印象の再生、花の香り3
学園での生活には、ずいぶん慣れたつもりだった。
普段からにこりともしないヒイロの周りに人が集まることはない。代わりに、人当たりのいいカトルの周りには、いつでもヒイロの分まで人が集まった。
「ねえカトルくん、今の授業でのあなたの発言だけれど……」
「ええ、何かおかしかったですか?」
授業のほとんどは、講師を中心に行なう講義ではなく、生徒たちが自分の言葉で今の世界の状況を論じる、というものだった。リリーナはサンクキングダムの代表として各国を回る傍ら、積極的に授業にも顔を出した。
クラスメイトは誰もがおっとりとした、育ちのいい令嬢ばかりだった。戦争の最中では決して戦力になることはないだろう。けれど誰もがここでの授業に積極的だった。彼女達にとっても、いつ自分の国が戦火に巻き込まれることになるのかわからないのが戦争だ。そんなことにならないように、平和を重んじる心をきちんと言葉にするために、学ぶ。その言葉で、戦に立ち上がろうとする人々を押さえ、なだめることができると信じている。
そういった空気の中にいるのは、カトルにとって心地がよかった。授業中の真剣な少女たちにも、放課後にたわいのない話をする少女たちにも、カトルは気楽に接することができた。
そんな人間関係の中だったからこそ、毎夜の出来事を……昨夜のことを、夢だと思いたかったのかもしれない。
……どうして?
……だって。
あれを夢だと、思いたいわけじゃない。
そう、「思いたい」わけじゃ、ない。
だって。
あれは、夢なのだから。
思いたくても、思いたくなくても、夢、なのだから。
……現実じゃない。
クラスメイトの少女たちに微笑みながら、カトルは自分に言い聞かせるようにそんなことを考えていた。
夢を思い出すだけでこんなに……こんなに気持ちが悪くなるのに。実際に、胃の中のものを吐き出してしまいたくなるほどに気持ちが悪くなるのに。
もしも現実だったら、これ以上、どうなるのか。
そんなことは、考えたくなかった。
「カトルくん?」
女生徒に声をかけられて、我に返る。
「顔色が悪いわ」
「そう……ですか?」
しまった、彼女達といたのだ。
「医務室へ案内しましょうか?」
「いえ、なんでもありませんよ」
言いながら、カトルはまた微笑んでいた。少女たちは安心したように会話を再開する。
「ねえ、カトルくん、さきほどのの話だけれど、わたしたちがリリーナ様のもとで日々を過ごすのは、本当は、力を持たないから戦えないそんな自分をごまかしたいからかもしれないわ」
「ごまかす?」
「ええ、力を持っていたなら、桁外れの権力でも、優れた運動能力でもなんでもいいの、なにか持っていたなら、わたしはこんなところに来ることはなくて、自ら戦いに身を投じていたかもしれない」
別の少女がそう続けた。
「……いいえ、きっとそうしていたわ」
「あなたは、自分だけが戦っていないのだと、そう思っているんでしょうか」
「そう思いたくないから、だからこの国にいるのかもしれないわ」
「……そう思うことで、あなたも戦っています。ひとときでも心を休めることができない。誰もが、そんなふうに戦っているんです。こんな争いは早くやめさせなければいけない。僕達はここで、その方法をリリーナさんから学ぶんです」
カトルの声は、いつでも穏やかだった。相手がなにを言おうと、声を荒げようと、どんなに感情的になろうと、黙って受けとめた。そう、誰に対しても同じように、そうすることができた。
がんばりましょう、と笑いかけると、やっと、彼女たちも少し笑った。
少女たちの笑みに、カトルはふと、自分も笑んでいることに気が付く。
自分は今、笑おうとして笑ったのだろうか。
それとも、無意識だったのだろうか。
そんなことを考えて。
カトルはまた、気持ちが悪くなる。
胃の辺りを押さえていたカトルは、背後に気配を感じて振り向いた。
ドロシーが立っていた。なにか言いたげにしている、と思ったのは気のせいだったのだろうか。確かに合った目をふいとそむけて教室を出ていってしまう。
出ていってしまうから、自分に用事があったわけではないのだ。そんなふうに判断した。
……そんなふうに判断しながら、ではなぜ、カトルはドロシーを追いかけたのだろう。
追われ、立ち止まったドロシーも、同じ疑問を持った。
「なぜ、私を追うの?」
カトルには、言葉がない。
……なぜ?
