別窓で開いています




てん・し  (後編)



「うたた寝なんかして、風邪引いても知らないから」
 目が覚めたとき、風呂上りの祐果が覗き込んでいた。
「僕、寝てた? 一時間くらい?」
「そうじゃないの?」
「祐果ちゃん、今、僕が寝てるの見てたよね? 起こしてくれればいいのに」
「なんで?」
 祐果は、心の底から、
「気持ちよさそうに寝てたのに」
 本棚の上から二段目に、きれいに並べた小瓶のひとつを迷わずに手にとる。化粧水をコットンに染みこませながら、
「いい夢でも、見てた?」
 コットンの化粧水は、祐果の肌に染み込んでいく。
 祐基は、朋美もそうして肌の手入れをしていたのを思い出す。依子も、同じようなことをしてるんだろうか、と考える。
 ベッドに仰向けになったまま、祐基は天井を眺めた。
「怖い夢を、見てた」
 祐果の返事は、ふうん、とそっけない。そっけなかったから、そっけないね、と言ったら、
「ただの夢でしょ」
「そうだけど、すごく、ひどい夢だった」
「そうなの?」
「うん、思い出したくないくらい」
 勢いをつけて祐基は起き上がる。
「祐果ちゃん」
「んー?」
「……祐果ちゃん」
 祐果の背中に抱きついた。祐果が手にしていた乳液の小瓶を取り上げる。
「返して」
「いや」
「わたしのだよ」
「そんなこと言っていいなら」
 乳液の小瓶を棚に戻して、すぐそばにある祐果の首筋に、くちびるを押し付けた。
「祐果ちゃんは僕のだよ」
「弟が、偉そうになに言ってるの」
「おねーちゃんのほうが偉いみたいな言い方だね」
「それはそうでしょ」
「じゃあ、僕が祐果ちゃんのものでもいいよ」
 なんでもいいよ、と。肩にかかる髪に鼻先を突っ込んで、髪の生え際を吸う。抱き締めた、パジャマの上から胸をなぞった。物足りなくて、たくし上げたパジャマの中に手を入れる。
 柔らかい、肌を。手のひらで指先で、撫で下ろす、撫で上げる。
 祐果は本棚を、掴んだ。
 祐基はその手を掴む。
「そんなとこじゃなくて、僕を掴んでいいよ」
 首だけで振り向いた祐果は、くちびるとくちびるがふれそうな距離で、上目遣いに祐基を睨んだ。
 祐基の口元が笑った。笑った口元が、くちびるが、祐果のくちびるを追いかける。わずかに、祐果は顔を退く。
「逃げ場なんてないよ」
 本棚に押し付けるように祐果を捕らえて、キスを、した。祐果はなにかを我慢するように本棚に爪を立てる。その手を取って、
「……祐果、ちゃん」
 くちびるが、ほんの少しでも離れるのを惜しむようにキスを続けながら祐果のからだの向きを変えた。正面から抱き締める。本棚と祐基に挟まれて、祐果には逃げ場がない。
「ゆぅ……き……」
 わずかに漏れた声に、なあに? と祐基は眼差しをあげる。
 祐果はなにかを言いかける。
 祐基は、祐果の声を聞かずに祐果のくちの中を欲深く欲しがった。きりなんてない。そのうちに、祐果もなにかを話そうとするのをやめた。
 ごそごそと、服と肌のこすれる音と、肌が肌に触れる音と、肌が、肌の奥の粘膜に触れる音に、
「祐果ちゃん、祐果ちゃん、祐果ちゃん」
 からだが、感覚が、上り詰めていく途中で真っ白になって傾く。忘れていた呼吸をすると、目が、覚める。
 酔っているように、自分の意思とは関係がないみたいに祐果に触れていた自分にはっとする。
「祐果ちゃん……?」
 祐果の部屋の、本棚のすぐそばで、フローリングに横になる祐果を見下ろす。ボタンの全部外れたパジャマを、かろうじて腕に引っかけていた祐果に、
「……祐基」
 ……なあ、に、と寄せた頬をつねられた。
「祐果ちゃん、痛い、よ」
 正気の目をして祐果を見る、祐基は。頬をつねられたまま引き寄せられて抱きつかれて、抱き締めた。
 抱き締めながら、なぜか、哲にしがみついた自分を思い出した。哲にしがみついた。はやく、と誘った。
「祐基……っ」
 祐基に抱きついた祐果が、はやく、と祐基を誘う。頭の中がまた少し、傾く。
 抱き締められたまま手探りで祐果の下半身を裸にした。一緒に、祐基も裸になった。抱き締められていたから、シャツは着たまま。
 ごそごそと。
「ゆぅ、かちゃん、ちょっとだけ、腕、緩めて」
「いや……」
「でも、これじゃ祐果ちゃんに入れない」
「……い、や」
