女神酒泡沫1 「……お母様、それ以上にそのお話を進められるのでしたら、私、カタロニアの名前も放棄しましてよ」 ドロシーは用意されているお茶に手もつけずに、結論を告げる。 「でもねドロシー、とてもいいお話だと思うのよ。だってあちらは……」 「ええ、そのあちらは『あの』イントレイス家の方ですわよ。それなのによりによって、なぜ私ですの? 少し調べれば、私が一年と半年前に何をするためにどこにいたのかくらいわかるはずです。それでも『あの』イントレイスが、どうしても私でなければ、なんていうのはおかしいですわ」 欝とした季節もまっただ中だった。同じ地球上でも、よその地区は農閑期に入るため盛んに結婚式の行なわれるハッピーな月だというのに、ここJAP地区は梅雨前線に上空の気象状況を牛耳られている。 AC−197年六月。 恵みの雨という名目で降り続く雨は、これでかれこれ三週間目に突入しようとしていた。 「私が何をしたのか知っていれば、決して声などかからないはずでしょう? ろくに調べもしないで」 「ねえドロシー、あなたがこのお話に戸惑うのもわからないではないけれど、もうあなたも十七歳になるのだし……」 「まだ、十七ですわ」 「でも、お母様の頃はね」 「お母様の頃と今では、時代が違います」 きつく言って腰を浮かす。だけれど母の悲しそうな目と目が合ってしまっては、ごめんなさいと謝るしかなかった。 「とにかく、このお話はお断りしてください」 「……そうね、そこまであなたが言うのなら」 一応、同意と承諾を得たところで、ドロシーはひとまず安堵の吐息をついた。もっともあくまでも、ひとまず、でしかないのだが……。 「お嬢様、お客様がお見えになっていますが、お通ししてよろしいですか?」 「お客様?」 そういう予定は今日はなかったはずだが。 「……まさか」 なんだか嫌な予感を抱きつつ客の名を問うと、メードはにこやかに応える。実に期待を裏切らなかったその名前に、ドロシーはなんともいえない複雑な表情を作った。あまり複雑で読めなくて、メードは困ったように首を傾げた。 「あの……お嬢様?」 ドロシーはメードと、そして母を見比べた。メードのほうはただただ仕事に忠実な顔をしているだけなのだが、母が……なんというか微妙な顔をしているのだった。 「……お母様、それでこの場はいったいどうすればお気に召しまして?」 こんなことを聞けば返ってくる答えは決まっているも同じだった。案の定、ドロシーと同じ金の髪を持った婦人は、母娘なのでドロシーも穏やかに優しく静かに暖かくいたわるように笑えば似ているかもしれない笑みをたたえて、ドロシーにこうお答えになった。 「ドロシーがその方と少しでもお話の時間を取ってくれると言うなら、お母様はとても嬉しいわ」 「……………………わかりました。お会いいたします。でも私の気は変わらないと思いますわよ」 ドロシーにとっては、まったくタイミングが悪いとしか言いようがなかった。 ……今日は三分しか持たなかったわ……。 母を説得すると大抵、次にこの話題が持ち出されるまでには三日の猶予はあったのだが……今日は三分だ。たった三分。一時間かけて説得したのに、三分……。 三分三分としつこく心の中で繰り返しながら、ドロシーは母に言われるままに玄関まで出る。しかし足が重い。母の重ね重ねの希望によりわざわざお出迎えに行かなければならない人物は、このたび散々カタロニア家の母娘の話に上がり盛り上がりを見せている、トマヤ・イントレイス二十四歳である。なにを思ったのか、彼じきじきたっての希望でのちのちもしかしたらドロシー・カタロニアの配偶者つまりは連れ合い、つまりは伴侶となる、かもしれないかもしれない者……だった。 ドロシーにとって、このたいそう傍迷惑な求婚話が転がり込んできたのはこの年が明けてまもなくの頃だった。 トマヤ・イントレイスとは母の付き合いがら昔からの馴染みではあったけれど、昔というのは泥んこになって駆け回っていてもおかしくなかったほど昔のことで、ここ数年は音沙汰もなかった。