印象の再生、花の香り1 「記憶なんて、ずいぶん曖昧なものよ?」 窓の外を眺めたまま、彼女はそんなふうに言いながら、くすくすとおもしろそうに笑った。なにがどんなふうにおかしいのかは、いまのところ彼女にしかわからない。 「自分の目に映ったことも、自分が思ったことも、しょせん、自分だけのものなのよ。そこにいた他の人間と必ずしも同じ印象で心に留まるわけではないわ。もうすでにそこからずいぶん曖昧なのに、そんな自分の印象を、自分の中で再生しいているのよ。そんな記憶は、証言としては役立たずよ」 きれいなアイスブルーの瞳を細めて、いつまでも笑っている。そんな姿が、窓に映って見える。 「そんなに、役立たず、かな?」 いささか自信をなくして尋ねると、彼女は遠慮なく大きく頷いた。ついいましがたの雨で濡れてしまった髪が、重そうに揺らいだ。 「記憶は、印象の再生。だから思い出すたびに、自分の都合のいいように美化されていくの。なにが本当なのかなんて、わかったものじゃないでしょう? ましてそれが夢であったなら、特に」 そこまで言われて、やっと彼女の言いたいことがわかったような気がした。 カトルも、笑った。 彼女と、同じ笑顔だった。くすくすと、おもしろうそうに笑う。 ……ああ、そっか。 「君も、美化しているんだね」 「あなたもね」 即座の問い返しは、たいてい、否定ではないから。 肯定だから。 彼女も、カトルも。 「なるほど、役立たずかもね」 「ええ、役立たずよ」 「でもね、ドロシー」 「なあに?」 振り向いた彼女は、カトルのセリフの続きなどお見通しのようだった。窓際に掛け、窓の外を見ていた瞳がカトルを見る。真っ直ぐに背筋を伸ばして、真っ直ぐにカトルを見る。 彼女の背景には、きれいな庭園があった。敷地を囲み、敷地内のあちらこちらに木陰を作っている木々はアカシアだろうか。よく手入れされている一面の芝生の上を、おめかしをした子供たちが駆けていく。 窓の隅に見える教会の鐘が高く鳴り響いた。たった今、式を終えた花嫁と花婿が出てくる。降りしきるライスシャワーの下に、歓声が揚がった。参列者がやたらに多いのは、地元に住む二人の式だったためだろうか。 鐘の音に思わず二人して窓の外を眺めて、そんなことを考えた。 幸せそうな二人への歓声とカメラのフラッシュは、まだまだやみそうにない。 敷地の中にあるもうひとつの教会の中で、たった二人きりの静けさの中で、彼女はあらためてカトルに見向いた。 「『でもね』の続きは、なあに、カトル」 彼女がそれまでの会話の、言葉の続きを促した。 カトルも視線を彼女に戻した。 ……でもね。 後に続くのは、たったひととこだった。 でもね、ドロシー……。 たった、ひとことだ。 ◇ 突然の郵便物に驚いたのは、一昨日の昼過ぎだった。 家のものたちがどうしたものかと騒いでいるところに通りかかったカトルは、 「え?」 思わずベタな驚き方をしたものだった。 一通の手紙が、母に宛てられて届いていた。 しかも、母の名は旧姓だった。家のものたちはなによりもそのことに驚いていたようだった。 いくども転送を繰り返して、やっとカトルのもとまで届いたらしい封筒はもうずいぶんくたびれていた。 手紙の内容は簡単なものだった。 どこかの教会から送られてきたものだった。 『教会も老朽化が進み、修繕も追いつかなくなりました。取り壊しの日が決まりました』 最後に取り壊しの日にちが記してあった。たった、それだけの内容だった。 母だけに特別に知らされた内容のようではなかった。おそらくは、教会の帳簿に記帳したすべての人に宛てて送られているのだろう。 メールやファックスが当たり前の時代に、手紙の内容から封筒の表書き、裏書きまでのすべてが手書きだった。老朽し、取り壊さなければならなくなるほどの年月を重ねた教会にはいったいどれだけの人々が訪れたのか。そのすべての人々に同じ対応をしているのだろうか。考えただけで気の遠くなりそうな教会の対応に頭が下がった。 住所から、教会があるのは地球にある常夏の小さな島だということがわかった。 「……地球?」 カトルは地球の地図を広げて小首を傾げた。……確かに、地球だった。 ◇ 「それでわざわざ、この教会を見に来たと言うの?」 その、地球の、常夏の島の、教会で。 