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くらがりからくらがり


よいみや 番外・その後

双子の姉弟 の 今度は、ホワイトデーの前夜 とか










「今日も、しょうこちゃんの部屋に行くよね」
 行かないわけがないよね、と言う悦也の口調に、慶人は弟をじっと見た。
 悦也は慶人の視線など気にせずに、自分の気にすることだけを気にする。
「じゃあこれ、しょうこちゃんにあげておいて」
 渡された紙袋は、大きいわりに、軽い。
 慶人は受け取ったものを、また、返しながら、
「明日でいいだろ。明日、渡すもんなんだし」
「だって、どうせけいちゃん、明日までしょうこちゃんの部屋にいるんでしょ」
 日付の変わる、一時か、二時、まで。
「……いる、けど」
「じゃあ、けいちゃんがしょうこちゃんの部屋を出るときに、開けていいよ、って言えばいいんだよ。もう明日、でしょ。しょうこちゃんはきっと喜んでくれて、それで抱えて寝てくれたりしたら、僕たちがあんな思いをしてまでそれを買ってきたかいがあるってもんじゃない?」
「……そうか」
 と、疑問系で言うべきだったのか、どうだったのか。なんとなく、悦也に賛成したような返事になってしまったのを、悦也は、
「そうだよ」
 と返す。
「けいちゃんは、しょうこちゃんとお勉強、がんばってね」
 慶人と、祥子が。
 祥子の部屋でいつもなにをしているのか、なんて。
 ほんとうに、
 成績のいい祥子が、成績のよくない慶人を、相手に。勉強をしてるなんて、悦也は思っているのか、どうなのか。
 ほんの少しも疑っていないのか、疑っていても、ほかに何をしているのかなんて、想像もつかないのか。
 慶人には、想像がつかない。
 おまえはもう寝るのか、と聞けば、
「うん、ちょっと本を読んだら寝るよ」
 悦也の本棚には、気付くとミステリー小説が増えている。
「ちゃんと電気消して寝ろよ」
「んー、なるべく気をつける」
 あまり気をつける気がない悦也は、いつも本を読んでいる途中で、本を読んでいる格好のまま眠ってしまう。
「布団の中で読めよ」
「うん、今日はそうする」
 ベッドに入っていれば、まだ、いいけれど。部屋で、ごろごろとしながら読んでいると、ごろごろしたまま眠ってしまう、から。
「おまえ、その辺で本、読んでると、そのまま寝ちゃって行き倒れてるみたいでびっくりするんだよ」
「だから、今日はベッドで読むよ」
「そうしろ」
 抱え直した紙袋が、がさと音を立てる。がさという音が合図だった、ように。慶人は部屋を出る。ドアを閉める直前に、悦也が、床に寝転んで本を開く姿が見えた。



 鍵を、掛けた祥子の部屋の中で、祥子の声を聞く。
 悦也が考えているように、祥子の部屋で勉強をする、なんていうことは、ない。これまでもなかったし、これからも、ない。
 鍵を、掛けたとき、祥子はテレビを見ていた。テレビを見ているように、見えた。視線は画面を見ていた。けれど。バラエティ番組を、ニュースを見るような顔をして見ていた。
 部屋に入ってきた慶人に。
 鍵を、掛けた音に。
 しばらくしてから、やっと、気が付いたように、振り向いた。
 タイミングを、計る。
 慶人も。
 祥子も。
 ふたりきりになって、することは決まっている、のに。
 することは、したいことは、決まっている、のに。
 慶人が紙袋を部屋の隅に置く。祥子の視線は、一瞬だけ、紙袋を追う。一瞬、だけ。かたちだけ。
 それがなに、と、気にした素振りだけ、を見せて、ほんとうは、そんなもの、気にしていない。
 慶人も、紙袋を、気にかけたように紙袋から目線を外さない。ほんとうは、今は、そんなもの、どうでもいい、のに。