そんな彼からいきなり「まずは御一筆」などとたわけた手紙が大量のキャンディーと共に送られてきたときには、ドロシーはとりあえずトマヤという人物がどこのどいつだったのかすぐに思い出せなかった。トマヤのことを母の助言で思い出して以降も、トマヤに対するよろしくない印象はぬぐわれない。そもそも、彼の存在を思い出したからといってぬぐえるほどの美しい思い出もないのだ。 「からかっているのですわ、この私を!」 それを否定する材料は何もない。 一度そう思ってしまうと不思議なもので、以後何度も訪ねてきては今日と同じ手順で仕方なく会う彼が、いくら紳士的に穏やかにかつ立派に振る舞って見せても、ドロシーの目には「私をバカにしているふざけた男」としか映らないのだった。 付け加えれば、ドロシーの気をさらに損ねた一件もあった。それは四月の初旬。リリーナの誕生会に出席していたドロシーは、核爆弾魔事件に巻き込まれ傷を負った。小さいものだったが傷は傷、怪我は怪我。どこで聞きつけたのか見舞いと称して送られてきたのは、死ぬほど大量の赤い薔薇だった。ちなみにとあるもう一人の人物からは、大輪のカサブランカと黄色のチューリップなどという組み合わせで程よく抱えられるくらいの花束も届いていたわけなのだが、まあ、それは置いておいて。とにかくその赤薔薇の何がどう気に入らなかったのか、以来ドロシーは、ますます、トマヤという人物を嫌がっている。 「まあ、ようこそおいでになりました、トマヤ様」 どこからどう見ても「ようこそ」などとはこれっぽっちも歓迎していない口調でドアを開ける。シルバーに近いグレイの髪をきちんとセットし、お抱えデザイナーの仕立てた高級なスーツに身を包み、雨に濡れたコートを片手にかけたトマヤは、しかし、ドロシーの愛想のない口調にも表情にも怯まずににこやかに挨拶をする。 「ごきげんようドロシー。今日もまた、この扉を開けてくれましたね」 「勘違いなさらないで。あなたのためではなくて母のためよ」 「では、あなたの母上に感謝しなければ」 「感謝でも感激でも、なんでもなさればよろしいわ」 ついでに小踊りでもへそ踊りでもして母に嫌われてしまえ、と思う。 「それで今日はまた、どのような御用の向きでいらしたのかしら」 「あなたの顔を見に」 「まあ、滑りのよろしい、お口ですこと」 ドロシーは窺うように自分より頭一つも二つも高い男を見上げた。どうもこの男の口調は、真意を読み取りにくい。 「おや、本音ですよ?」 どこまでも、どこまでもにこやかな男だ。ドロシーは何かを警戒するように声を潜めた。 「私には、あなたが何を考えて私などを相手にするのか、見当もつきませんけれど」 「あなたはとても、素敵な方ですよ。そんな顔ばかりでなく、いつかは私に笑って見せてください」 腕組みして扉にもたれるドロシーの耳元に、トマヤは顔を寄せた。 「……なにをっ」 振り払おうとする直前に、囁くように言葉を紡がれた。そのトマヤの表情は、ドロシーからは見えないがやはりいつものようににこやかだったのかどうか……。 ドロシーは微かに目を見開いた。そしてトマヤを突き放す。 トマヤは一見優しげにドロシーを見下ろしている。ドロシーの表情には驚き……というよりは嫌悪が広がっていく。プライドに触れた、そう、そんな嫌悪。 睨むドロシーに、トマヤは何事もなかったように「見送ってくれてありがとう」と傍目には礼儀正しく姿勢正しく傘をさして帰っていく。 視界から男の姿がすっかり消え失せても、ドロシーは眼差しを弱めなかった。挑まれたので挑み返す、そんな目だ。 『たとえば、あなたにすでに想う人がいたとしても、それは私には関係ないことです。いい加減に、あなたは私のものになってもらわなければ困る。どんな手段をこうじても、私のものにしますよ。私の、ドロシー』 聞きようによっては熱烈な愛の告白だが、ドロシーの気に入ることはなかった。そこまで想われる、必要とされる理由がどこをどう考えてもないのだ。 受けて立つ、いざ尋常に勝負! というのも何か違うが、あえて言うならそんな気分だ。 