「うん……まあ、そういうことになるんだけど……」 カトルは目の前にいるドロシーに呆然としながら、なんとかそんなふうに答えていた。 ……どうして、ここにドロシーがいるんだろう。 わざわざ見に来た教会の、その祭壇の前にドロシーは立っていた。お互いに気が付いたのは、多分、ほんの一瞬、カトルのほうが早かった……のだけれど。 『どうしてあなたがこんなところにいるの?』 ほぼ同時に思った疑問を先に口にしたのはドロシーだった。先に聞かれてしまったので、先に、答えてみたのだけれど。 「あなた、そんなに暇なの?」 普通ならためらわれるセリフをドロシーは普通に口にした。相変わらず、ドロシーはドロシーらしく生きているらしかった。 「……それ、いじめ?」 「そんなふうに聞こえて?」 「うん、ちょっと」 「素朴な疑問でしょう? そんなふうに聞こえるのは、あなたにやましい気持ちでもあるからじゃないの?」 「あ」 「なあに?」 「当たり」 「……本当に?」 「実は、明日の取り壊しの前にどうしてもこの教会を見てみたくて、急きょ会議を延ばしてもらってきたから」 「ずいぶんわがままな取締役員だこと。取り壊しはもうずいぶん前から決まっていたのよ。もう少し穏便にスケジュールの調整はできなかったの?」 「僕が手紙を見たのは一昨日だよ」 「私のところに手紙が届いたのは半年も前よ?」 「うん、最初の消印は、確かに半年前のものだったんだけどね」 母の実家はもうその住所にはなかった。転居先不明で本来なら教会に送り返されるはずの手紙は、どういうわけか二度、三度、母に似た名前の人物に届けられ、それが偶然母の親戚へと回され、そこから今の母の実家へ送られたのが、またカトルの元へと転送されてきた。……らしい。 なににしろ、最終的にはカトルのところに届いたのだし、取り壊しにも間に合った。 「神様のお導きかな」 カトルがそんなふうに締め括ると、ドロシーは感心した、というよりははるかに呆れたようだった。 「ええ本当にね」 「なにか不服そうだね」 「人は神を選ぶのに、神は人を選ばないのね、ということよ」 ドロシーとカトルでは敬っている神が違う。ようするに「あなたは宗教が違うでしょう」と言うことで、宗教は違うのに寛大な神様のおかげでカトルは今日ここにやってきて、まあ、つまりはとても具体的に言えば、だから、 「まさかあなたとこんなところで会うなんて」 ということらしい。その表情を見られたくないように横を向いたドロシーに、カトルはやっと、笑った。安心したのだ。 目の前にいるのは、確かにドロシーだ。 横を向いてしまったドロシーがどんな顔をしているのか、カトルは知っていた。カトルだってここでドロシーに会ってそう思ったように、ドロシーだってそう思っていたのだ。 こんなところで君に会うなんて。 「うん、驚いたよね」 「……別にっ、ただ、意表をつかれただけよ」 一般的には、それを「驚いた」というのだけれど。いったいなにに対してそんなに意地を張っているのか。 ここで噴き出して笑ったりするとドロシーの機嫌を損ねるのは必至だったので、カトルは懸命にそうしたいのを我慢した。我慢しながら、立ち話もなんだから、と席を勧める。 そうされて、ドロシーは思い出したように腕時計で時間を確認した。 「もうこんな時間だったのね」 なにか用事でも? とカトルが聞こうとしたとき、教会の扉が大きく開いた。正装した人々が次々に入ってきて、カトルはドロシーに手を引かれた。 「ドロシー?」 引っ張られるまま、カトルは人々とは逆に教会を出た。真上から照らす太陽に思わず目を閉じた。ここが、常夏の島だということを、思い出した。 強い光に恐る恐る目を開ける。乾燥した風が、正面から吹いてきた。一面の緑の丘の向こうに、空色の海が見えた。地球に来るたびに、本当の陽の光が、本当の自然の色が、こんなに鮮やかだったことを思い知らされる。 ドロシーはつばの大きな帽子を深くかぶると、カトルと同じ景色を見ていた目線を、今出てきた教会に移した。 「見て、カトル」 教会に向かう人々は、みんな笑顔だった。 「この教会で行なわれる、最後の結婚式が始まるわ」 カトルはドロシーと一緒に、教会に人々が入っていくのを見た。