 気にするのは、気に、かけるのは。
 床暖房の入ったフローリングに、ぺたんと座ったままの祥子のそばに、膝をついて。
 顔を、寄せたのは、慶人だけれど。
 その後は。
 くちびるにくちびるを寄せたのも、抱き締めたのも抱き寄せたのも。
 慶人なのか祥子なのかわからない。
 祥子に聞けば、慶人だと答える。
 慶人に聞けば、祥子だと、きっと答える。
 そんなふうに答える答えも、寄せた顔も漏れる声も、よく、似ている。
 似ている、のは。
 ほかには、指の長さ。爪のかたち。選ぶ言葉は違うのに、口調はよく、似ている。ふとした仕草も、笑うポイントも。慶人と祥子と、悦也も、似ている。
 似ていないのは、髪質。祥子の髪は少しかたい。慶人と悦也の髪は、祥子がうらやましがるほどやわらかい。
 似ていない、のは。
 肌質。肌触り。自分に似た肌質なら、肌触りなら、こんなに。こんなふうに、触れているだけで欲情したりしない。その奥まで触れてみたいなんて、思ったりしない。
 肌質。肌触り。肌が覆うからだのかたち。かたちが違うから、うまく、重なる。重ねたいと、思う。想う。
 おもうほど、やわらかい場所はよりやわらかくなる。かたい場所はよりかたくなる。
 うまく、できている、と。
 後になっておもう。
 触れ合っている最中には、そんなことをおもう余裕なんて、ない。
「……祥子、祥子」
 抱き上げて、ベッドに沈めたからだに、自分を、沈める。もう何度もそうした。からだが、脳が、本能が覚えたものを満たす行為、は。
 それでも、
「祥子」
 止められなくても、そうするしかなくても、ただ、そうしたいだけ、でも。
 それでも、祥子を気遣う。
 気遣う余裕が、あるわけじゃない。あるわけがない。
 多分それも、そうすることも、
 からだが、脳が、本能が、無意識に、していること、なんじゃないかと思う。
 祥子、と呼ぶだけで。
 慶人を受け入れた祥子が、一瞬、慶人を見る。
 ずっと、ずっと祥子は慶人を見ているけれど、慶人の腕の中にいるけれど。
 呼べば、応えるそれが、なによりも気持ちがいいと思うのは、
 触れ合っている肌でもからだでも。表面上のことではなくて。ずっと奥が、壊れるような音を立てる、それが、一番、気持ちがいい、のは。
 気持ちがいいことを求めるからだの、本能とか、無意識とか、そういうもの、なんじゃないかと思う。
 祥子もときおり慶人を呼んだ。
 呼ぼうと思って呼んでいるようには見えないそれは、やっぱり、祥子の、からだが、直接受け入れているものよりもっと、なにかを、欲しがっていて。呼ばれた直後に祥子のからだが震えるのは、呼ばれた慶人が、祥子に応えているから。
 呼ぶ相手が、欲しい、相手、だから。
 成り立つそれを、
 行為を、
 繰り返す。
 慶人と、祥子と。ふたりがどんなに似ていても、違うからだが重なり合っているあいだ、ずっと。
 ずっと、祥子は声を奥歯でかみ殺している。揺らされて、悲鳴をあげる代わりに、慶人の腕を掴む。強く掴む。
 そうすることがふたりのあいだでは、
 そうすることがふたりにとっては当たり前の、ことになっていた。
 声をあげるわけにはいかなかったし、声をあげたこともなかったから、祥子は自分がどんな声をあげるのか知らなかったし、慶人は祥子が、ひそめることをやめたなら、どんなふうに声をあげるのか知らなかった。
 知らなかったから、知らなかったけれど。だから。
 祥子の、かみ締めた奥歯にかみ砕かれた喘ぎ声が、口元から、鼻の奥のどこかからかすれて漏れるかすかな声に。
 慶人の、声こそ漏らさないけれど、吐息が、息が、あがって早くなる呼吸に。
 からだの動きも一緒にせわしくなって、