 嫌、だと呟いて。それでも祐果は腕を緩めた。それでほんの少し遠ざかった祐基が、そのまま永遠に戻ってこないような顔をする。
「やだな、どこにも、いかないよ」
 どこかへ、行くどころか。
「一番近くで、そばに、いるよ」
 怯えるような顔をして祐果が手を伸ばす。その手を掴んで、手のひらに、くちびるを押しつけた。祐果は少し、安心をする。
 同じような顔を、依子も、した。祐基の部屋で、祐基のベッドで、依子を抱いた。膝に手をかけたとき、興味と不安で依子のからだが震えた。
 祐果が、もうずいぶん慣れたことのように、自分で足を開いた。膝を、立てるのは。そんなことをするのは、朋美に、よく似ている。
「こうされるのがいい?」
 膝を、持ち上げて、
「恥ずかしい格好」
 普段の生活ではけっしてしない、させない格好をさせて、
「恥ずかしくて、ぞくぞくするね」
 余裕が、あれば。哲のようにじらしたりできるんだろうけれど。
 余裕が、ないから。依子をいたわったようにはいたわれない。
 余裕が、ないから。朋美に誘われるままにするように、祐果の中に自分を沈めた。
 先端が、触れた瞬間。祐果は依子のようにからだを震わせた。
 初めてしたときと変わらないきついそこに、哲がいつもそうしてくるように、ずくずくと無理矢理に、押し込んだ。
「……っう、あ、あ!」
 奥の、奥にたどり着けば、朋美のような悲鳴を上げた。
 祐基は祐果を抱え込む。どこにも隙間がないくらいに抱き締める。隙間なんてない。
「あ……、ゆ……ぅき……! んっ、あ……ぁあっ、や、いやっ」
 祐基の動きに合わせて声をあげる祐果が、
「いや? な……にが、いや?」
 言って、と耳元に囁けば、祐果が、大きく首を振った。
「ぅっ……あ、ああっ!」
「よすぎて、いや? ……っ!」
 ぞくぞくと、締め付けられて。また、祐基の頭の中でなにかが傾いた。
 つ……、と。
 その傾く感覚が何だったのを、傾いた頭の片隅で思い出しかける。
 思い出しかけたそれを、思い出したくなくて祐果をより揺らせば、思い出しかけた何かは、ほんの一瞬、祐果の喘ぎ声にかき消された。
 一瞬、一瞬、のために、ひたすら祐果のからだを揺らした。
 祐果は一度目はすぐに達した。悲鳴のように大きく喘いだ祐果を、祐基は離さない。
 荒い呼吸をしながら、祐果がなにかを祐基に呟いた。
 祐基は、でも、それでも、と答えて。祐果を抱き続けた。
 二度目に達した祐果に少し遅れて祐基もイった。それでも、離れようとしない祐基のからだから、祐果がからだを退いた。
「……んッ」
 祐基が祐果の中から出て行く感触に、祐果は声を漏らす。その声に反応したのか、まだ全然足りないのか、祐基のそれは立ち上がりかけていて、祐果が、笑った。
「ひどいな、笑うなんて」
「すごいなあって思っただけ」
「……もっと、していい?」
 いいよ、と言った祐果に、抱きつかれる。
 ……こんなに。
「どうしよう、こんなに幸せでいいのかな」
 もう何度目か、祐果を抱き締めようとした手をふと、止めて。祐基は至極まじめに呟いた。抱き締めたら。消えてしまうと思ったわけじゃない。抱き締めるのがもったいない。
 永遠に。
 永遠に抱き締めていたっていいのに。
 永遠に抱き締めていられるからだなのに。
 永遠に消えることのない血の繋がりがあって、誰からも、姉弟であることを引き離されることはなくて、今、ここに確かにある存在なのに。
 永遠に……。
「こんなことが幸せなの?」
「これ以外になにが幸せなの」
「新しいマフラーのほこほこの手触りとか?」
「そっか。そういうのもありかな」
「ありだよ」
「裸の祐果ちゃんの手触りとか?」
「祐基はいつもがっついてる」
「あたりまえだよ」
「あたりまえなの?」
「だって、いつもお腹がすいてるみたいにし足りないんだ。もっとしていいなら、もっとさせて」
「とりあえず」
 結局、抱き締め返すことを、しないまま。
 祐果だけがもう一度祐基を抱き締めて、耳元で囁いた。
「してあげようか?」
 朋美が、そうするように。そうしたように。祐果の手と、くちで。
「……してよ」
 ほんとうは、またすぐにでも祐果の中に入れてしまいたいそれを、指先で触られながら。笑われ、ながら。
「甘えたこと、言ってる」
「祐果ちゃんが、してあげようかって言ったんじゃないか」
「言ったけど」