最後に、父親に手をとられた花嫁が入っていくと、拍手とともに扉が閉まった。 「慌てて出てこなくても、一緒に参列させてもらってもよかったのに。……そんなことを思っている顔をしているわね」 おめでたい席だ。申し出れば喜んで迎えてくれたはずだった。 「でも、あなたが見に来たのは教会でしょう?」 風が吹くのに帽子を押さえながら、ドロシーは教会を見上げた。 「最後の式を行なっている教会を外から見ているのも、悪くないわ」 ドロシーは、レンガで造られた教会の壁に手を伸ばした。レンガは意外に脆くて、風が吹くたびにさらさらと風化しているように見えた。扉に続く階段の手摺ももうぼろぼろだった。握れば、手に、赤いサビが付く。 「こんなふうに傍で見ると、もうどうしようもなく朽ちていることがわかるわ。本当に、手の施しようがないのよ」 カトルもレンガに触れた。柔らかなさらりとした手触りだった。建物を支えていく力を、感じない。 「きちんと調査もさせたわ。でも内部も、ぼろぼろなのよ。柱も、土台も。後二カ月もすればハリケーンの季節が来るわ。この教会はもう激しい風雨に耐えられない。最初のハリケーンが来る前に、取り壊すしかないの」 「ずいぶん、詳しいんだね」 ドロシーが、泣きそうな顔をしていることに気が付いた。きっと、他の誰が見ても、そんな顔には見えないのだろうけれど。ドロシーだって、そんな顔を見せているつもりは、これっぽっちもないのだろうけれど。 「カタロニアの別宅がこの近くにあるのよ。小さい頃から、この教会にはよく通ったわ」 そこまで言って、ドロシーは壁際からつと離れた。なにかを思い出したように、くすくすと笑った。 「父はとても信仰の厚い人だったの。私は神父様のお説教になど興味がなくて、いつも無理矢理、父に手を引かれていったそうよ。私はちっとも覚えていないけれど」 ふいに消えた笑い声は、もしかしたらもう二度と戻らないのではないかと思った。カトルは、ドロシーがどれだけ父のことを思っていたか知っている。戦争で父を亡くしたドロシーが、その戦争に対してどんなふうに向かい合ったのか、知っている。もし戦争がなかったのなら。もし父がまだ生きていたのなら、今日、ドロシーはここに父と立っていたかもしれない。 カトルはなんと言っていいかわからずに、ただ、ドロシーを見つめた。 振り返ったドロシーは、そんなカトルの表情に、思わず、笑った。 「なんて顔をしているの?」 笑いながら、もう教会には振り返らない。そのまま歩き出して、丘を越えていく。カトルはゆっくり、その後を着いていく。 「この教会を取り壊してほしくないと言う人間は多かったのよ。きっと、お父様もね。そう思って方法を探してみたけれど、でもダメ。調査をすればするほど危険性ばかりが浮き彫りになって、結局取り壊しが決まったわ。詳しい調査をしなければまだごまかせたかもしれない、そんなふうに悪く言われるかと思ったけれど、みんなには、かえって取り壊す決心がついたと感謝されてしまったわ」 ドロシーは決して強い人間ではない。 でも弱い人間ではない。 立ち止まったカトルは、ドロシーの背を眺めた。 なんだかいつも、自分は彼女の後を着いて歩いている気がする。 ふと思ったそんなことがなんだか突然嫌になって、カトルは駆け出すとドロシーの横に並んだ。ドロシーは、なにを慌てているの? と言いたげな顔をした。 「ゆっくりと、あなたのお母様の思い出の教会を堪能したらいかが?」 「うん、でも、母のいつの頃の思い出なのか、実は知らないんだ」 「会議を延期させてまでやって来たわりには、ずいぶんいい加減なのね」 「あ、それを言われると、非常に立つ瀬がないんだけど」 でも、昔のことだしね、とカトルは言い訳じみた言い訳をした。 「式が終わったら、神父様に帳簿を見せてもらおうと思うんだ」 「その帳簿がいったいどれだけあると思っているの?」 「ここ、リゾート地だしね……やっぱり、ものすごい数かな。母も多分、旅行でこの島に立ち寄ったと思うんだけど、ね」 「おそらくすごい数だとわかっていても探すつもりなのね」 「探すよ」 なんでもないことのようにカトルは言った。実際、なんでもないことのように思っていた。丸一日でも丸二日でも、それ以上をかけてでも名前を探すつもりだった。 「僕には母の記憶はないからね。