 祥子が、何度か、慶人の胸元を叩いた。慶人は、自分を叩く手を取って、手のひらを取って、指を絡めた。絡めようと思った指が、一度、はずれてまた取った。
 祥子が、こどもが何かを嫌がるように大きく首を振った。つないだ手を力いっぱいに、握り返した。
 慶人の、頬を流れた汗が、あご先から祥子に落ちた。



 消していないテレビの音がなければ、部屋の中にはふたりの、落ち着くことのない息をする音だけが聞こえる。
 落ち着かないものが落ち着かないまま。
 手をつないだまま指を絡めたまま、慶人は一度、大きく呼吸した。祥子は細く、細く息を吸い込んで、吐き出した。
 つないでいた手を持ち上げて、祥子が、なにかを少し考えた後、つないでいる慶人の、手の、手首を舐めた。
 慶人はつないでいない祥子の手の、指先に、くちびるを押し付けた。
 それだけで。まだ呼吸も整わないままで。
 ごそごそと、ふたりを唯一隔てる薄いゴムだけを取り変えて、ほんとうは、そんなことをする時間も惜しい、ように、すぐに、ふたり、だけが必要な、ふたりの時間に、また、夢中になった。



「ねえ」
 呼ばれて、慶人が眠そうな顔を上げると、まくらを抱えた祥子が覗き込んでいた。
 慶人は口元だけで笑う。
 笑うと、祥子は、なにがおかしいの、という顔をした。
「まくら」
 と、まくらを示せば、
「まくらが、なに」
 慶人はまくらを取り上げる。
 祥子は抱えるものがなくなって、慶人の頭を抱え込んだ。
 祥子はいつも、まくらを抱えて眠る。だから、
「このまま寝るなよ」
 このまま、ふたりだけの、時間が続くのならそれもいいけれど。時間には限りがある。祥子が離してくれなければ、慶人は部屋に帰れない。眠った祥子はいつも、まくらを離さない。
 祥子は慶人を、離さない。やわらかい髪をうらやましがって何度もなでる。
「祥子」
 なでられれば、眠くなる。眠ってしまうと、起きられなくなる、から。
「祥子」
 呼べば、うるさい、と耳を、引っ張られた。
 手加減なく引っ張られた耳をさすりながら、慶人はやっと、
「なに」
 と聞き返した。
 ねえ、と祥子が呼んだから、なに、と聞き返した。取り上げたまくらをうつぶせになって抱えて、抱えた場所から祥子を見下ろした。
 見下ろせば、なんとなく、見下ろさないでよ、と機嫌を悪くして横を向いてしまうかと思った祥子は、見下ろさないでよ、と機嫌を悪くした顔を、そらさずに。
「……あんたなんてきらい」
 慶人は少し、眉を上げただけで、
「知ってる」
 言った後に、考え直して、
「そういうのは、変わらないんだな」
 こんなふうに、特別に、触れ合うようになっても。ならなくても。昔から、今も。祥子の口から出る言葉は、少しも、変わらない。
「僕は、祥子を嫌いじゃないけど」
 慶人の返す言葉も、変わらない。変わらない、からか、どうなのか。
 祥子はさらに機嫌を悪くした顔をした。
 慶人は上半身を起こす。
 それだけで、なにも言わなくても。それだけが、部屋に帰る、という素振りで。
 祥子は慶人が手放したまくらを抱え込む。そのまくらを、ほかにどうしようもないように、慶人に投げ付けた。
「あんたなんて大嫌い。バカじゃないの。最悪……っ」
 肩から背中にぶつかったまくらが、床に落ちる。慶人は、見下ろしたまくらを、蹴飛ばした。
 祥子は驚いたように瞬きをして、それから、呆れたように笑った。
「怒ってんの」
 なに怒ってるの、とどこか、馬鹿にしたような言い方に、
「怒ってない」
「声が怒ってる」
「機嫌が悪いんだよ」
「なんで」
「祥子の機嫌が悪いから」
「ひとのせいにして、ばかじゃないの」
「ばかはおまえだ」
「おまえって言うな。ばかって言うな」