 すぐ、傍から。
 すぐ、傍で。笑う祐果の吐息が胸元に触れる。そこを触り続ける指先がじれったくて、
「ゆぅっ、かちゃんっ」
 握り締めた手のひらを、ゆっくり、ゆっくり開いて。すぐ、傍にある祐果の額にくちびるをおしつけた。髪を、撫でた。
 撫でる髪を、力任せに引っ張って、強引に、祐果が指先で触るそこをくわえ込ませたくなる衝動を、押えながら。
「して……よ」
 お願いを、すれば。祐果が勝ち誇ったような顔をした。
「しょーがない、なあ」
 邪魔そうに、髪を耳にかける仕草や、
 乾いてもいないくちびるを、舐めて、
 ためらいなく開いたくちが、
 いっぱいいっぱいなのを主張する祐基自身をくわえた。
 祐基の息が上がる。
 やがて追い込まれて吐き出したモノに、祐果はむせて咳き込んだ。くちの中に出されたものを吐き出そうとする。
 祐基は祐果のくちを手で、ふさいだ。
「飲んで。だめ、出しちゃダメ。祐果ちゃんが、飲んで」
 しばらく祐果は抵抗していたけれど、首を振っても押し退けても祐基を振り払うことができなくて、諦めたわけではないけれど、どうしようもないみたいに飲み込んだ。飲み込んだ後も、何度か咳き込む。大丈夫? と覗き込むと、涙目で睨まれた。
「ま、っずいっ。最悪、ばかっ」
 涙目でも、泣いていないと思ったのに。ほんとうに泣きそうだったから、
「……ごめんなさい」
「ごめんなさいじゃないっ。謝るよーなことしないでっ」
「うん、ごめんなさい」
 ごめんなさい、ごめんなさい、と全部で五回、謝った。
 五回、謝ったから、五回分は、
「謝んなくていいかなあ? 先に謝ったし、また飲んでくれる?」
 ふと思いついたことを言ってみたら、額をはたかれた。
「かわいく言ったら許されると思わないでよっ」
「かわいかった?」
「かわいくないっ」
「……だよね」
 僕は別にかわいくなくていいよ、と。もう一度、額をはたこうとした祐果の手を掴んだ。
「かわいいのは、祐果ちゃんだけだよね」
 こんな、永遠が。
「祐果ちゃんが、好きだよ。祐果ちゃんだけが、ほんとうは好きだよ」
 ほんとうのことを口にすると、なぜだか泣きたくなる。
 嘘も偽りもなにもない。ほんとうのことを、言える自分に泣きたくなる。
 偽らない自分を夢に見る。
 夢の中の自分は真実?
 夢の中でも、自分を偽る自分がいる。
 ほんとうは、ほんとうは、ほんとうは、ほんとうに言いたくて仕方がない言葉を。飲み込まなくていい。言えばいい。夢の中ですらためらう言葉を。
 言えばいい。
「祐果ちゃんしか、好きじゃないよ」
「なに、言ってるの」
「信じないの?」
「気持ちいいことしたついでに出てくる言葉なんて」
「そういうのこそが、真実じゃないの?」
「調子がいいだけ、でしょ。男なんてみんなそう。自分が、一番気持ちいいところでしか愛してるとか好きとか言わないの。悔しかったら、いつでも言って。ベッドの中じゃなくても、裸じゃなくても。気持ちいいことしてる最中じゃなくても」
「あ」
「痛いトコ、突かれたでしょ」
「違うよ、祐果ちゃんが、他の男のことを言うから、心が痛んだんだよ」
 祐基は自分の胸元を押さえる。
「他のオトコとなんて、シたことないくせに」
 祐基は笑う。
「僕だけが、祐果ちゃんをこんなに好きだよ」
 両手で、祐果の小さな顔を捕まえた。やめて、と、笑いながら、嫌でもないのに抵抗して見せる祐果の顔中にキスをした。
 大好き、と言えば、どこが? と聞かれて、
「祐果ちゃんが祐果ちゃんなところ。笑う顔も、怒った顔も、この手触りも。おねーちゃんなところも。ずっと傍にいたことも、いることも。ぜんぶ」
 全部、が。
「愛してるって言うのは恥ずかしい。だって家族だし。父さんを好きなように、母さんを好きなように好きだよ。哲兄や朋美ちゃんを慕ってるように好きだよ。依子ちゃんをかわいく思うように好きだよ。僕の好きの全部が、祐果ちゃんのものだよ」
 ……こんなに、
 幸せだと思えるくらい。
 永遠に……、
 好きだよ。
 と、祐基は笑う。
 祐果を抱き締めて、
「もっと、してもいいって言ったよね」
 腕の中に閉じ込める。
 胸の中に閉じ込める。
 キスをしてキスをして肌を撫でてなぞって舐めて噛み付く。
「……柔らかいね」
 確かな、柔らかさと。
