印象の再生、花の香り2
「君は、誰?」
決して、ふざけていたわけではなかった。
でも、思い出せなかった。
今思い出しても……思い出すもなにも、目の前にいたのは確かにドロシーだったのに。……わからなかった。
君は誰?
彼女に、そんなことを言った。
そのときは、ただ、きれいなひとだと思っただけだった。
きれいな、ひとだった。
◇
戦争など、どこの世界でも起こっていないような錯覚さえしたあの穏やかなサンクキングダムの学園で、彼女はリリーナ・ピースクラフトの横に立っていた。
「ドロシー・カタロニアと申します」
背筋を伸ばし名乗った彼女を、ずいぶんきれいなひとだと、そのときはそう思っただけだった。
名乗ること、それが、彼女の宣戦布告だったと、カトルは露にも思わなかった。その時点からすでに、カトルはドロシーにとってはこれっぽっちも、味方ではなかったのに。
一度聞いた名前は忘れない。
カトルにあった警戒心はせいぜい、その程度のものだった。もちろん、カトルもドロシーを味方だなどと思ったわけではない。カタロニアという名前がロームフェラの中でどの位置にあるのか、知らないわけではなかった。でも、はっきりと敵だと思ったわけでもなかった。
そんな自分に、カトルは気が付かなかった。
彼女を甘く見ていたわけではない。
ただ。
……ただ。
カトルがその部屋を見つけたのは偶然だった。偶然、ピアノ室を見つけた。部屋にもピアノにも鍵はかかっていなくて、それだけの理由で、勝手に弾いてもいいものだと勝手に判断した。
ずいぶん高価なはずのピアノは、音も、よかった。弾き始めると、時間が経つのを忘れる。それでも、ドロシーが部屋に入ってきたことには、すぐに気が付いた。カトルと同じに柔らかそうな金の髪の彼女は、カトルが、まだ自分に気が付いていないと思っているようだった。まさか、そんなはずがない。
相手がドロシーでなくても、誰でも、カトルはすぐに気が付いた。そんなふうに訓練してきた。気付かない、などということはありえなかったし、あっていいはずがなかった。
気付いていても、カトルは演奏を止めなかった。ドロシーは腕組みしたまま、曲が終わるのを待っていた。やがて、一オクターブ高い音で曲は終わりを告げる。それまでのピアノの音の代わりに、ドロシーの拍手が部屋に響いた。
「素晴らしい曲ね。あなたのご創作かしら?」
聞いたことのない曲だと暗黙に告げてくる。カトルは首を横に振りながらピアノの蓋を閉じた。
「僕のコロニーでは、小さな子供でも知っている子守歌ですよ」
「地球とコロニーとの間にどれほどの距離があるか、ご存じ?」
「ほんとうは……とてもささやかな距離だと、思いたいですね」
たった一曲の子守歌も、同じ地球上でさえ少しづつ異なってくる。その程度の違いでしかないのだとカトルは言いたかった。
でも、ドロシーはその曲を知らなかった。
「とても近くて、けれどとても遠いのがこの宇宙よ」
「……僕とあなたの距離のように、と思っていいですか?」
「あら、私とあなたは、とても近いと思うわ」
カトルの脇に立ち、ドロシーは窓の外を眺めた。口元には微かに悦びをあらわす笑みがあった。
「カトル・ラバーバ・ウィナー、私、あなたを歓迎しましてよ。ええ、この学園すべてのお友達のようにね。お優しいリリーナ様は戦いの火種をこの国に招き入れてくれたわ。あのおひとは私の願いをご存じのよう」
「ドロシーさん……でしたね」
「覚えていただけて光栄ですわ」
「コロニーのひとすらすでに忘れかけている『ヒイロ・ユイ』という名前を知っているあなたの望みは、戦争、というわけですか」