 明らかに、機嫌の悪い祥子の声に、慶人はそれ以上言葉を返さずに、脱ぎ散らかした服を拾い上げた。
 祥子は気にいらない、という顔で慶人を睨んだ。
「慶人」
 慶人は、ちらと視線を向けただけで。
「慶人!」
 相手が、口を閉じたら。
 言いこめてやったと、勝った気持ちにならない、のは、どうしてなのか。負けたような気分になるのは、どうしてなのか。
「黙ったらわかんない。いいたいことあるなら言えばいいでしょ。ほんと、あんた、ムカつく。頭悪くっていやになる」
「僕の」
 拾い上げたシャツは祥子のものだった。慶人は、祥子に、シャツを投げ付ける。
「僕の機嫌が悪くなるのは、祥子の機嫌が悪いときだけだろ。じゃなきゃこんなときに、機嫌を悪くしたりするわけないだろ。それくらい気付けよ」
「わたしの機嫌が悪いのはわたしの勝手で、あんたには関係ない。意味わかんない」
「わからないならいい」
「よくないっ」
「祥子」
 ただ、祥子、と呼んでみた。これ以上、祥子の機嫌を悪くさせるつもりはなかった。なだめるつもりもなかった。
 慶人も、怒っているつもりも、機嫌が悪いつもりも、許したつもりも落ち着いたつもりもなかった。
「言えよ」
「なにを」
 祥子の声は、変わらずに、機嫌の悪いまま。怒っている、まま。
「おまえこそ、言いたいことがあるなら言えよ」
 一番初めから、なにかを言いたそうにしていたのは、祥子だ。
 なのに、
「ない」
 半ば勢いで、言い切った、祥子に。
「あ、そ」
 服を身につけ終えた慶人は、じゃあおやすみ、と部屋を出て行こうとして、持ってきた紙袋に目を止めた。
 紙袋の、ことなんて。
 そのまま放っていこうと思ったけれど。おとといの日曜日に、一緒に出かけた悦也の楽しそうだった顔を思い出して、吐息した。
 紙袋を、手に取ろうとしながら、
「しょう……」
 祥子、と。双子の、姉の、名前を、呼びかけたところで、なんとなく祥子に見返ったら。
 裸のままの祥子が、立っていた。
 機嫌の悪い顔は、変わらない。言いたいことがあるくせに、言わない。それともほんとうに、言いたいことなどないから、言わない、のか。
 ふたり、並んで立てば、そっくり、同じでも。男でも女でも、そういうものを差し引いたらすごくよく似ていても。
 中身は。心の中は。
 別の人間、だから。
 相手の望む言葉なんて知らないし。
 知っていたとしても、わざわざ、言う必要は、ない、んじゃないかと思う。もちろん、相手の臨む言葉を、言いたければ言えばいい。言いたくなければ、言わなければいい。
 ただ。
 自分が、言いたい言葉が。
 相手の望む言葉なら、いい。
「祥子が言うことは、いっつも、僕には意味がわからないし、なにひとつ、僕の望む言葉じゃないんだけど」
「なんで、わざわざあんたの望むことを察してあげたりしなきゃいけないの。わたしが、言いたいことを言うために、わたしの言いたいことがあるんでしょ」
 それで慶人がどう思おうと、祥子の知ったことではなかった。
 祥子は、そういう人間で。
「僕は、祥子の機嫌が悪くなると面倒だから、これでもいろいろ考えてるんだけど」
 慶人は、そういう人間で。
「ばかみたい」
「言うと思った」
「だって、ばかなんだもん」
「けっきょく、祥子の機嫌は悪くなるし」
 慶人は途方に暮れる。
 機嫌を悪くしてみても、祥子の機嫌の悪さには敵わない。祥子は放っておけば、この先もずっと機嫌が悪いままだけれど。慶人の機嫌の悪さは持続しない。機嫌の悪い自分がばかばかしくなる。蹴飛ばしたまくらをみて、悪いことをした、と思う。
 慶人と祥子は、ずいぶん違う。
 でも。それでも。
 そんなこととは、関係なしに、
 どうしても。