「こっちは……? 熱い?」
 熱さの中に入り込む。喘ぐ声を聞く。
 こんなに、幸福な、永遠がある。
 一瞬、だけれど。
 ほんとうは永遠なんかじゃなくて、ほんの少しの。
 一瞬だけれど。
 あるひとつの点から、同じだけ離れた場所に点を打てば。いくつもいくつも点を打てば、やがて線を引いたような円になる、ように。
 一瞬を繰り返せば、そのうちに。
 永遠になるんじゃないかと、思う。
 永遠に、なればいい。
 だって。


 部屋をノックされて、目を覚ました。
「祐基? 寝てたの? お風呂、入りなさいよ」
「……うん」
 寝ぼけた声で、
「祐果ちゃん?」
 姉を、呼んだ。
 母親はその声が聞こえたのか聞こえなかったのか、祐基の部屋のドアを閉める。
 祐基の部屋に、祐果が、いるわけがない。
 テレビを、見ている途中で眠ってしまったらしかった。手に握り締めていたのは、テレビのリモコンだと思った。小瓶、だった。小瓶を傾けると、半分ほど入っていた白い液体が重そうに動く。
 液体がゆっくりと動くのがおもしろくて、小瓶を傾けたり、戻したりする。小瓶の内側が、液体にまみれて真っ白になる。机に、置けば。内側を汚したとろりとした白色が下半分にたまっていく。小瓶の、上半分の白い濁りが、落ちていく。
 ゆっくり、ゆっくり。
 白いものが、落ちていく。
 白いものが落ち切って、祐基はようやく目が覚めたように部屋を出た。変な時間に居眠りをした。見損ねたバラエティ番組の中でやっていた勝負がどうなったのか気になる。父親とは母親は同じ番組を見ていたかもしれない、と居間に顔を出す。
 母親は、父親の晩酌に付き合っていた。バラエティ番組は見ていなかったらしい。風呂に、行こうとして呼び止められた。
「来月の最初の日曜日、ちゃんと空けてある?」
 母親がカレンダーを見る。祐基は、特に、カレンダーは見ずに、
「空けてあるよ」
「そう? 忘れて予定入れたりしないでね」
「忘れないし、入れないよ」
 風呂の湯は、ずいぶんぬるくなっていて、ぬるかった、と母親に文句を言ったら、さっさと入らないからでしょ、と怒られた。部屋に戻って、髪も乾かさないままベッドに横になった。
 小瓶が、目に入る。
 小瓶の中身はなんだったっけ? と、考えた。化粧水、じゃなくて。乳液、という言葉が出てこない。
 小瓶を指ではじくと、倒れて転がって机から落ちた。割れる、と思った小瓶は割れずにドアまで転がる。フローリングに小さな傷がついた。
「ないと思ったら、こんなところにあった」
 ノックもせずに入ってきた祐果が小瓶を拾い上げる。
 その小瓶の中身、なんだっけ? と聞けば、乳液、という言葉が返ってきた。
 転がった小瓶の中身は、乳液で、真っ白で。
 一瞬、祐基は、視界が、真っ白になったような気がしてまばたきした。……一瞬。ほんの、一瞬。
 これは、永遠には繋がらない、一瞬。
「……祐果ちゃん」
 ゆうかちゃん。ゆうかちゃん。
 手を伸ばせば、小瓶を、返された。祐基は少し、笑った。
 欲しいのは、
「これじゃなくて」
 なに? と聞くから、
「祐果ちゃんしか、欲しくない」
「甘ったれなこと言ってる」
「だって」
「なによ」
「弟だもん」
 だから、
「今夜はずっと、抱いててもいい?」
「怖い夢、見たんだっけ?」
「そう」
 怖い夢の内容を、祐果は聞かずに、
「髪、ちゃんと乾かしなさいよ」
 姉のような、ことを言った。


 一晩中、祐果を抱いていた。
 ただ抱き締めて眠ったわけじゃない。それもよかったけれど。そんなの我慢ができない。
 何度抱いても、どんなふうにしてみても。なぜか、一度も、ちゃんと祐果を抱いたような気がしなかった。だから何度も、何度も祐果を抱いた。
「祐基」
 祐果の声は、少し、疲れたように聞こえた。でも、疲れたんじゃなくて、絶え間なく祐基が与える刺激に酔っていたのかもしれない。
「祐基」
 祐果の声は少し、眠たそうに聞こえた。でも、眠たかったんじゃなくて、繋がり続ける祐基のからだを感じていただけなのかも、しれない。
「祐基、祐基」
「なあに」
「祐基はわたしのなにが好きなの」
「全部って言った」
「全部って、聞いたけど」
「ぜんぶ、だよ」
「おねーちゃん、なのに?」
「おねーちゃんなところも」
「いつから?」
 ……いつ、から?