楽譜などない。身一つで椅子から立ち上がったカトルは、ドロシーの見る窓の外を一緒に見た。授業でのことはいえ、あのヒイロと互角に剣を交えた少女が、すぐ傍にいる。可憐な剣さばきを彼女が見せたのは、数時間前のことだ。
「なぜ争いを望むのです?」
「望むのは私ではないわ。人類すべてよ。すべてが望んでいるから絶えることがないの。決してね。些細なきっかけで簡単に火がつくようになっているの。あなた方が、そうしたようにね」
「……ああ、あなたは、僕たちの正体を知っているんですね」
あらためて、そんなことを思った。
「あなたこそ、私の正体をご存じのはずですわ」
祖父はあのデルマイユ侯爵だ。
「僕達は、コロニー市民の一部の代弁者でしかありません。すべての人が争いを望んでいるわけじゃない」
「そうかしら」
カトルに向いたドロシーの瞳は、揺るぐことを知らない。
「もしもあなたが、ガンダムのパイロットでなかったとしてもそう言えるのかしら」
くすくすとすべてを見透かしたように笑むドロシーに、カトルは眉をひそめた。
「どういう、意味ですか」
「争いを望まないというコロニー市民は、あなた方が引き起こした争いをきっかけしてに出てきたのよ。そしてあなた方の排除を決めた。そう、とても簡単にね。でも、あなた方がいなければ、彼らは口を出すこともできなかった。結局、彼らもあなた方を望んでいたのよ。戦いの火種を、火種となる力を。人間すべてが力を望んでいるの。あなただって例外ではないわ。力がなければ、口先で文句を言っているだけ。そうして力を得るのを待っている。愚かにも、そこでやっと、言葉などなんの力も持たないということに気が付くのよ」
「リリーナさんは、その言葉こそが力のすべてだと考えている方ですよ」
「ええ、リリーナ様はそれを実現しようとしている。リリーナ様には実現できることかもしれない。でも、あなたたちに戦うこと以外のなにができるというの?」
問われて、カトルは視線を伏せた。
ガンダムパイロットにあるのは、破壊することで制圧する力だけだ。そして破壊する力を持っているのはガンダムであり、パイロットではない。パイロットの言葉など、誰にも、どこにも届かない。
まして今のカトルには、その、戦う力すらなかった。巨大な力を手に入れた。けれど巨大な力はカトルにとっては、過ちしか起こさなかった。
ガンダムのゼロシステムを手に入れた。
仲間を、失った。彼は再び出会うことができたときに、自分を許してくれるだろうか。それどころか、再び出会うことができるのだろうか。このときのカトルはまだ、トロワ・バートンの生死を定かにしていない。
「僕は、今、戦えません。犯した過ちのつぐないの仕方すら、わかりません」
「それは正しい答えではないわ」
「……ドロシー」
「カトル・ラバーバ・ウィナー。あなたは私を馬鹿にしているのかしら」
笑みの消えた顔に嫌悪すら浮かんで、カトルは驚いて首を横に振った。
「いいえ」
「では、私の前で二度と自分自身を否定するような発言をしないでくださる? 己の弱さを肯定することで弱い自分を作り上げないで。弱い自分を、武器にしないで」
「間違った自分を、間違っていると知っていて、それでも無理に自分を認めようとするのは、前に進もうとするのは、強さとは違います」
「ではなにを強さと言うの? お見受けしたところ、あなたはヒイロ・ユイのような強靱な肉体を持たないようだけれど、心もからだの強さも持たないあなたが、いったい私になにを言おうというのかしら」
「君は、なにを聞きたいの?」
「そんな言葉でごまかさないで」
そこにあった音は、静に窓に触れていく風の音と、ガラス越しに見える木々の揺れる音。遠くで波打つ海の音。
そして、カトルの、握り締めた手の平に爪が食い込んでいく、音。
……ごまかす?