 否定できないものがあって。否定を、したいわけでもなくて。
 慶人は、祥子のつま先から顔まで、見上げた。
「祥子に欲情する日がくるなんて、思ったこともなかったし」
 祥子が、慶人を見ていたから。慶人も祥子を見れば、目が、合う。
 祥子はその視線を、そらさない。そらさない眼差しは、相変わらず、機嫌が悪いだけのように見えた。まさか、それ以外のなにかだなんて、思わなかった。
「……ほんとに、あんたなんて、だいきらい」
 かみ締めるように言った、祥子の、言葉には、
「僕は」
 きっと、
「好きだけど」
 なにを言って、みても。
「慶人なんて、わたしがわたしじゃなかったら、気にも止めなかったくせに」
 なにを、言ってみても。
 慶人には理解しづらい返事しか、返ってこない。
「……は?」
 おまえなに言ってんの、という顔をしたら、とぼけないでよ、という顔をする。
「わたしが、慶人のことなんてどうでもよくて、慶人がわたしを見てたみたいに、わたしも慶人を、生まれたときからそこにいるだけの人間だと思って見てたら、そしたら、慶人は、わたしに欲情する日なんて一生、来なかったくせに」
「それはなに、祥子が祥子じゃなかったときのはなし」
「わたしはどんなわたしだってわたしに決まってるでしょ」
「だって、僕のことを気持ち悪がったり嫌ったりしない祥子のはなしだろ」
 そんなのは、慶人にとっては祥子じゃない、と、思ったから、そう言ったのに。
 祥子は、ばかじゃないの、と口にしながら、
「あんたマゾ?」
 慶人は、紙袋のことを忘れる。祥子に近付いて、素肌の、肩を、押した。祥子はベッドに、座り込む。
「祥子だって、僕が双子じゃなかったら? 同じ顔じゃなかったら? 僕のことなんて気に止めたりしなかったくせに。とめないだろ」
「なに、あたりまえのこと言ってるの」
「祥子が、そういうはなしをしてるんだろ」
「慶人が、慶人じゃないときのはなしなんてしてない。だってそんなの」
「なんだよ。そういうはなしだろ。どうしてそんなことを考えたりするのか僕にはぜんぜんわからないけど、ここには、僕と祥子がこうなってること以外の、僕と祥子なんていない。ここには、そういう祥子がいて、こういう僕しかいない」
「だから、そんなはなしじゃない」
「じゃあなんだよ」
「だからそれは」
「もしも、こういう僕たちがここにいるわけじゃなかったら、こういう風になった僕たちを想像して、祥子はきっと、ばかみたいだと笑ってるよ」
「そのときは、慶人も一緒笑ってるの」
「そうじゃないの」
「そのわたしたちは、じゃあ、何のためにそこにふたりでいるの」
「双子のきょうだい、だからだろ」
「それだけ?」
「それだけ」
「このわたしがいないの。この、慶人がいないの」
「いないよ」
「うそ、やだ、最悪」
「仮定の話だろ。なにが最悪。なにをそんなにムキになって……」
「だって」
「なんだよ」
 祥子は慶人を見上げて、その、場所から。
「慶人がいないなんて、最悪」
 そう言う、声は。
 そう言う、言葉は。
 よく似ていた。
 誰かと誰かに似ているんじゃなくて。ついさっきまで、そうせずにはいられなくてそうしていたことに、よく、似ていた。服も何もいらなくて、相手がいればそれでよくて。言葉もいらなくて、抱くことのできる、からだが、相手が、いればよくて。
 いる、だけで。ほんの少しの刺激を、からだじゅうで、感じる。
 そんなこと、知らなければ、それで済んでいくのに。
 知らないほうがよかったなんて、思わない。
「祥子」
 抱き締めてもいい相手がいる。
 どこまでも触れていい相手がいる。
 普段、誰も触れることのない場所の手触りは、ひどく直接的で生々しくてやわらかい。