 祐果を揺らし続けていた祐基は、そうすることをふと、止めた。
「いつから、って……」
 考える、ように頭を振った。
 祐基のベッドの上で、四つ這いになって祐基を受け入れていた祐果は、頭を振った祐基の動きも敏感に感じ取って、あ、と声を漏らす。声に、祐基のからだが震える。
「祐果ちゃん、そんなことはどうでもよくない?」
 目の前にある白い背中を撫でて抱き締める。大きくはないけれど、さわり心地のいい胸の先の、赤く、腫れた場所を引っかいた。
「……あッ」
「今は、気持ちいいことだけしてよう?」
 祐果のからだを抱え込む。
「祐果ちゃんも、気持ちいいでしょ」
 繋がった場所を退けば、だめ、と言いたそうに腰を揺らす。じゃあ、と進めれば、深く繋がるのを怖がるように逃げようとする。そのからだが愛しくて抱き締めて、押さえつけて、深く奥まで入り込む。
「ぁ、ん!! ……だ、めっ」
「気持ちいいよ?」
「あ、あ、あ……っ、そ、んなトコまで……ッ」
「どんなトコ?」
「ん……あ、はあ……あ、あ」
「ここ? ここが、祐果ちゃんの一番奥?」
「あ……ん、奥……そこが、一番……だ、から」
「これ以上は、ムリ?」
「……ん、む……り」
 ほんの少し、安堵したような、喘いだだけのような、返事に、
「でも、もう少し入るよ?」
「……え? あ……ぅあ、ああ! あ、だめ、やだ……っ! 祐基!!」
 ずくずくと、こじ開けるように入り込んで、祐果の悲鳴を聞きながら。
 この一瞬も、永遠に繋がる一瞬なのかと考えた。
 円を描く点と線。
 線と、点。
 せんと、てん。
 永遠を描く、一瞬に似た、てん。
 てん。
 てん、てん。
 一瞬、
 祐果を腕に抱く感触が遠ざかる。密着しているはずの肌の感覚が遠ざかる。祐果の悲鳴も喘ぎも、自分のあがった呼吸も。
 遠ざかって傾いて、傾いた場所を、毛糸玉が転がっていく。編みかけのマフラーからどこまでも毛糸が伸びていく。毛糸玉が遠ざかっていく。
 かつん、とどこかで音がする。振り返ると、小瓶が、机から落ちていた。
 毛糸玉を拾い上げる。ほどけた毛糸を巻きつける。
 小瓶を拾い上げる。中には白い、とろとろの液体。そう、確か、乳液だと、言っていた。
「……祐果ちゃん」
 口にすれば、声に出せば、祐果の姿は手の中に戻ってくる、けれど。
 戻ってきた祐果はなんの脈絡もなく、
「いつから?」
 と、また聞いた。
「……いつから、って……」
 祐基はただ、繰り返す。
「いつからわたしを好きだった?」
 ずっとずっと好きだった。姉としてなら、多分、生まれたときから。母を好きなように、父を好きなように好きだった。
 好きだった。喧嘩をすれば、本気で憎いと思うほど、仲が良いときは、喧嘩をするとどうしてあんなに憎く思えるのか不思議なくらい。学生になって、あまり顔を合わせなくなっても、でもそれでも、姉で、弟で、その存在は絶対で。
 好きか嫌いかと聞かれれば、好きだと答えた。祐果に向かって、あらためて、好きだよ、なんて言ったことはなかったけれど。言う気もなかったけれど。言わなくてもいいことなんだと、思ってた。
 好きだった。恋じゃない。
 好きだった。同じクラスの女の子を想ったりしたのとはぜんぜん別の意味で。
 キライじゃなかった。だっておねーちゃんだし。
 おねーちゃん、だったし。
 でも。
 だけど。
 そう。
 おねーちゃん、だった、から。
「おねーちゃんじゃ、なくなったときに」
 と、言った自分に、はっとした。
 腕の中で、祐果は、なに言ってるの? という顔をした。
「わたしが、いつ、おねーちゃんじゃなくなったの」
 不服そうな顔は、祐基がなにをしても、祐基になにをされても、祐基となにをしていても、姉であることに変わりはないことを主張する。
「祐基がどんなに大きくなったって、わたしがおねーちゃんだよ」
「……そうだよね」
「あたりまえでしょ」
「あたりまえ、だよ、ね」
 祐基は、そんな当然のことを、少しだけ、どうでもいいように繰り返した。
「……あたりまえ、だよね」


 一晩中、祐果を抱いていたのに。
 目が覚めると、祐基はひとりで眠っていた。
「祐果ちゃん?」
 祐果は、自分の部屋に戻ったのか。どこへ行ったのか。寝ていたから、横になっていたから、転がった乳液の小瓶のように真っ白だった内側が、目覚ましに起き上がると、晴れていく。
 部屋の中に、祐基はひとりで。乳液の小瓶は、ドアの傍に転がったまま。
 ……祐果は、昨夜、部屋には来なかったんだろうか。抱いてなんかいなかったんだろうか。ひとりで眠っていたんだろうか。