カトルが誰かに聞きたいくらいだった。
ドロシーは黙り込むカトルに呆れたように眉を上げる。カトルに追われる理由も相手にされる理由も自分にはないと言いたげだった。
そう、理由がない。
馴れ合う理由がない。
だって、あれが夢だとするのなら、その夢を見ているのはカトルなのだから。
カトルの夢、なのだから。
自分だけの夢だと気が付いて、目が覚めた。
夢に踊らされているのは自分だけだ。
そんなの、ばかばかしい。
もう、教会には行かない。
あの場所には、自分が祈る神はいない。
そこにいる神の存在も、ステンドグラスの芸術的価値も、なくてもかまわないものだから。
だから。
もう、教会には行きたくない。
陽は、カトルの真上にあった。
ランチを早く済ませてしまって、午後の授業までにはまだずいぶん時間があった。時間を消化するために、図書室に向かっていた。
校舎と図書室を繋ぐ回廊の途中で、立ち止まった。
「……え?」
立ち止まった自分に、後悔した。
何度も通ったことがある道だった。なのに今、初めて、その小路に気が付いた。
夢の中とそっくり同じ小路が、あった。
夢の中の小路は、こんなところから続いていただろうか?
……ここから続いていた気がする。続いてなどいなかった気が、する。
毎夜の夢の中で自分がこの小路までどうやって来ているのか、記憶は曖昧だった。別に、曖昧でおかしいことなどないはずだった。だって、夢、なのだから。
でもその夢も、ここ三日ほど見ていなかった。
代わりに、今夜は教会には行かない、行きたくない、と自分に言い聞かせる夢を見る。
ドロシーが教会で子守歌をうたっていた。あの日からちょうど、三日、経つ。
「……やめたほうがいい」
呟きは、無意識だった。無意識に呟いて、でも、カトルは小路に進路を変更していた。
小路に入った途端、また、思った。
やめておいたほうがいい。
この先に行かないほうがいい。
……行きたくない。
この先に教会なんてない。教会があることすら夢なのだ。
でも、小路は、カトルのよく知っている道だった。ちょうどいい歩幅に敷かれた敷石を、リズムよく渡っていく。
ほら。
途中、なぜか一ヶ所だけ、どうしてもリズムの狂うところがある。カトルはいつもそこで、つまずく。
ほら。
今日もつまずいた。
夢と、同じだ。
同じなのだ。
小路の終わりに、教会はきちんと、そこにあった。
陽がある、というだけで、夜見るのとではずいぶん印象が違って見えた。扉は夜と同じに簡単に開いた。ステンドグラスがより鮮やかで、カトルは眩しさに立ち止まった。
立ち止まってから、中にいた人の気配に気が付いた。鈍すぎる自分の反応を叱責しつつ見やれば、リリーナが、椅子にかけた姿勢のまま眠っていた。相手がリリーナではこちらの警戒心が薄れるのも仕方がない。そんなふうに自分に言い訳をして吐息する。
日々の激務の中で、リリーナは教会でなにを祈り、なにを祈ったことに安心して眠っているのかなんて、そんな野暮な詮索はしない。
リリーナにはすでに誰かの上着がかけられていた。……誰かの、なんて、それは男性用の制服で、カトルのものでなければ残るのは一人だけだ。無口な連れを思い浮かべたカトルは、自然に笑んでいた。彼の優しさを思うと、優しい笑みになる。
こんなふうに……こんなふうに笑っている自分は決して嫌いではないのに。
では、いつもの自分は……?