「慶人がばかで、ばかなまんまで、それでそのままわたしに気が付かなかったらどうするの」
「どうもしないんじゃないの」
 どうもしないまま、祥子と、こんな関係にならないままの、こと。慶人に、とっては。
「あんたのことじゃない!」
 祥子も、生々しい場所を素手で触る。指の腹でなで上げて、つめで、引っかく。そうすることを知っているし、そうされることを知っている。
「わたしが、どうするの。わたしばっかり、が、どうするの!」
 さっきから。もうずいぶん静かな夜に、祥子は大声をあげている、わけじゃなかった。
「どうもしない、なんて簡単に言う慶人がきらい。ばかで嫌い」
 慶人が、祥子に気付かなかったら。
 ぞっとする。
 一緒にいれば、触れ合えば、感情が壊れそうになるくらいきもちいいことができるのに。ほんのささいなことで、刺激で、声で、感触で、何度だって感じあえるのに。やわらかい場所が、音を立てて相手に反応するのに。
 そういう感情を、知っているのに。
 知ってしまったのに。
 もしこれが、ない、ものだと、想像したら。
 ぞっとする。
 祥子は慶人の袖口を掴んで、離さない。
 慶人は、袖口を掴んで離さない祥子を、見下ろした。
 慶人が祥子に気が付かなかったら。
 気が付かなければ、気が付かなかったというそれだけの、こと、だけれど。
 気付かなければ今こうして、袖口を掴む祥子を知らない。それは、そういうことはずいぶん。
 直接的に。
 からだに響く。
「慶人は、わたしじゃなくても、わたしじゃない誰かでも、よかった、くせに。たまたまわたしが一番だっただけのくせに」
「たまたまだって、一番だろ」
「否定しないとこが、嫌い。ほんとに嫌い。わたしじゃない誰かが一番だったらどうするの。ここにいるのが、わたしじゃなかったら、どうするの。慶人は、ぜったいどうもしない。いやだ。やだ。あんたなんて、大っ嫌い」
 こんなはなしをしているときの祥子は、語彙の少ない、言葉を知らないこどものようだった。
 それとも、計算をしてわざと、その逆の言葉を、言わないようにしているのか、どうなのか。
 慶人にはわからないけれど。
 それでも、
 そんなことよりも、
 今、手に触れている、
 これを、失いたくないと思うことが。
 これを、手に入れてよかったと、思うことが。
 慶人にとっては、唯一、で。
 なんだかよくわからないけれど、なんだか最近めまいがしそうなほど、そんなことばかり言って殺すつもりなんじゃないかと思うほど、かわいいことばかりを言っている、ような気がする祥子が。
 いなくなるとか。いなかったら、とか。そんなことを。
 慶人は考えたこともないから。
 この先も考えない。
「祥子」
 慶人が考えない分、祥子が考えるのかもしれない。それはそういうバランスなのかもしれない。
 慶人には、どうでもいいと思えることを、ぐるぐるぐるぐる。でもそれが、そんな祥子が、
「好きだよ」
 言いたいことが、
 相手の、望む言葉だったらいい。
 なでた髪に、耳元に、くちびるを押し付けた。くちびるに触れた耳たぶを舐めて、吸う。
 祥子は、慶人の袖口をきつく掴んで、離さない。
「好きだよ」
「……もっと」
「なに」
「もっと、言って」
 言ってと望まれる言葉が、
 言いたかった言葉だったならいい。
 そんなことが、気持ちがいい。
 祥子は、きっと。
 最初からずっと、それが欲しかった、だけ。だと、今、気が付いた。
 簡単な、ことだった。
 簡単なことに気が付かなかった慶人を嫌いだという祥子が。
 かわいくて、愛おしい。
 言葉にすれば、それだけの感情を。
 言葉にすれば、
「……好きだよ」
 たったひとことを。