ドロシーは重い扉を乱暴に閉めた。 「グラス、グラス! 塩をまいておいてちょうだい!」 執事を呼びつけ、何があったのかと母に問い質されないうちに自室へと戻る。 「あの男、あそこまで言うわりには私のことをなにもわかっていないようね」 だからわかってもらおうなどという気はさらさらない。だがとにかく、なんだか腹立たしい。この苛立ちをどうすべきか。 長い長い髪をかきあげると、手近な椅子に腰を下ろす。 ……さて。 どうしてやろうかと考えていると、塩をまき終えた執事が手紙の束を届けにやってきた。今は手紙を読むような気分ではないと思いつつも、美容や健康をテーマにした商品のダイレクトメールだらけのものに目を通す。その中の、とある一通に目を止めた。シンプルで品のいい封筒からはおそろいの便せんが出てくる。タイプで打ったのではない、手書きの短い文章。 ※ その一部、抜粋。 『あれから二カ月が経とうとしていますが、その後、怪我の具合はどうですか? 近頃、貴方が婚約されたと聞きました。まずは取りあえず書面をもって、お祝い申し上げます』 「……なんですの、これは……」 追伸に、お祝いの贈り物は何がいいでしょう、などと途方もなく勘違いなことをしたためている差出人の名は……。 ドロシーは読み終えた手紙を乱暴にテーブルに叩き置くと電話の受話器を取り、付属の液晶画面を開いた。知っている人しか知らないアクセスコードを打ち込むと、コードの持ち主が秘書も通さず直接連絡に応じた。 「まあ、ドロシー? こんにちは」 呑気に柔らかく笑んで画面に現れたのは、リリーナ・ドーリアンだった。 「今ちょうど、M・A計画会議が一段落着いたところよ」 いいタイミングだったわね、とM・A計画(マーズテラフォーミングA段階プロジェクト)の中心人物となっている彼女は疲れも見せない。 「お疲れ様です、リリーナ様。ええ、タイミングはこちらも見計らっておりますわよ、もちろん。それでその辺りに、同じく一段落ついて、くつろいでお茶でも飲もうかなどとほざいているカトル・ラバーバ・ウィナーは見当たりませんこと?」 恐れ多くも次期大統領選挙に立候補しようかという人物を繋ぎ役にするドローである。もっとも、リリーナ本人はそんなことはまったく気にしていないようだが。 「ええ、すぐここにいるわ。代わるわね」 でもその前に、とリリーナは微笑みをさらににこやかにした。 「御婚約おめでとう、ドロシー」 「…………」 思わず、リリーナに向かって「は?」などと聞き返してしまうところだったドロシーは、「は?」と言いたいのを懸命に飲み込むと、どこからどう見ても無理をしているに違いないひきつった笑みを造った。 「あの、リリーナ様? そのお話をいったいどこでお聞きになりまして?」 「あら、お相手は『あの』イントレンス公爵だもの。社交会はその話でもちきりよ」 リリーナの「あの」は、イントレイスの所有する莫大な財産と公爵という位に対する知名度を差していた。財産の一つである広大な土地で栽培されている葡萄はどれも質が良く、それから造られたワインは全世界に流れていく。このワインもまた、知名度を上げる役目を果たしている。要するに、基本的に、イントレイスはかなり有名なのである。 「……社交会……」 ちょっと熱が出てきたかもしれない気分で、ドロシーは頭を抱えた。ふざけた手紙の差出人にどこから飛び出たデマかを問い質そうと勢い込んでいたのだが、これは、もうなんというかすでに………八方塞がり、いや、八方垂れ流し状態ではないか。 画面の向こうの景色が右に六十度ほど動いた。こちらもまた疲れた様子を微塵も見せない笑顔で、ひらひらと手を振るカトル・ラバーバ・ウィナーが現れた。 「やあ、顔を見るのは久しぶりだね。あなたのほうはご結婚も近いということで忙しそうだけど、元気ですか?」 にこやかに、相変わらずつらつらと愛想の良い言葉が流れてくる。 「初めて聞いたときは僕も驚いたけれど、御婚約、本当におめでとう」 「……………」 「それで、僕になにか用ですか?」 「……………」 「ドロシー?」 