色とりどりの光に溢れた教会の中で、カトルはリリーナを見ていた。
リリーナの髪の色。肌の感触。まつげ、唇、襟元からのぞく肌。そのどれもが、こんなふうに、昼間の光の中でははっきりと見えて、息をのんだ。
息をのんだ自分に気付いて、苦笑した。
なぜそんなふうに自分を笑ったのか、なんて……。
カトルは、静かに教会を出た。
そう、足音をたてないように、リリーナを起こしてしまわないようにゆっくり、扉を開いた。開いた扉から、身を滑らせるように出た。その扉を閉めるまで、物音をたてないように、ただリリーナを気遣った。
リリーナを気遣うことで、自分をごまかした。
ごまかした?
なにから?
カトルは、閉めた扉にもたれて、空を仰いだ。薄い雲がかかっている。でもそんな雲は、強い陽の光に霞んで、目を凝らさないと見ることができない。
その雲は、目を凝らしてまで見る必要のある雲だろうか? 目を凝らさなければ見えないようなものを見る必要が、あるのだろうか?
カトルは目を閉じた。
自分自身を抱き締めて、固く、目を閉じた。
目を閉じても、まぶたの裏には空が見えた。その空に、雲を見ることができた。
目を凝らして見たものは、脳裏に焼き付いて、消えないから。
「あなたで、三人目、ね」
突然耳に届いた声に、はっとして顔を上げた。
「あなたと、ヒイロ・ユイと、それから私。だあれも、リリーナ様の眠りを妨げないわ」
「……ドロシー……さん」
いつもきれいな姿勢で、自分の立つべき場所に立っている少女。
ドロシーは背中で腕を組んで、驚いたようにカトルをのぞき込んだ。ドロシーを見て驚いた顔をするカトルに、ドロシーも、驚いていた。
「なぜあなたが、私に驚くのかしら」
そんなふうにあからさまに驚いていいはずがなかった。
カトルには、立場がある。
ドロシーにも、立場がある。
「私があなたを狙う刺客だったら、きっと成功していたわね」
「そう……ですね」
「ええ、きっとよ」
一言一言に確信を持って話しをする声。
「もっとも、腑抜けたあなたを手に掛けたところで、なにが変わるというわけでもないけれど」
ドロシーは一歩下がり、カトルを見下すように、小首を傾げた。
「きっとあなたは、抵抗もせずに死んでいくのよ」
「そう……でしょうね」
カトルは否定しない。ドロシーはわずかに、声音を落とした。
「ねえ、カトルくん、あなたの優しさが、いったいなんの役に立つというの?」
優しさ、とドロシーは言った。
「簡単に他人に殺されてしまうのは、それに納得できるのは、自分を満足させるためだけに、自分にしか優しさを与えていないせいよ。そんな優しさは、他人には、決して届かない」
「僕は、甘い人間だと?」
「いいえ、弱いのよ。その弱さで、それでもここにいて、まさかあなた、リリーナ様を守っているつもりなの? 決して彼女を死なせることはないと、断言できるの?」
「リリーナさんを、ですか?」
「ええ、そう」
ドロシーは踵を返す。背中で、髪が揺れるのだけが見えた。
「ロームフェラが動くわ」
告げたのは、たった一言。
カトルはいつも、ドロシーの真意を図ることができない。
それは、ロームフェラが動くから、だからリリーナを守れと、言うことなのだろうか。
「リリーナさんを、守れと……? あなたが、僕にそう言うんですか?」
ドロシーもロームフェラの人間だ。ロームフェラが平和主義を訴え続けるリリーナを必要としないと言うなら、その考えはドロシーにとっても同じもののはずだった。今、この教会の中で、リリーナの眠りを妨げるのではなく、彼女の命を手にすることも容易かったはずだ。
ドロシーは、リリーナを生かし続ける。
「君の目的はいったい……」
「それはもうあなたには告げたはずよ。二度とは言わないわ」
人の本性が引き起こす、偽りのない、美しい争い。
まず、それを見る。
それから……。
「リリーナさんは、僕が、それにヒイロもノインさんも、ほかにも大勢の人が守ります。でも」