母方の実家とも疎遠になっているし、せっかくの機会だから、自分で見つけられる情報でいろいろ想像するのも楽しいかと思って」 父もいない。姉たちとゆっくり話す機会も、ない。でもだからこそ、楽しい想像ができればいいと思っていた。 母が訪れた教会を、母が見た景色を、ほんの少しでも自分の目や耳や感覚で感じることができれば、それでよかった。 「のんびりやるつもりだよ」 「そんなにゆっくりしていられるの?」 「うーん」 カトルはちょんと肩をすくめた。 「会議を延期したことについてはいくらか文句も出たんだけど、休暇が欲しいって言ったらとても喜ばれてしまって、好きなだけ休んでいいって言われちゃった」 「上司が有給休暇を消化しないと、部下が休暇を取りづらいのでしょう?」 「あ、バレてる」 「明後日までなら、付き合ってあげてもいいわよ」 「それ以降は?」 「あなたにばかりかまっていられないわ」 当然でしょう? と反対に聞き返されてしまっては、当然だねえ、と返すしかない。 敷地内には教会を偲んでか、結婚式とは別に多くの人たちも訪れていた。取り壊しのことなど知らない観光客も多い。 どの人々もみな、のんびりと歩き、のんびりと時間を過ごしているようだった。ふと、カトルは空を見上げた。……今、なにか……。 落ちてきたような気がする。 と、思ったときには大粒の雨が降りだしてきていた。空は先ほどまでとなにも変わらず晴れているのに、雨はどこからともなく勢いよく降ってくる。 人々は慌てて木陰に入った。 「……え?」 カトルは呆然としたまま、その場に立ち尽くしていた。 なにが起こったのか、よく分からない。たいした雲もないのに雨が降っている。大粒の雨は、肌に当たると痛かった。しかも冷たい。 「……カトル、カトル!」 また、ドロシーに手を引かれた。近くの木陰はどこももう人でいっぱいで、雨宿りする場所がないなあ、とのんきに考えるばかりのカトルは、ただ、どんどん、ドロシーに手を引かれるだけだった。 「なにをぼうっとしているの? あなた、風邪をコロニーに持って帰りたいの?」 「え、まさか」 「そう、まともな答えで安心したわ」 コロニーは密閉された空間だ。たかが風邪でも、悪質なものならその密閉された空間で猛威を振るうことがある。 やれやれと息を吐き出すドロシーに、ハンカチを押しつけられた。君が使いなよ、と言えば、私はこれくらい慣れているから平気よ、と返ってきた。 バタバタと地面や木々の葉を叩く雨の音がする。……音を、雨の当たらない場所で聞いていた。 カトルは、ドロシーに連れ込まれた、どこか、建物の軒下から、建物を見上げた。ずいぶん立派で大きな建物だ。さらに見上げようとして身を乗り出したところに、軒場を伝って落ちてきた雫が直撃して、直撃された額を押さえた。 ドロシーは建物のドアノブを回す。簡単にドアは開いた。 「ちょうどいいわ、しばらく入っていましょう」 「え、でも」 ここがどこなのかカトルはよくわかっていなかった。扉の脇にある看板には、竣工式は明日、だと書かれている。 「新しい教会よ。雨宿りに入ったからといって怒られたりしないわよ」 ドロシーはさっさと入っていく。カトルは慌てて後を追った……けれど。 「新しい……?」 「向こうの教会を取り壊してしまったら、当然新しいものがいるでしょう。同じ場所に建てるのが一番いいのだろうけれど、そのあいだ教会がないのは不便だもの、もうすでに新しい教会は用意してある、ということよ」 しん、と静まり返ったそこは、確かに教会だった。 「新しい……教会?」 ドロシーは祭壇の辺りまでどんどん行くのに、カトルは入り口の辺りで足を止めた。 そこから動かない、 いや、動けない。 「カトル?」 そんなところでなにを立ち止まっているの? と、聞いてくるドロシーは、カトルにはずいぶん意地悪に見えた。意地悪だ、と、ドロシーにはその自覚があったのかもしれない。……なかったかもしれない。 カトルは、その場に立っているのが精一杯だった。どうしてか……なんて。 「……この辺りでは、こういう雨は、珍しくないの?」 自分のぜんぶをごまかすように、そんなことを聞いた。ただの、疑問だった。でも、今のカトルにはどうでもいい疑問のはずだった。 