ドロシーはカトルには何の返事もしないまま、そこで一方的に通信を終わらせた。 ブチ。 目一杯握り締めていた受話器を叩き付けると、画面が真っ黒に戻る。 肩が震えているのは、別に泣いているからではない。「そういう手段をこうじていらしたわけね、あなたは……」 なにやら恐ろしげに呟いて、ドロシーは再び受話器を手にした。 ……さて。 ますますもってどうしてやろうか、あの男。 たった今、雨の中を帰っていったあの男。トマヤ・イントレイス。……あの男! ◇ 一方、一方的に電話を切られてしまったカトルは、古来から人がなぜかみなそうしてきたように、切られたことをわかっていても受話器に向かって名前を呼んでいた。 「ドロシー? ねえ、ドロシー?」 受話器からはぷーと無情な電子音がするばかりで、あきらめて持ち主であるリリーナに受話器を返す。 「僕、なにか失礼なことを言ったかな」 会議が終了したばかりで、ここ会議室出入り口付近は込み合っていた。 「おい、おまえたち場所を変えろ。ここでは通行の妨げになるだろう」 邪魔人間二人のうちの一人はリリーナであるために、あえて誰もしようとしなかった注意を促すのは、プリベンターの制服を着、今やすっかりプリベンターの一員となっている五飛だった。世の中は先日の「ドーリアン邸核爆弾魔テロリスト事件」規模の事件が起こることは滅多になくなっていて、彼の仕事は大きな会議の警備、及び主要人物の警護が中心となっていた。 「さっさと移動しろ」 相変わらず誰に対しても横柄な彼は、彼なりに仕事を続行しようと、注意をするだけして会場の見回りのためにその場をあとにしようとする……ところをカトルに捕まえられた。 「ねえ五飛、君はどう思う?」 「……なにがだ」 いきなり話題を振られては、こう返事をするしかないのだろう。だがカトルはさらにいきなりな質問を続ける。 「マリッジブルーって、ああいうものなのかな?」 「おまえ、何が言いたいのかわからんぞ」 むー、と二人、見た目には睨み合っている。五飛の場合は「マリッジブルー」という聞き慣れぬ言葉の意味がわからんようであるし、カトルはカトルで「だって君、既婚者だろう?」と今この場で五飛自身が公表していないのにほんの偶然で手に入れてしまった情報を公開するわけにもいかず、どうも二人、話が噛み合わない。 見合うことしばらくして、ごめんねもういいよ、と先ににらめっこから下りたのはカトルのほうだった。 「でも、今度またゆっくり教えてね」 「……だからなにをだ」 ううん、本当にもういいんだよ。と勝手に一人で納得して、カトルはそれきり言葉を切ってしまった。次の会議は明日の夕方から始まる。それまでには新たな書類に目を通し、色々な準備を整えて置かなければならない。今日もこれからまだ行かなければならないところがある。余計なことを考えている暇はない……と、そこまで思って、カトルははたと自分の思考を振り返る。 余計なこと? 何が? ドロシーのことが? ……ああ、そうか。 と思う。確かに「余計なこと」かもしれなかった。彼女のことは、仕事に集中しなければいけないという気持ちをひどくかき乱す。 ……かき乱すのだ。 ◇◇ 「まったく、忙しい身分だな、おまえたちは」 仕事は仕事だが、これから向かう場所が場所だけに五飛は退屈そうに言葉を投げた。 「そうかな、僕はもう慣れてしまったけれど」 隣に座るリリーナと瞳を見合わせて、カトルは少しだけ笑う。 「僕は、君のほうこそ大変だと思うけどね」 時間は夕刻を過ぎていた。つい先ほど会議を終えたその足は、一度部屋に戻り書類に目を通しシャワーを浴び、今はこの地区の代表者たちによって催されるパーティーへと向かうところだった。会議のあいまあいまに開かれるこういった催しは、M計画のための出資者を募るものである場合が多い。理解者を増やすためにも、こういうことが行なわれようとしていることを広めるためにも、手間暇を惜しんではいられない。 迎えの車には運転手とカトルとリリーナ、そして五飛と五飛の部下にあたる一人が護衛のために乗り込んでいた。