ドロシーは振り向かない。その表情も、気に触り疎ましいとさえ思った真っ直ぐな眼差しも、見えない。
だから、こんな言葉が出たのかもしれない。
「……でも、じゃあ君は誰に守られているの?」
振り向いたドロシーに、カトルの想像していた眼差しはなかった。
ドロシーは、誰でもない、カトルを、哀れむように見ただけだった。
「必要、ないわ」
言葉は、刺すように鋭くて。言葉と眼差しがちぐはぐで、怪訝な顔をしてみせたカトルに、ドロシーは吐き捨てるように付け足した。
「あなたの心配など、必要ないと言っているのよ」
再び踵を返したドロシーは歩き出し、立ち止まることも、振り返ることもなかった。
カトルは追いかけようとは思わなかった。正確には、追いかけられなかった。
ドロシーの言葉に、偽りはなかった。見ていればわかる。
ここにいたのは夢の中ではない、現実の彼女だ。
現実。
なのに、カトルはまた、こらえようのない嘔吐感に襲われていた。
夢の中と同じだ。
どうして夢の中と同じなのだろう。
もしもドロシーに尋ねたら、答えは返ってくるだろうか。……返ってくるかもしれない。聞いてみる価値は、あったかもしれない。
でも気持ちが悪くて、カトルはそこから動くことができなかった。
座り込んで目を閉じた。
目を閉じてなお、そこにはドロシーがいた。
目蓋の裏に、脳裏に焼き付いて離れないのは、ドロシーの後ろ姿だった。
夜の教会で、子守歌を歌うドロシーを、見ていた。
脳裏に焼き付くほど、彼女を、凝視していた。ひとときも、目を離したくなかった。
「………っ」
気持ちが悪い。
その意味を、カトルは知らない。
……知らない振りを、してきたけれど。
『知らない』
そんなわけが、なかった。
カトルには、目を閉じてもドロシーの姿が見える。
祈っている後ろ姿。流れる髪の一本まで、鮮明に思い出すことができる。
簡単なことだった。
それをなんと呼ぶのか。
たった一言ですむ心の現象だ。
ただ、カトルがそれを認めたくないだけだった。
認めたくないという、そんな自覚はあったのに……。
陽が沈む頃、空は雲に覆われ、雨が、降ってきた。
◇
認めたくない。
そんな自覚をした自分に気が付くと、どうしてだろう、カトルの気分はずいぶん楽になった。
原因がわかれば、対処のしようがある。
だから、そのように対処したつもりだった。
でもそのすべてが、認めたくない自分の対処だったから、その対処の仕方すら、本当は、認めたくなかったのだ。
本当は、そんなふうに対処するべきことではなかった。素直に、自分自身と向き合えばいいだけのことだった。
でもできなくて。
カトルは、こんな手段を取るしか、なかった。
その夜、夢の中で目覚めたカトルは、妙にすっきりした気分で教会に向かった。
夢の中で教会に出向くのは、もう習慣のようだった。夢の中の習慣、というもの、なにやらおかしな話だけれど。
カトルは毎夜、その教会で、ひとりで、祈る。
そう、
ひとり、で。
他には誰もいない。
教会にはカトルだけだ。
今までもずっと、ひとりだった。
この学園にいるのは少女ばかりで、わざわざ暗くなってから暗い小路を通り、暗い教会にやってくるような躾を受けた少女はいない。
だから、カトルはいつでもひとりなのだ。
そして、もしも教会に誰かいたとしても、それはカトルの見知らぬ少女でしかない。もしもその見知らぬ誰かに出会ったのなら、カトルは、初めまして、と挨拶すればいいだけのことだった。
カトルが選んだのはそんな対処法で、そんな手段、だった。
◇
雨は夜になっても降り続いていた。
「なにを、祈ってるんです?」
開いた扉の中は、ほかには表現のしようがないほどの、暗闇だった。
雨が降っている今夜は、教会に差し込む光はない。カトルはずぶ濡れでそこに立っていた。
