が必要だが、君たちは必要ない。それなのになぜ彼女ではなく君がここにいる!? 今頃君たちは彼女の中から消え去っているはずだったのに」
 完全に立ち上がったトマヤを、カトルは見上げた。トマヤの言葉にはとくに感想もない。口を閉ざしたままでいると、右手にあった扉が大きく開かれた。
 気のせいでなくとも、とても不機嫌そうなドロシーの登場である。



「ごきげんよう、トマヤ様」
 地鳴りのしそうなくらい低い不機嫌な声が響く。昨夜この地を発ったばかりだというのに、帰り着いた途端のリリーナ負傷の知らせに取って返してきたのだ。疲れも混じって不機嫌にもなる。しかも。
「どうしてあなたがここにいますの、カトル」
「さあ、どうしてかな」
 腰に両手を当てて覗き込まれて、カトルはこの部屋に入って始めて、笑みを浮かべた。
「なぜここで微笑んだりできるのか、私の理解の範疇にはありませんわね」
「そうかい?」
「そうですわよっ」
 ツンと横を向いたところで、トマヤと目が合う。トマヤはメードの入れ直したお茶を口に運び、多少落ち着きを取り戻したようだった。
 だが、何もなかったことにしようとしても、そうはいかない。
「私のリリーナ様に傷をつけたのはよろしくありませんでしたわね。あなたがここまで間違ったことをなさる方だと見抜けなかった私に、非があるとお思いでして?」
「あなたの母上ならば、私を選ぶでしょう」
 例えば、その笑み、とか……。
「お母様が欲しいのは公爵の名だけですわ。ええ、とても魅力的ですけれど、魅力的なのはその位だけであって、あなたではないんです」
 ドロシーも、カトルとトマヤの間にあった椅子にかける。
 なにもドロシーの母も地位を絶対的に考えているわけではない。それでも娘かわいさについ、こだわりたくなってしまった。優しい親心だったのだ。
「しかしあなたは、私の物になっていただかなければ」
「ええ、トマヤ様がトマヤ様でなければ、そうですわね、その情熱に負けてトマヤ様を選んで差し上げたかもしれませんわ。でも、あなたはあなたであってトマヤ様を名乗られるのですもの、まったく、呆れてしまいますわね」
「おや、私はなんと名乗ればお気に召したのかな」
「ぜひ、偽トレーズ・クシュリナーダ、と」
 突拍子に思われた名に、けれど傍で聞いていたカトルは、ああなるほど、と妙に納得したものだった。そう、例えばその笑みとか、仕種とか、どこか記憶にあるものだと思っていたのだ。
 トマヤは無意識だったのかもしれない。それでも、いつでも頂点にいた彼を、誰もが想いを、それこそ無意識に寄せるものなのだろうか。
「あなたがトレーズ様なら、無条件に愛して差し上げましたのに」
 山のような赤い薔薇も、彼に似たすべても、なにもかもを−。
「トレーズ様の真似をなされば私の気が引けるとでも思ったのかしら。……トレーズ様よりすばらしい方は、まだ私の前に現れない。では私は、誰のものにもならない。それに……」
 まるで重大なことのように付け加えようとしたドロシーだったけれど、一度息を吐き出すとどうでもいいことのように言った。
「『あなた』が私を心から必要としているのかどうかくらい、わからない私ではありませんわ」
 もしも、愛されているのだと、ほんの少しでも感じることができたなら、どうなっていたかわからないけれど。
 例えば。
「こんなに私は、あなたを欲しているのに」
 言葉をもってしてさえ伝わらないものもある。もちろん、その言い寄る熱意が持続し続けていることには少しは感動もする。でも、同情はしない。それは嫌い。するのもされるのも、大嫌いだから。
「なぜ私にこだわるのかしら」
 問われて、トマヤは笑んだ。
「むろん、あなたを愛しているからで、他に理由はない」
 ぶちり。
 と、ドロシーの中でなにかが切れる音がした。やっぱり、絶対的に第一印象から変わらずに気に入らないのだこの男は!
 勢い良く立ち上がったドロシーは、勢い良く目の前のテーブルをひっくり返した。あ、なにもそこまで……と言う顔をカトルがしたのも気が付いたし自分でも思ったけれど、どうにも、気が治まらなかったのだ。
 高級なテーブルに乗っていた高級なお茶が、高級な絨毯に広がって染みになっていく。
「はっきりさせましょうか、トマヤ様。母には言いましたけれど、私、カタロニアの名も捨ててしまえるほど、初めからあなたのことが気に入らないのですわ!」
「……私は、かまいませんよそれでも」
 手にしたままだったため無事だったカップを口へと運ぶ。ドロシーはそのカップもはねのけた。
「あなたはよろしくても、私はよろしくありませんわ。さあもう、あなたが私につきまとうのも、私があなたに付き合って差し上げるのもここまでです。あとあなたがやらなければならないことは、リリーナ様に深い謝罪を表明することと、あなたが流した、貴方と私が婚約したなどという偽りごとの撤回だけです。それでは、ごきげんよう」
 あなたも行きますわよカトル。とカトルの手首を引っ掴むと、すたすたと出口に向かう。そのドロシーは見向きもしなかったが、
「では、失礼します」
 なにやらわけのわからないうちに退場することになったカトルは、ご丁寧な挨拶がてらトマヤに振り返る。そのトマヤの目は、ドロシーだけを追っていた。



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