ごまかそうと、したのだろうか。
誰にもなにも言う資格のない自分は……資格がないと思っている自分は、今、そんなふうに人と接しているのだろうか。
ドロシーの視線は、微かにも、揺るがない。
きれいな、ひとだと思った。
自分の思いを、他人がどう思っていようと、自分だけは信じている。その強さを、疎ましいと思った。今の自分にはないものだ。そう、気に触るほど疎ましい。なのに、目が離せない。
「私は、聞きたいのではないわ、見たいのよ。人々の愚かさが生み出す美しい戦いを」
「美しい……戦い?」
カトルは思わず問い返していた。美しい戦い。そんな言葉は、カトルの中にはない。でも、ドロシーの中には、確かなものとして存在するようだった。
「争いは人の本性よ。本性は偽れないもの。偽りのないものは、潔くて美しいわ」
「そして、その先にある平和を、見たいのかい?」
「平和? そんなものは存在しないわ。戦いこそが、争いこそがすべてよ。人間はそうやって生きて、死んでいくの。それが本性だと言ったでしょう? それ以外に生まれる理由も死ぬ理由もありはしないのよ。本性の前では、生半可な感情など意味を持たないわ」
どうしてだろう。ドロシーの声は、静に憤っていた。
憤る?
そんなふうに見えたのは気のせいだったのかもしれない。
なにかを恨んでいるのだろうか。なにかに怒っているのだろうか。あるいは、なにかを、とても憂いているのだろうか。そうして心を痛めているのだろうか。
カトルには想像することしかできない。そんなことしかできない自分は。彼女の気持ちを、黙って受けとめるしかない。
今、自分の過ちに涙を流し続けているカトルの心は、彼女の気持ちを感じられない。
では、どうしたら彼女を感じてあげられるのだろう。自分の想いを伝えるのは難しいから、せめて自分以外の誰かの想いを知ろうとするのは、愚かなことだろうか?
……ぎまんな……ことだろうか……?
カトルは、ドロシーの頬に触れた。
ドロシーは驚いて見開いた瞳で、カトルを見つめた。カトルの眼差しは、ゆっくりとピアノの黒い艶に移動する。ドロシーもそれを追ってくる。
「……子守歌は、母親から子供に注がれる愛情が音になったものです。それが、生半可な感情だと思いますか?」
「大切なのは気持ちで、曲そのものではないとでも仰りたいの? それは押しつけがましい愛情をきれいごとに言い換えただけのものではないの? 高価であればあるほど安っぽく見えてしまうものもあるわ。子守歌も同じよ。あなたを愛していると気持ちを込めて聞かされるほど、その愛は偽物のよう。だったら私は、初めから歌わない、聞かせない」
「それでも気持ちは伝わる。……伝わってしまうものなんです」
「では歌に、曲になんの意味があるというの。形にしなければ気がすまないということ? しょせんは偽善的な自己満足ということかしら」
「自己、満足……」
「ええ、そう。自分の気持ちを他人に伝えることで自分だけが楽になろうとしているの。楽になろうとして、さらに自分を追いつめていくのよ」
声が、部屋に響いた。
それきり口を閉ざしたのは、カトルだったのか、ドロシーだったのか。
沈みきった夕日は今日を閉ざして、そのまま、返事が戻ることはなかった。
ねむれ ねむれ ははのむねに
ねむれ ねむれ ははのてに
明らかにうっとうしそうに、ヒイロが顔を上げた。
「……カトル、おまえ、おれが邪魔ならはっきり言え」
恨めしげに名前を呼ばれたのは気のせいではない。コンソールを操る手を止めたヒイロに、カトルは口に運びかけていたティーカップを止めた。
「どうしたの? ヒイロ」
「…………」
カトルには、自分がなにかをしたという意識がなかった。首を傾げると、ヒイロはとても困惑した顔をした。
時間は、そろそろ今日の終わりを告げる。部屋の中に点る明かりはディスプレイのものだけだった。サンクキングダムのデータをベースに、さまざまな情報を引き出していた。
部屋にパソコンは一台しかない。主に手を動かしているのはヒイロだった。カトルはプリントアウトされた資料に目を通している。
「故郷が懐かしいのか?」
ヒイロが手を止めてまで聞いてくる。カトルはなにやら姿勢を正した。
「故郷……。コロニーの、ことかい?」
「それに似た歌なら、オレのコロニーにもあった」