こんな雨の日に傘もささずにどうしてこんなところに来たのか、不思議なことに、思い返してみてもそんな自分がよく分からなかった。あまり真剣に思い返してみようとも思わない。どうせ夢なのだ。夜になれば教会に来る。そんな習慣だからここまで来た。それだけのことだ。
夢とはいえ、地球の雨に濡れるというのも、なかなか貴重な体験だった。シャツから、雨の匂いがする。雨の匂いの向こうに、教会の、まだ新しい建材の匂いもした。
人の気配は、入ってすぐに見つけた。ここに来るまでにかろうじて暗闇に馴れた目が、少女を、見つけた。 夜のこの場所で誰かに会うのは初めてだった。
カトルは自分の対処法にしたがって、素直に、そんなことを考えた。
声をかけると、少女は初め十字架から目を離さないまま立ち上がり、そうしてゆっくりと、十字架からそらした瞳をカトルに向けた。
暗闇のせいで少女の顔がわからない。……わからない、と、頭のどこかが勝手に判断した。
そう、目の前にいるのは、知らぬ少女だ。
カトルの見知らぬ少女が、不自然なほど、にこりと、笑ったような、気がした。
「世界の平和を、祈っていたのよ」
少女にとっては、明らかに冗談だった。でもカトルには、その冗談はわからなかった。この学園の少女たちは、みな、平和を願っている。だから、少女の言葉を、ほんの少しも疑わなかった。
「あなたのその祈りが、どうか、世界中の人々に届きますように」
心からそう思っている。そんな微笑みに、少女は、わざとらしい笑顔を消すと怪訝そうに眉をひそめた。カトルは、少女のそんな仕種に気が付かない。
「人間だけが、武器を用いて争う術を身に付けた。それと同じに、人間だけが、争わずにすむ方法を考える力を持っている。だから考えるべきなんです。人は、人を殺さずに生きていける。争うべきではありません」
カトルは十字架を見上げた。十字架は暗闇の中で、さらに暗く浮かび上がっている。
「……カトル?」
少女が、なにかを確かめるようにカトルを呼んだ。
「あなた、今、あなたが誰と話をしているのかわかっているの?」
微笑んだカトルは、もちろんです、と頷いた。
「あなたと」
招くように差し出した指先が、少女を示す。ここにいるのは、少女と、カトルだけだ。
カトルは、あれ? と首を傾げた。
「すみません、僕の名前を知っているあなたの名前を、思い出せません。同じ授業を取ったことがありましたか?」
おかしいな、とさらに首を傾げて、笑った。
「一度聞いた名前は忘れないはずなんですけど」
「私は、きちんと、あなたに名乗ったわ」
闇の中でも、ひときわ、少女の髪が目に付いた。長い黄金の髪は、とてもきれいで。恐らくは誰でも、一度見たら忘れることはないだろう。なのに、カトルの記憶には、あいにく、ない。記憶のどこを探しても見当たらない。
カトルは特に、この少女に対しては執拗な手段を取っていた。この少女の記憶そのものを、自分の中から追い出してた。
少女はそれに、気が付いたのだろうか。
「カトル……」
覇気なく呟いた少女の表情までは、見えない。少女からも、カトルの表情は見えない。
ずぶ濡れのカトルに、少女が近付いた。少女からも、雨の匂いがした。
「あなたも、濡れてしまっているようですね」
「……ええ」
ためらいがちに返された返事は、震えていた。雨に濡れて寒いのだろうか、とカトルは考えた。
「風邪を引いてしまわないうちに、部屋に戻ったほうがいいですよ。よければ、部屋までの護衛を買って出てもいいですか? その前に、もう一度名前を教えていただけると嬉しいのですが」
失礼を承知で言ってみた。少女がずいぶん、そばに来た。なんとなく、顔の輪郭がはっきりする。そんな距離で、少女の口元が動いた。
少女は、もう帰ろう、というのだと思った。少女は、名前を名乗ってくれるのだと思った。
目が合ったような気がしてカトルは微笑む。
少女はふいと目を、そらした。
「カトル、あなたはいつも、そんなふうに笑うのね」