運転手以外の四人はみな、護衛の二人も会場に紛れ込むために正装をしており、年頃も近いせいか一見和気あいあいとしてみえた。カトルはリリーナと五飛、そしてもう一人……たしかラオと名乗った人物を眺めた。 リリーナはラオと会話を交わし、笑い合っている。話が合うようだし、もしかしたら彼女はここにはいない……というかどこで何をしているのかもよくわから ない、ある人物の姿とラオを重ね合わせているのかもしれなかった。ラオは彼に、どことなく似ている。五飛や彼と同じ東洋系のせいだろうか。 五飛は隙のない瞳を窓の外に向けている。五飛のこういうときの衣装は上層部の女性たちが適当に決めているようだった。チャイナを基本にしてやたらめったら派手な場合は、サリィ・ポオの選出だと五飛が言っていた。今日はチャイナはチャイナでもわりとおとなしめのものなので、上司の反動で地味なものを好むサリィの部下が選んだのだろう。ごくたまにスーツを纏っているときはレディ・アンだ。五飛が自分の好みを放棄してまでそれらを着ているのは、彼に頓着がないわけではなく、いちいち選ぶのも口を出すのも面倒なのだから、なのだろう。 ……などとカトルは道すがら、つらつらと、半ばどうでもいいことばかりをを考え続けた。今からのパーティーのことを考えたくなかったのだ。……パーティーが嫌なのではない。それはそれで気分転換になることもある。問題は。カトルにとっての問題は、その主催者の名だった。ついさっき初めて聞かされたのだが、トマヤ・イントレイスという名にリリーナと顔を見合わせてしまった。 それからのカトルはなぜか落ち着かなかった。 『華やかな舞踏会を彩る、エメラルド、ルビー、ガーネット、翡翠、サファイア、オパール。富のちからと権力の、争いと和解のたびに、宝石はその主人を変えた』 リリーナと共に通された広間でカトルは唖然としながら、どこかにそんな歌があったことを思い出した。 簡単な立食形式のものですからと招かれたそこには、想像もつかないほどの額の宝石で身を飾った婦人たちのたわむれる井戸端会議が繰り広げられていた。耳に飛び込んでくるのは、美しいワルツを乱す甲高い笑い声ばかりだ。 「悪趣味だな」 率直に素直に感想を述べたのは五飛である。 「……失礼だよ」 カトルはたしなめるように五飛に見向いてみたけれど、いかんせん事実は事実なので説得力がない。 「カトル、あれを……」 同じく言葉を失っていたリリーナが、とある人物に目を止めて我に返る。視線で示すのは、婦人たちの中央に座している人物。 「ドロシー………?」 「……よね?」 高く足を組み上げ、黒い細身のドレスに黄金の髪が映える。テーブルについた肘の先のてのひらが覆っている唇が、眼差しの合ったカトルやリリーナに笑いかけた。 「ようこそいらっしゃいました、リリーナ様、そしてカトル・ラバーバ・ウィナー様。私ども、心から歓迎いたしましてよ。私たちきっと……」 「そうですね、きっと……」 ドロシーのせりふを引き継いで現れたのは、トマヤ・イントレイス公爵だった。ドロシーの片手を取ると、甲に口接ける。 「きっと、あなた方の気に召すものを差し上げることができると思っていますよ」 「……そうですか、ありがとうございます。ではさっそくお話を」 一歩前へと出たのはリリーナだった。 カトルは、ドロシーをまだ見ている。 ◇ 『賭けをいたしましょうか、トマヤ様』 数時間前に電話回線越しに話を持ちかけたのは、ドロシーだった。 『ここまで強引な手段に訴えてくるのも、よほど私を気に入ってくださっている証拠。これ以上ないがしろにしてしまっては罰があたってしまいますわ。そうですわね?』 液晶の画面の向こうで、トマヤは少し笑ったようだった。 『私が勝ったら、あなたは私のものになるとでも?』 『そうですわね。検討して差し上げますわ』 『それはそれは。それでドロシー、私はどうすればよろしいか?』 『ええ、それでは……』 ◇ 「あなたの婚約者は、噂通りのずいぶんな資産家のようですね」 優雅に流れる音楽の下、すでにトマヤとリリーナは話し合いを始めていた。