「…………………うた?」
ヒイロの口から意外な言葉を聞いたように、カトルは瞬きした。
「どの歌のこと?」
また首を傾げる。
「……寝惚けているのか?」
ヒイロは文字通り頭を抱えて、吐息した。
カトルは無意識にずっと、歌をうたっていた。知らず知らず口ずさんでいるわりには楽しげではなく、どんよりとしていて恐かった。それがヒイロの感想だった。
「おまえはもう部屋に戻って寝ろ」
ここはヒイロに割り当てられた部屋だ。
「……でも」
「トロワが見つかっても、おまえがそんな調子では意味がない」
「そう、かな」
「なにがあったのかと聞いてやるほど、おれは人がよくない」
そんなことないよと口にするのをやめ、カトルはヒイロの部屋を出た。無意識に子守歌など歌っていた自分は、確かに恐い。
よりによって、どうして子守歌なのだろう。昼間、ドロシーとあんな話をしたせいだ。
……ドロシー・カタロニア。
日の沈み切った部屋の中で、あのとき、最後に発せられた彼女の言葉に、カトルは傷付いた。……傷ついた、のだ。
たいていの場合、本当のことを言われれば人は傷つく。簡単に、打ちのめされる。
だから、彼女も傷付いた。
傷付いてなどいないと、たとえ彼女がそう言っても、彼女もまた傷付いていた。
彼女は歌を、うたわないと言っていた。聞かせないと、言っていた。
それは彼女が、自分に未来がないということを知っていたから、ではないのだろうか。戦争を望んでいるのは、恐らく彼女の本心だろう。でも、だからこそ、その望みの中で生き続けられるとは思っていない。争いの中で、自分だけは生き残れると、そんなことを強く思える人間はいない。いつかは自分の番だと、どこかで必ずそんなことを考える。
それでも戦いの中にいることを望む。それは彼女の自己満足で、自己満足は、ただ、自分を傷付ける。それが自己満足なのだと気付くことのできる優しい人間ほど、深く傷付く。
彼女が望んでいるのは争い。そしてその先にある……。
「カトル」
いつまでもヒイロの部屋を出たところで考え込んでいるカトルに、ヒイロの声が響いた。早く自分の部屋に戻れ、と言うのだ。扉越しでも、こんなときの声はよく通る。
「うん、おやすみ、ヒイロ」
ヒイロはまだ作業を続ける気なのだろう。カトルは邪魔にならないように、その場を後にした。
寄宿舎の廊下は、どこも適度に明るかった。女生徒ばかりなのだからそれも当然だろう。
カトルの部屋はヒイロのすぐ隣に当てられていたけれど、カトルは自分の部屋の前では立ち止まらなかった。
廊下をずっと歩いていく。寄宿舎を出て、月明りの下を歩いていると、昼間は目に留めなかった通路を見つけた。なんとなく、歩いていく。途中、敷かれた飛び石につまずいた。
『寝惚けているのか?』
ヒイロのセリフを思い出して、少し笑った。
小路の先に大きな扉を見つけた。
どこの扉なのか。大木が影になって、月明りでもそこがなんの建物なのかよくわからない。建物の扉は、開いていた。引けば簡単に開いた扉に誘われるように、建物の中に入った。
ここが、どこなのか。すぐにわかった。
月の明かりがステンドグラス越しに差し込んでいた。高い天井にきっちりとはめ込まれた色とりどりのステンドグラスは、主イエス・キリストの誕生からの生涯を順に物語っている。
正面には、十字架にかけられた主の姿があった。
まだ新しい建材の匂いのする、教会、だった。
カトルはぽかんと口を開けて、正面のステンドグラスを眺めていた。
「この学園には信仰の厚い方が多いの。あなたも、そのひとりかしら」
カトルにはやはり、その声の主がカトルに遅れて教会に入ってきたときから、誰なのかわかっていた。声を聞いて確信する。
「いえ、僕はステンドグラスに見とれてしまっただけです。こういうのを見るのは、初めてだったので」
基本的に主とする神が違うことを匂わせつつ、カトルは、ドロシーに振り向いた。
まだ制服姿のドロシーが、立っている。
なぜここに? とは、どちらも聞かない。今日に限って、ピアノ室といいここといい、タイミングがいいだけだろう。
「月明りだけで、ここがこんなきれいに見えることを知っている人間が、一人増えてしまったわね」
ドロシーは、昼間のものとは違う笑顔で、微笑んだ。月の光が、そう見せているだけだろうか?