少女もすっかり暗闇に馴れていたようだった。近付いたと、思った途端に離れていった。教会の扉のすぐそばから、真っ直ぐに続く祭壇への道を、遠ざかっていく。
「あの……」
カトルは、少女の名を呼べない。名前を呼ばれない少女は振り向かない。
「どうか、部屋に戻ってください」
カトルは少女の体の心配をした。濡れたままでは良くない。
少女は、カトルの言葉など聞かぬ振りをする。
「あなたは、私の名前を、知っているわ」
「……いいえ」
「否定を、しないで。知っているのよ」
十字架を見上げる後ろ姿の、金の髪が、さらりと揺れた。
「あなたにしては質の悪い冗談だと、笑えばすむのかしら。それとも私が、ごめんなさいと、謝ればいいのかしら」
「謝る? あなたが?」
「だって」
少女は振り向かない。ずいぶん後悔したような声で、言った。
「これは私の夢だもの」
「……違う……」
「なにも違わないわ。私の夢よ」
夢……だと、少女が言う。
違う。
違う……と、カトルは心の中で繰り返した。
これは少女の夢ではない。カトルの、夢だ。
「私の夢の中で、あなたがそんなふうに笑うのは始めてね」
「どんなふうに、ですか……?」
「あたりさわりなく」
心が……。
カトルは瞬きも忘れて、少女を見た。
そして思った。
夢は、深層真理を写し出す世界だった、と。
本当の自分を、写し出す。
本当の自分……それは、結局、現実の自分。
自分は、夢の中ですら自分でしかない。
だから。
……この夢は、少女の夢なのかもしれなかった。
自分は自分を傷付けない。現実でも、夢の中でも。
でも、他人は、自分を傷付ける。自分では見ない振りをしていることを、ズバリ、言い当てる。
泣きたくなるほど、心が痛くて。
「あなたはいつも、私に、笑いかけてくれたのに」
「あなたが今仰ったような、笑顔で、ですか……?」
「いいえ」
少女の言葉にはためらいも戸惑いもなかった。
「そう、ですか」
では、どんな笑顔だったと言うのだろう。
歯切れの悪いカトルに、少女は見向きもしなかった。祭壇にのぼると、燭台に灯をともした。微かに、マッチを擦った匂いが鼻をついた。同時に、少女の姿が闇の中に浮かびあがった。
想像していたよりも、ずいぶん鮮やかな少女だった。
だけれど、鮮やかだ、とうことに驚きはなかった。鮮やかであることなど知っていた。だから今さら、驚かない。
今さら……?
「……僕は、僕は本当に、あなたのことを知らないのでしょうか……?」
口にすると、ずいぶんとはっきりした思いになった。
この少女を、本当に知らないのだろうか?
知っている気がする。
……知っている、はずだ。
戸惑いを露にするカトルに、少女は吐息して、姿勢をあらためた。
「ねえカトル。話を、しましょうか」
説教をする神父のように、当たり前にそこに立つ。
「父を亡くした頃からかしら、もうずっと過去の話だけれど、それでも、夢を、見るわ。なにかが私を責め立てるの。背中を押して、速くそこへ行けと、そう言うの。背を押され、前へ進めば進むほど私は過去に戻って行く気がするわ。まるでメビウスの輪の上にいるようにね。夢を見るたびに過去と現実は混乱して、私は、目が覚めるたびに自分の中の記憶の整理をしなければならないわ。……こんな私の行き着くべき先がどこか、カトル、あなたにわかる?」
カトルは首を横に振った。
知っていた。
でも、今は、知らない。
「あなたならもう、本当はとっくに知っているのでしょうにね」
カトルはなにも答えない。なにも、答えられない。
沈黙に、少女は一度、弾かれたように背後を振り返った。まるで、自分の背を押すなにかに怯えたようだった。
背後にはなにも、いない。なにもない。少女は安心したように目を、閉じた。
カトルは、聞かずにはいられなかった。聞くことが、自分の講じた対処法に反しているのだと、しても。
「あなたには、求めるものがある。それを求めるがゆえに付き纏うようになった黒い影を……」
怖れているのか?