 小瓶は、転がったまま。
 でも、
 どうしても思い出せなかった、乳液、という言葉を、今は、思い出せる。
 祐果が教えてくれた。
 だからきっと、祐基は、祐果と、寝ていたに違いない。 


     ◆


 並んで歩いていた依子が、もうさっきからずっと気になっていたことに、かわいらしく笑った。
「祐基くん、それ、寝癖?」
 依子が手を伸ばす。祐基が身を屈めると、依子は髪を撫でた。祐基は、そんなに目立つかな、と気にしながら、
「昨日、乾かさないまま寝ちゃったんだ」
「風邪、ひかないでね?」
「ちゃんと、暖かくして寝てたから大丈夫だよ」
「そうなの?」
「そうだよ」
 昨夜は、祐果と、眠っていた。あんなに暖かいものはない。
「今も、暖かい」
 髪を撫でていた依子の手と、手を繋ぐ。
 ほら、あたたかい、と笑えば、依子も笑った。なにかに、安心をした顔をして、笑った。
「そういう笑い方、哲兄に似てる」
「お兄ちゃんに? そうかなあ?」
「似てるよ」
 依子と哲が、同じ顔をして笑った、のは。
「僕、そんなにみんなになにか心配かけてるかなあ?」
 依子は、そんな顔、をしていた。依子にはそんなつもりはなかったのかもしれない。でも、祐基には、そう見えた。
「哲兄がね、言ってた。依子ちゃんと朋美ちゃんが、僕の心配してたって」
「……うん」
 依子は素直に、
「ずっと、心配、してたよ? あたしたちだけじゃなくて、親戚のひとたちもみんな、心配してた」
「僕、なにかおかしかった?」
「……忘れてるんだと、思ったから」
 祐基は見当もつかない顔で、なにを? と尋ねる。依子は、なんでもないことだよ、と繋いだ手を、大きく振った。
「お兄ちゃんがね、祐基は大丈夫だ、って言ってたから。もう、いいの。うん、大丈夫だよね、祐基くん、忘れてるわけ、ないよね」
 なにを? ともう一度祐基が問うより、先に、
「来月の最初の日曜日、祐基くん、ちゃんと来る、よね」
 祐基は、どこに? とは聞かなかった。母親にも何度も確認をされているその日が、何の日なのか、わかっている。祐基は、一体なにをそんなに心配されているのかわけのわからない顔で、
「行くよ。ちゃんと、もちろん行くよ」
 大丈夫だよ、と祐基は笑った。笑うことが、できる。
 だって。
「依子ちゃん、その日、一緒にいてくれるよね?」
「うん、あの。……祐基くん?」
 なにかを言いにくそうにする依子に、なあに? と聞けば。
「まだ、寂しい、よね」
 繋いだ手を、ぎゅっと掴んだのは、依子だったのか、祐基だったのか。
「依子ちゃんが一緒にいてくれれば平気」
「ほんとう?」
「……ほんとうは、ほんとうじゃないけど。依子ちゃんがいないことを思えば、いてくれると、ずいぶん平気だよ」
「……うん」
「だって」
 だって、のあとの言葉を、祐基は続けなかった。
 依子は祐基を見上げる。だって、と祐基が言ったのは気のせいだったのか。
 しばらく、仲良く、手を繋いで歩いた。
 依子が、ふと思い出したことに、あ、と声をあげた。
「そういえば祐基くん、お母さんにマフラー、あたしとおそろいにしてって頼んだでしょ」
「あれ、バレちゃった。嫌だった?」
「というか、あたしが編むんじゃないところが、すごく、複雑。あたしが編めばいいのにって思ってない?」
「思ってないよ。でも、依子ちゃんは、編み物しないの?」
「お母さんの方が上手だもん」
 そうなの? と祐基は編み物のことはよくわからない表情をした。
「依子ちゃんが上手か下手かはわからないけれど、おばさんの趣味を取り上げちゃったらかわいそうだよね」
 依子の母親が見せてくれた毛糸の色を、思い出す。それから、祐果が編むと言っていたマフラーの色を、思い出す。
「祐果ちゃんもね、マフラーを編んでるんだよ。でも編み物よりも、毛糸玉を転がして遊んでるようにしか見えないんだけどね」
 仔猫みたいだよね、と祐基は肩をすくめる。
 依子は、繋いていた手を、握り締めて、立ち止まった。
「依子ちゃん?」
 手を引くと、依子は俯けた眼差しを、そっと上げた。なにかに、怯えるように、確認するように祐基を見て、繋いだ手に力を込める。
 どうしたの? と、祐基は頼子を引き寄せて、抱き締めた。依子は、泣いてはいないけれど、まるで泣いているように小さく肩を震わせていた。
 祐基が、ふと、笑ったのは、
「依子ちゃんも、小さな小さな猫みたい、だね」
 腕の中に納まっている、小さなからだを、かわいい、と思った、から。