「月明りの会でも発足しているのかな?」
カトルも、笑っていた。冗談混じりのカトルに、ドロシーが応える。
「会員は、あなたで二人目ね」
「君が、会長?」
「あなた副会長になる?」
「それもいいね」
ステンドグラス越しの月明りが、祭壇上に掲げられた十字架の影を、二人の上に落としていた。影の中で二人は、穏やかに笑っていた。
それはまるで十字架という神の象徴が、二人の名前も立場も昼間の姿も掻き消して隠しているようだった。
でも。
そんなのは夢、だったのかもしれない。
翌朝、カトルはいつものように自分のベットで目を覚ます。
「……あれ?」
夢、だったのかもしれない。
というか、夢に違いない。
だけれど……夢だったとして、どうしてあんな夢を見たのか。
おかしなことだと思った。
おかしなことは続いた。
その夜も、次の夜も、カトルは同じ夢を見た。
新しい匂いのする教会で、彼女は笑っている。
初めて教会で彼女に会った日は、満月だった。それからだんだんやせていく月の下で、今日も、カトルはドロシーに逢う。
今夜はドロシーのほうが先に教会に来ていた。ささやくような声で、歌を、うたっていた。
歌は、うたわないと言っていた。誰にも聞かせないと言っていた。
ドロシーがうたっているのは明らかに子守歌で、祭壇の前にひざまずき、組んだ両手に額を押しつけて、そうしてうたっていた。
なにを祈っているのか。
誰に、どんな思いを……気持ちを伝えたいのか。
大切なものは少しの物音でも壊れてしまいそうで、カトルは教会の入り口の辺りから動くことができなかった。ドロシーをまねて、組んだ両手を額に押し当てた。 神聖な儀式のようだった。
ドロシーにとっても。
カトルにとっても。
ただ無心になにかを祈り続ける。
……無心であったはずだった。
彼女の祈りに同調していたはずだった。
そのはずだった。
歌が終わる。
カトルは、はっとなにかに気が付いた。
ドロシーが立ち上がる。
気が付いたなにかが、ほんの少し、カトルの中で確信に変わった。
……まさか。
考えたのは、否定。
まさか。
確信しかけたなにかを否定する。
否定した。だけれど。
ドロシーが振り向いたとき、ほんの少しの確信は、確かなものになった。
カトルは、組んでいた両手をゆっくりと下ろした。
ドロシーとカトルは、祭壇から扉に続く一本の通路の上に立っている。教会はずいぶん広くて、目を凝らしてもお互いの表情を見ることができない。
もし見えていたら、彼女はなんと言っただろう。
『それもあなたの自己満足なのかしら?』
もしそんなふうに問われたら、カトルはなんと答えただろう。
……なにも、答えられない。
「また今夜も逢ったわね」
ドロシーは、そう言っただけだった。自分の後ろでカトルが一緒に祈っていたことなど知らない。たとえ知っていたとしても、「一緒に祈っていた」それだけのことだ。
「カトル?」
カトルは返事をしない。
したくなかった。
そして、できなかった。
カトルは口元を押さえて、座り込んだ。
気持ちが、悪かった。
ドロシーが祈っている間、カトルは祈ってなどいなかった。
なにも祈ってなど、いなかったのだ。
祈っている振りをして、彼女を……ドロシーを見ていた。
背中に広がった金の髪に、ステンドグラスの赤や緑が月の光と一緒に落ちているのを、ただ、きれいだと思って見ていた。
そんな自分が。
……気持ちが、悪かった。
祈っている振りをしていた自分が。
そして。
彼女を、祈ることも忘れて見ていた自分が。
こんなに、気持ちが悪い。
胃液が逆流してきそうなほどの嘔吐感は、こんな夢の中でもリアルだった。
あまりにリアルで、だから、夢なのだと、そう思おうとしていた。
カトルにとっては、教会での夜はいつでも夢だった。
夢などでは、なかったのに。
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