「怖れてなど、いないわ」
少女は目を、閉じたまま。
「……怖れてなどないわ。でもまだ……怖れていないからといって、それに捉まってしまうわけにはいかないの。……そう、まだ……」
まだ、と呟くのは、懇願のようだった。手を組み、神に祈る。
「私はまだ、死ねない」
ガラスが、砕けるような音をたてて、カトルのなにかが粉々に砕けた。
……死?
そうだ、自分は知っていた。
この少女がなにを祈り、自分の行く先になにを見ているのか。いつでも、初めて会ったときからそうだった。
少女が望んでいるのは争い。そしてその先にある……。
「私は、私の行き着く先を知っているわ。でも……いいえ、まだよ」
まだ、そこへは行けない。と少女は繰り返した。
「……ええ、トレーズ、様……もちろんですわ……」
少女は、カトルの知る名を口にした。うわ言のように、ここにはいない誰かに、念を押すように繰り返す。
トレーズ・クシュリナーダの名を知る少女。
あなたは……誰?
「君は……誰?」
いつのまにか、カトルは少女のすぐそばまでやってきていた。祭壇越しに少女の前に立つ。
こうして見ると、ずいぶんきれいな少女だった。華やかに、ただ鮮やかなだけではない。その瞳の色までが、ほかの言葉では表しようがないほどきれいだと、思う。
少女は、きれいな瞳を、細めた。
からかうように。
答えられないことを、知っているように。
「私は、あなたにとっての、誰?」
誰……?
途端に込み上がってきた嘔吐感を、カトルは飲み込んだ。
誰? ……違う、知っている。
カトルは少女を……彼女を、知っている。でもその名前を口にしようとすると、途端に本当に知らない人のようになった。どうしても、口から彼女の名前が出てこない。
だから言わずにいると、途端に、気分は楽になった。どんな話もしてかまわない、そんな気分になった。
「死を……どうか、望まないで」
「……望んでいるわけではないわ。ただ」
「ただ……?」
「そういうふうに人は死んでいくのだと、そう思っているだけよ」
「君の、父上のように?」
「ええ、私の、お父様のように」
伸ばした手で触れた頬は、暖かかった。ずいぶんリアルな夢だ。
彼女にも、カトルの体温が伝わったのだろうか。柔らかく、微笑んだ。
「夢の中でさえ、私はあなたの敵ではないの?」
「……敵?」
「ええ、私はいつも、あなたと相反する場所に立っているわ」
今、ここでこうして立っているように。祭壇のこちら側と、向こう側。ゆらゆらと灯り続けるろうそくの灯の、あちら側と、こちら側。
「でも、あなたにとって私は敵ではないのだと、そう思うことがあるわ。私のことなど眼中にないほど、私を甘く見ているだけなのかしら」
答えて、と彼女の声が言葉になる。
答えて。
……なにを?