 そのあと、ずっと、依子は口を閉ざしたままだった。なにかをくちにすると、泣いてしまいそうな顔をしていた。でも、繋いだ手を離すことはなかったから、手を繋いだまま。
 依子を家まで送り届けた祐基は、ついさっきまで依子と繋いでいた手を、見た。見た手は、ただの自分の手、だった。夕方の風が冷たくて、その手をポケットに突っ込んだ。
 ひとつ、気がついた。
 依子と一緒にいる間、依子と繋いだ手は暖かかった。依子と別れて、ひとりになって、手は、冷たくなったけれど。ポケットに突っ込めばまた暖かい。
 暖かい、なら。
「……依子ちゃんは、いらない、のかな」
 同じ、暖かい、なら。
 ポケットよりは依子の手のほうがずっといいけれど。
 同じ暖かいなら。
 ただ暖かければ、いい、だけなら。
 暖かくしてくれるのなら、
 依子でなくてもいい。
「うわ、最低」
 呟いて、祐基はこっそり、ひとりで笑った。
「ほんと、最低」
 依子がいなければ、来月の最初の日曜日は、きっと、ひとりで出歩くこともできないくせに。
 来月の最初の日曜日のことを思うと、足元が傾く気がした。頭の中が傾く気がした。
 ……傾く気がする。
 実は、とっくに、傾いている。
 祐基は真っ直ぐに帰宅する。ただいま、と言えば、母親が、おかえり、と言う。なにもかもが傾いている。階段がいつもよりも急に見えた。足を引き摺るように二階に上がる。自分の部屋に入るよりも先に、祐果の部屋をノックした。
「祐果ちゃん」
 返事はない。まだ帰っていないんだろうか。そういえば、玄関に靴はなかった、だろうか。……よく、思い出せない。
 どうしてよく思い出せないのか、深く考えない。
 もう一度ノックする。返事がない。勝手に、ドアを、開けた。ベッドの枕元に、編みかけのマフラーを見つけて、安心をした。網目がちっとも増えていないマフラーを見て、小首を傾げた。依子も祐果もあまり器用ではなくて。
「これ、いつ編み上がるのかなあ」
 大丈夫なのかなあ、と心配して口にしたら、背後から、頭を叩かれた。
「心配しなくても、この冬中には編み上げるからっ」
 祐基は、ゆっくり振り向いた。自分でも、おかしなくらい、ゆっくりした動きだった。ゆっくりと、振り向こうと思ったわけじゃない。どうしてか、ひどくからだが重くって、ゆっくり、振り向かないと、足がもつれて倒れそうだった。
 からだが重いと感じるくらい足元が、傾いていた。めまいがして、倒れそうになるのを踏ん張っているみたい、だった。風邪でもひいた、んだろうか。
 振り向いた先では、祐果が、きょとんと祐基を見上げていた。振り向いた祐基もきょとんとするくらい、きょとんと、していた。から、祐基も、きょとんと、しながら、
「祐果ちゃん、いたの」
 どこにいたの、という顔をすれば、トイレ、と簡潔に返ってきた。
「ていうか、なんで祐基はいつも、勝手にわたしの部屋に入ってるの」
「だって」
「なによ」
 だって。
「祐果ちゃんが、いないから」
「いなかったからって、勝手に入っていい理由にはならないでしょ」
 自分はノックもせずに弟の部屋に入ってくることなど棚に上げる祐果に、
「そう、だけど。そー、じゃなくって」
 だって、だから。
「祐果ちゃんがいない、から」
「いるけど」
「いる、よね」
 いる、ことを。確かめるように祐果の髪を撫でた。
 確かめなくてもいる、けれど。
 ……なにを、確かめたかったのかなんて、わからない、けれど。
 手には確かに、祐果の髪の感触がして、祐基は息をついた。
「今度からはトイレも探そう」
 祐果は呆れて、髪を撫でる手から逃げながら、
「こどもみたいなこと言ってる」
 ずいぶん昔のことを思い出して笑った。
「祐基、わたしがちょっと隠れると、ゆーかちゃんゆーかちゃんって、すっごい、探して回ってた、よね」
「え、あれ、隠れてたの? わざと?」
「そう、わざと、隠れてたの」
「そうなの? 遊びの延長だったの? 僕、祐果ちゃんに置いていかれちゃったんだと思って必死に探してたのに」
「必死に探す姿がおもしろくって」
「ひどいな」
「祐基を置いて、ほんとうにわたしがどこかに行っちゃうわけないでしょ」
 わたしはおねーちゃんなんだから、と。それだけが、ふたりのあいだではすべてのことのように、祐果は言う。
 祐基にとっても、それがすべて、だけれど。
「それは……そう言われれば、そう、だけど」
「そう言わないと、信じられないの?」
「だって」
 だって。
 祐基は、もう一度、撫でようとした祐果の髪を、掴んだ。掴めば、髪の毛一本一本までの感触が、さらさらと、皮膚から伝わってくる。
 これが、祐果の髪の、感触。
 ……感触?