 これからも言い続ければいいだけのこと。それだけで、この先が。
 生まれてから今までずっと、そうだったように。今からもずっと。この先が。
 そう、なる。



 抱き締めた祥子から離れると、祥子は何か言いたそうな顔をした。
 なにを言いたいのか、言えよ、とは言わない。聞かなくても、今は、今のは、わかった。
 暖かいものを手離すのは、慶人だって、惜しい。
 惜しい、ものをごまかすように紙袋を手渡すと、
 惜しい、ものをごまかすように、この紙袋なに? と聞くので、
「ホワイトデー。僕と悦也から」
「ホワイトデーは明日でしょ」
「もう、今日だろ」
 時計を見れば、確かに。そんな時間だった。
 祥子はガサガサと、紙袋からかわいらしくラッピングされたものを取り出して。ラッピングを剥いだ、ものを見て。
「慶人と悦也が、買ってきたの?」
「そう」
「……ばかじゃないの」
 馬鹿にして、そう言ったわけじゃなかった。どういうふうに言いたかったのか、なんて。
 ほんと、ばかじゃないの、と吹き出して笑った祥子に、
「恥ずかしかった」
 慶人は素直に言って、思い出しただけで思い出した雰囲気に降参したように小首を傾げた。
「あんなとこ、悦也なんかと一緒に行く場所じゃないな」
「川向こうの、あの大きなとこのでしょ?」
 女性客の多い、かわいらしい雑貨屋に、兄弟ふたり、で。
「悦也が、どうしてもそれがいいって言うから」
 まんまるの、かめの、ぬいぐるみを、
「うん、これが欲しかった」
 祥子は、抱き心地がよさそうに抱き締める。
「前に悦也と行ったときに目はつけてたけど。別に、欲しいな、とか悦也に言ったわけじゃないのに」
「あいつはそういうとこ、よく気が利くよな」
「慶人じゃ、そうはいかないけどね」
 そうだな、と慶人は否定せずに、悦也の話題に、なんとなく、目線を自分の部屋の方へと向けた。
 なに、と聞く祥子に、
「悦也、あいつ、今頃部屋で行き倒れてんだろうな、と思って」
「また、小説買ってきてた?」
「今日のは、図書館で借りてきたみたいだけど」
「悦也、ベッドに戻すの手伝う?」
「蹴飛ばして起こすからいい」
「いっつもそんなことしてんの。あんた、なにかわいそうなことしてんの」
「おまえみたいに、全体重かけて踏みつけたりしないだけマシだろ」
「悦也にそんなことするわけないでしょ」
「僕にもするな」
 言っても無駄だろうけれど、という慶人の口調に。祥子は、なに言ってるの、と言う顔で。
「そんな日が、来ると思ってるの?」
 祥子が、過剰に、慶人にかまうことがなくなる、日が、
「来て欲しいの?」
 祥子は力いっぱいに、かめのぬいぐるみを慶人に投げ付けた。
 慶人は正面で、かめのぬいぐるみを受け止める。
 祥子は、かめのぬいぐるみを、返してよ、と奪い返しながら、
「あんたはどうせ、わたしが、もう慶人なんていらないって言えば、あっそって、それきり、納得しちゃうん、でしょ。そういう人間でしょ」
 慶人は、かめのぬいぐるみを大事に抱える祥子を、見る。
 違うとも、そうだ、とも。慶人が答えなくても。
 ……答えなけ、れば。
 答えないほど。
「絶対、言ってやらないから」
 ムキになる、祥子に。
 笑った。
 かすかに、くちびるの端だけでそうした。
 絶対、と、祥子が言った。
 慶人も、言ってみる。
「絶対、言わなくていい、よ」
 慶人は部屋の鍵を、開ける。
 鍵を、開けたら。鍵を掛けなければいけない関係だったことを、思い出した、けれど。
 口にした言葉は戻らない。
 戻すつもりも、なかった。




 
くらがりからくらがり おわり




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