「僕は……」
「あなたは……?」
「あなたを」
「私、を?」
見つめられて、すべてを、見透かされたような気になった。今さら言葉などで伝えなくても、彼女は、すべてを知っているようだった。
素手で心に触れられたようで、泣きたくなる。
今まで隠すようにして、自らも、気付かない振りをしてきたのに。
口を閉ざし、瞬きもせずに涙を流すカトルに、彼女は痛ましそうにさらにその瞳を細めた。
「……カトル」
彼女に触れたままだった手を、掴まれた。その手を引き寄せるのではなく、まるでその手に引き寄せられたように、彼女の体が、祭壇に上がった。祭壇の上にひざまずいて、その場所から、カトルを見下ろした。
肩からこぼれた髪が、カトルの頬にかかった。
雨の、匂いがする。
静かだと思っていた教会の中には、ずっと、雨音が満ちていた。
「僕は……誰か一人を特別に思うことを、快く思えない」
「私、を?」
「……あなた、を」
震える手が、自分の頬にかかる彼女の髪を掴んだ。しっかり掴んでおかなければ、絹の糸のように、さらさらと指の間から零れてしまう。
彼女は神の御使いのようにきれいだと、思ったとき。
「あなたは、天使?」
彼女が、カトルに言った。
「いいえ」
カトルは答える。
「まさか」
「では、神のしもべのように、神の言いなりになって万人を愛す必要などないわ。誰もを、平等に扱う必要など、ないのよ」
「僕は、君と違って父を憎んでいた。同じだけの想いで父を愛していた。……父を、亡くした。僕は、我を忘れた」
「誰かがあなたを責めたの?」
「僕が、僕を責めた」
「あなたの優しさは、そうして、いつもあなただけを責めるのね」
仕方のない人、と彼女が呟いた。呟いた彼女は、微笑むから。
「僕は君を、とても強く、想っている」
たった一言ですむ、心の現象。
たった一言が、口をついて出た。
勢いで言ったわけじゃない。
こんなに、気持ちが悪いのに。
人はみな平等なのだと、いつのまにか思い込んでいる自分がいた。だから、人に向ける笑顔も言葉も平等でなければならなかった。今現在、戦っている相手にすらそんなふうに、想っていた。彼女のことは、甘く見ていたわけではない。ただ……平等に見ようとしていた。そう、誰に対しても……。
でも、誰がそんなことを言ったのだろう。
神でも、父でもない。
自分が、
ただ、自分がこの世の中で生きていくために勝手に身に付けた、勝手な処世術でしかなかったのに。
「あたりさわりのない」笑顔を人に向けていると気がついたのはいつだったろう。
幼い頃は、確かに、自分と向かい合う人の笑顔が見たくて自分も笑っていたはずなのに。純粋に、接する人の優しさに触れたかっただけなのに。
いつからだろう。
自分と接する人の、優しさを期待し始めたのは。
その頃からだ。誰かを特別に想おうとすると、体が拒絶反応を起こした。自分以外の誰かの、ほんの少しの優しさ以外に、もっと、特別ななにかを求めようとする自分が浅ましくて。
求めようとするなにかを手に入れたくて、そのために笑っている自分を嫌悪していた。
こんなふうに、気持ちが、悪くなる。
「あなたが、私を愛している、と?」
「……よく、わからないけれど」
こんなふうに、こんなに誰かを想ったことがないから、だから、わからないけれど。
もしかしたら、愛していると、言うのが正しいのかもしれないけれど。
「そうね。私にもよく、わからないわ」
でも、と彼女は続ける。
「私はあなたほど、あなたを強く想うことに疑問を抱いていないわ」
……気持ちが、悪いのに。
「私も、こんな自分を嫌悪すべきなのかしら」
彼女の、髪の香り。
髪の香りの向こうに、新しい教会の匂いを見つける。
ここは神の御元なのに。
雨の音を聞きながら、彼女の囁きを聞いていた。
「カトル……」
頭上に掲げられた十字架を無視して、きれいな彼女だけを見ていた。
彼女の髪を掴んだまま、カトルも、祭壇に膝をかけた。
祭壇の上で。
唇は、同じ目線にある彼女を求めた。
五感のすべてが彼女のものになった。
雨に濡れたままでいた彼女の唇も肌も冷たくて、カトルには、気持ちがよかった。
やがて、彼女の体温が自分のものと同じになる頃には、なにかに対する嫌悪も、気持ちの悪さも、消えていた。
カトルは、彼女の名前を思い出さないまま、彼女を抱いていた。
それが、そのときのカトルの限界だった。
でもこれは、もう、過去の話。
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