 手にある感触は、髪の、感触でしかない。
 ここに祐果がいて、祐果の髪で。だから、祐果の髪、だと、思う、けど。
 もしかしたら、
 依子の髪の感触を間違えているのかもしれない。
 朋美の髪、かもしれない。哲の髪、かもしれない。
 祐果の髪、かもしれない。
 区別が、うまく、つかない。
 目の前には、確かに祐果が、いるけれど。
 ……だって。
 祐基は、祐果の髪から、手を、離さない。引っ張ったりはしない。乱暴にはしない。手のひらに掴んで、握り締める。
「だって、ほんとうに、いなくなったじゃないか」
 抑揚のない声で、呟くように、言った。
 祐基が口先から落とすように言った言葉に、
 祐果は、笑った。
 きっと祐果はそんな顔をして笑う、と、祐基が想像したとおりに、楽しそうに笑った。
「なにそれ。例の、怖い夢、のはなし?」
 笑う祐果が、小さな弟にするように、祐基の髪を、撫でた。
「そんな、ひどい夢を見てたの?」
 祐果にとって、祐果がいなくなることは、祐基のひどい夢に、なるだろうか。
 依子にとって、朋美にとって、哲にとって、祐果がいなくなることは、祐基のひどい夢に、なるだろうか。
 祐基にとって、は。
 ずいぶん、ひどい、ゆめ、だ。
「……祐果ちゃんが、いないから。僕は依子ちゃんを好きになる。朋美ちゃんを好きになる。哲兄を、好きになる」
 祐果は笑う。なあんだ、と納得したように、笑った。
「依子ちゃんに朋ちゃんにてっちゃんまで? やだ、その夢、ほんと怖いね」
 うん、と祐基は、小さく頷いた。こどものように、素直に頷いた。
「怖い、よ」
 夢の中では。
 ほんとうは、
 依子なんていらないのに。
 朋美もいらないのに。
 哲も、いらないのに。
 依子が好きで、かわいいと思っていないと、
 朋美が好きで、かわいがられていないと、
 哲が好きで、寄りかかってもいい存在が、ないと。
 真っ直ぐに立っていられない。足元が傾く。頭の中が傾く。からだが傾いて、心が傾く。
 真っ白に傾いて、
 今、
 祐基の髪を撫でているのが、祐果、なのか、依子なのか朋美なのか哲なのか。
 そんなこともわからなくなる。
「祐果ちゃんが、いないから」
「わたしがいないから、依子ちゃんや朋ちゃんやてっちゃんと付き合うの?」
 ううん、と祐基は首を振った。こどものように、首を、振った。
「祐果ちゃんがいないから」
 だから。
「祐果ちゃんしか、好きじゃない」
 お姉ちゃんだったひとが、いなくなって。
 いなくなったお姉ちゃんは、気付くと、自分よりも年下の存在になっていた。
 どうして、お姉ちゃんは、いないんだろう。
 気になって。
 気になって。そのことばかり考えた。恋人のことを想うように、祐果のこと、だけ、考えた。姉として、好きだった。好きだったよ。今は、どうなんだろう。
 だって、思い出す祐果はもう、年下、なのに。年下の姉、なんて、いないから。じゃあ、
 姉じゃない祐果は、だれ、なんだろう。なんなんだろう。考えて、考えて、考えて。
 考えて。
 わからなくなった。
 わからない、でも、考える。祐果のことばかり考える。姉ではなくて、祐果、というひとそのもが、気になって気になって気になって。
 そういうのは、クラスメイトの女の子のひとりが気になって仕方がなかったあの感情に、似ていた。その女の子とはうまくいかなかったけれど、そのうちに、依子と並んで歩くようになった。そのときの感情に、似ていた。
 この子が、自分のものになればいいのに。
 この子に触れることができるのが、自分なら、いいのに。
 自分だけなら、いい、のに。
「祐果ちゃんに触っていいのは、僕だけ、だよね」
 祐果は、なにも、聞こえなかったように、答えない。
 祐果が答えない答えを、祐基は知っているはずだった。
 そんな会話を、祐基は、哲の部屋で、哲と、した。
 したはず、だった。
「神様にだって、触らせてあげない」
 このひとは。
 自分だけのもの。
「そういえばね、祐果ちゃん」
 祐基は、ふと思い出したことがおもしろくてしかたなくて、笑った。
 聞いてよ、と掴んだままでいた祐果の髪を手放して、代わりに、祐果を抱き締めた。いつでも欲しくて欲しくてしかたがないからだを、抱き締めた。
「知ってる? 来月のね、最初の日曜は、祐果ちゃんの三回忌なんだよ」
 こんなにひどい夢があるわけがない。こんなにひどい現実があるわけがない。
 あんまりひどくて、ほかにどうしようもなくて、笑った。
 腕の中にいるこのひとは、祐果の、はずだった。
 依子じゃない。朋美じゃない。哲の、腕の中にいるわけでもない。
 永遠に編み上がることのない編みかけのマフラーを、抱き締めている、わけでもない、はずだった。


おわり

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