「そうね、珍しくないし、どうせ十分もしないうちに止んでしま雨よ」 ドロシーは、カトルの質問に答える。質問されたから答えた。それだけのように、見えた。 「あの薄い雲が、こんなに強い雨を降らせるのかい?」 「いいえ。この島は東西を山で分断されていて、山の向こう側ではよく雨が降るの。時折こんなふうに、風に乗って飛んでくるのよ。知っているものには慣れたものだけれど、知らない人は、いつもとても驚いているわね」 「うん、僕も、驚いた」 「そう」 「……うん」 言葉が途切れると、教会の中は静かな雨音でいっぱいになった。竣工式は明日だと書かれた看板のせいで、誰も入ってこない。誰かが入ってくる気配もない。 あるのは、ドロシーと、カトルの二人のものだけで。 カトルは、息をのんだ。 新しい建物の匂いがした。 ちょうど、カトルの立つ真正面。祭壇の上部に、大きな十字架が掲げられていた。 十字架。 新しい建物の匂い。 もう一つ。 いや、もうひとり。 「カトル」 自分を呼ぶ声。 ドロシー・カタロニア。 状況が、揃っていく。 「あ……」 カトルは両手で自分の目を隠した。 嫌だ、見たくない。 ……なにを? なにを、見たくないのか。 つい今さっきまでは平気だったのに。 でもそれは、こんなふうに、新しい建物の中じゃなかったから。 こんなふうに状況が、揃うことがなかったから。 「カトル」 彼女の声。 嫌だ、聞きたくない。 ……どうして? どうして、聞きたくないのか。 つい今さっきまでは平気だったのに。 でもそれは、こんなふうに新しい建物の中じゃなかったから。 こんなふうに状況が、揃うことがなかったから。 「カトル!」 すぐ傍で声がした。誰かが手を掴む。手を掴まれて、見たくないものを、見た。 手を掴んだのは誰? ドロシー。 他には、誰もいない。彼女しかいない。 じゃあ、見たくないと思ったのはなに? これも、 ドロシー。 彼女しかいない。 他には誰もいない。 でも。 ドロシー? どうして? どうして、彼女を見たくないの? 「……ドロシー」 「なあに?」 カトルは、まだその場所から動けない。 名前を呼ぶと、彼女はすぐ傍で返事をする。 手を伸ばせば、簡単に触ることができた。教会のレンガとは違う。指先に、柔らかい感触。 雨で彼女の頬に張り付いた髪を、その指ですくった。細い黄金の糸を握り締めた。 髪に、唇を寄せた。 髪は雨の匂い。 新しい教会の匂いが紛れたような気がして、カトルは吐息した。 「ドロシー」 「……なあに?」 カトルには望みがあった。 ドロシーは、そんなこと見通しているようだった。 だってここは新しい教会だから。 だってここには、ドロシーがいるから。 ここには、二人しかいないから。 「君を、抱いてもいい?」 返事を待つ必要なんてなかった。 ドロシーは目の前にいる。その手首を捕えて、引き寄せればいい。簡単に抱くことができる。 できる、けれど。 カトルはドロシーの返事を待った。 ドロシーは、とくに、驚いた顔も困った顔も、呆れた顔も見せなかった。優しく微笑むわけでもない。かといって、哀れむわけでもない。 たった一言を、口にしただけだった。 「馬鹿なひと」 言葉に、カトルは、なにかに安心したように微笑んだ。 微笑みに、もう一度ドロシーが言葉を繰り返す。 ばかなひと。 ドロシーも少し、笑った。呆れたのかもしれない。いや、呆れたのだろう。でも、笑ったから。 背中の扉にもたれるようにしてその場所に座り込んだカトルは、両手を、ドロシーに伸ばした。まるで小さな子供が抱っこをせがむようだった。 ドロシーはそんなカトルをのぞき込むように頭を寄せる。 その頭ごと、華奢な肩を、カトルは抱き寄せた。 細い、肩だった。 ……細い……そんなこと、知っていたけれど。 抱きしめたドロシーの髪は、雨の匂いがする。 雨の匂いの隙間から香る新しい建物の匂いに、目眩がした。 カトルは、目を閉じた。 目を閉じてもドロシーの体温はそこにあって、そんなことに安心した。締め切った教会の中は、雨のせいで湿度が上がり、ずっと、もっと暑いはずなのに。 安堵していた。 静かな中で、雨音が聞こえた。 あの日と同じだ。 「あの日と、同じね」 ドロシーの声が、カトルの考えていたことを言葉にした。 ……そう、あの日と、同じだった。 |