出遅れたカトルはリリーナの邪魔をすることをさけ、一人になったドロシーのもとに寄る。 礼儀正しく挨拶するカトルを、ドロシーは椅子にかけたまま細めた瞳で見上げている。 「でも、リリーナ様もあなたも、金などにものを言わせる人間の前からはすぐに立去りたいという顔をしているわね」 「……そんなことは、ないですよ」 「ではあなたは、未来のイントレイス公爵婦人を口説きにいらしたのかしら。うまくすれば莫大な投資を受けることも可能ですわよ」 ドロシーの言葉の裏を読み取るのは難しかった。カトルは口元に曖昧な微笑だけを浮かべた。 「……あなたは満足なんですね。わざわざこんなところまで出向いて、こんなことをして」 「もちろんよ。思い通りだもの」 カトルを見上げたま笑む上機嫌のドロシーは、けれど。 「それで、怪我の具合は、どうですか?」 真摯に尋ねたカトルに、笑みを消した。 たった一言がそれまでの全てを崩したように、ドロシーから表情を剥ぎ取る。 「あなた、それを聞くの? 私に? この場で!?」 「僕はただ、気になって……」 具合を訊ねたことの何がドロシーの機嫌を損ねたのか、カトルにはわからない。わかるのは、とにかくドロシーの機嫌がよろしくなくなったということだけだ。 「ドロシー?」 「カトル。あなたはやはりそれだけの、ただそれだけの人間でしかないの? 優しさだけの……。それとも、それだけなのだと私に思わせていたいわけ!?」 声を荒げて立ち上がったドロシーは、騒ぎに駆けつけてきたトマヤの手も払いのけ、会場から出ていってしまった。そのドロシーの姿を目で追うしかできなかったカトルの肩を、トマヤが掴んだ。 「彼女に、何をした?」 「いえ、僕は……」 問いつめられたってわからないものは答えようがない。 呆然とするカトルはただそれでも「申し訳ありません」とトマヤに謝罪しなければならなかった。 「僕が彼女を不愉快にさせたのは確かです。お詫びいたします」 ドロシーの姿が視界からすっかり消えても、トマヤはカトルを離さない。 「カトル……そうか、君だね。彼女に花を送ったというのは」 「怪我をした彼女にですか? ……ええ、そうですが」 トマヤの表情に、カトルはドロシーを追うのを諦めた。今、ドロシーを所有しているのは自分なのだと言外にその瞳で告げてくるのにどう逆らえというのか。確かに、彼女はイントレイス公の「物」なのだろう。その表現は気に入らないが、彼が彼女を心から必要とし愛しみ、その上でそう主張するのなら、カトルが口を出す権利などどこにもない。ドロシーもまたそうなのだろうから。……今、カトルはそう思うことを疑っていない。 「あの頃は、彼女にあなたのような方がいるとは知らなかったので……。差し出がましい真似をしました」 「以後は慎んでいただきたい」 「もちろんです」 友人として気遣うことも許されないのか、と、問うことをカトルはやめていた。そんなことを聞くくらいなら、この手を振り払ってドロシーを追いかけていた。愚かな質問、だと思ったのだ。そう、思ってもいないこと問うべきでは、ない。 駆け出しはしたものの長い廊下の途中でなんだか突然ばかばかしくなって、ドロシーは歩調を緩めた。 「……ほんとうに、ばかばかしいこと」 怪我ならばもうほとんどなんともありません、と伝えればよかっただけのことではないか。なにもこの場でその具合を見せろなどと言われたわけではないのである。 でも、やっぱり、どうしても、自分はああ言わずにはいられなかったのだろう、とも思う。実際腹が立ったのだ。それを隠してまでいい顔をすることはない。なぜ腹を立てたのか、あの男も少しは悩めばいい。 『逢いに来て』 こちらは、ちゃんと告げたのに。この私が告げたのに。わかったような顔をしてなにもわかっていない。「ついで」にこんなところであんなふうに済ませようだなんて許さない。 ……せいぜい、悩めばいいのだ。 廊下の遠くで足音が響いて、ドロシーは振り返っていた。そこにいたのはトレーを抱えた給仕だった。広間から出て調理室にでも向かうのだろう。 「……ばかばかしいわ……」 振り返って、そこにいったい誰がいればいいと思ったのか。誰の姿を期待したのか。 まあ、あれだ。期待などしている自分も愚かだとは思うのだけれど。しかし、それにしても、この私が機嫌を損ねているというのに、まったく誰も追ってこないというのもこの場合、なにか納得できない気もする。などとも思っていたりするわけで。 フン。と正面を向くと、ドロシーは再び歩き出した。かつかつとヒールの音が大理石の床に細く響いた。 ◇ 「さて、この賭けは私の勝ちだね、ドロシー」 「何のことです?」 すっとぼけるドロシーに、トマヤはおやおやと肩を竦めた。 パーティーは終わり、時間はすっかり夜中を示している。着替えたトマヤが訪ねたときには、ドロシーは帰る支度を整えていた。 「こんな時間に訪ねていらっしゃる殿方がいるとは、驚きですわ」 「このような時間に外出の支度をしているレディにも驚かされますよ」 「この程度のことでいちいち驚かれていては、私とはつきあえませんわね」 「つきあいなどなくても『ここ』にあなたがいれば、それでけっこう」 古めかしい時計が、日にちの変わる時刻を指した。 「ドーリアン外務次官殿は私の投資を受けると言った。あなたは、彼女はそんな話を受けないと言ったね。悪趣味なパーティーも金にものを言わせる投資も彼女は嫌いだから、と」 ではトマヤは、きっと投資を彼女に受けさせてみよう、受けるほうに賭けよう、そう言った。 「賭けは、あなたの負けだ」 「……まあ、トマヤ様」 くすりと、ドロシーはおかしげに口元に指をあてた。 「今や全世界が目を向けているM計画に、財のあるものが出資するのは当然の義務ではなくて? リリーナ様はお仕事でいらしているのよ、申し出を断る理由などないでしょう? あなたはよいことをなさった。それだけのことですわ」 「では、あなた自身には何の意味もなく、その話を持ち出した、と?」 「とんでもない。すべてはリリーナ様のため。私、あの方がたかがお金のことで困る顔を見たくなかったの。でも天下のイントレイス公爵が出資を決めたのですもの、リリーナ様はもう毎夜ばかげたパーティーに出席をする必要もなくなるわ。きっととてもお喜びよ。私も嬉しいわ。ねえ、トマヤ様は私の喜ぶことをなさったのよ」 「ことはすべてあなたの思い通り。私をつきあわせたのは、ただのお遊び、ですか」 「楽しんでいただけたかしら?」 ドロシーはノブに手をかけると、振り向きもせずに言った。 「トマヤ様は今、どんなお顔をなさっているのかしら。いつものように微笑んでいらっしゃる? それともお怒りかしら。これくらいのこと笑い飛ばしてくださる方でなければ、私の相手には不十分よ。……私のことを子供扱いしていて、でも私が何をしていても穏やかに、広く大きく見守ってくださった方が一人だけいらしたわ。あの方は欲しいものを手に入れるためにデマを飛ばすなど、決してなさらない方だった。そう、あの方はあの方。あなたではいくら足掻いてもあの方にはなれないのよ」 くすくすと、おかしげに。 「ねえ、私がいったいどなたのことを言っているのか、もちろんあなたは、おわかりですわよねえ」 パタン、とドロシーを外に出して扉が閉まった。扉の外でドロシーが呟く。 「……せめてあの方くらい私のことを愛してくれなければ、私は誰のものにもならないわ」 扉の中では、トマヤが舌打ちしていた。それだけではおさまらず、テーブルの上に置いてあった水差しを、そばの一輪挿しごと手の平でなぎ倒す。 高価なクリスタルの欠片が、部屋の隅々にまで散った。 『はやく、はやくドロシー・カタロニアを手に入れなければ。そう、少しでもはやく。 手に入れなければならない理由があるうちに、手に入れなければ』 その家では代々、その酒のことを女神酒と呼んでいた。授かった娘が美しく育つように、神へと捧げる酒。酒は常に娘の傍らに置かれ、娘の成長と共に透明度を増していく。それが、神の祝福となる。 主よ、祝福を我が愛し子に……。 |