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声と手のひらそれから笑顔


   
18.ごちそうさま。(7月上旬)



「ごちそうさま」
 という声が聞こえてぐるんと振り返ると、彼女は丁寧に、ごちそうさま、の後に「でした」と付け足した。
 そんな彼女の姿に、そのファーストフード店の元気の良さそうなかわいらしい店員さんは思わずコブシを握り締めた。
 うむう、彼女にイチブのスキもなしっ。我が敵ながら天晴れ。
 と、思うくらいは勝手だよね、と思いながら、彼女と彼の座るテーブルの前を通り過ぎる。空いているテーブルを拭き、店内に置かれたナプキンの補充をして、トレーを片付ける。
 ここでのバイトを始めて丸一年。仕事の動作はすっかり身につき我ながら流れるように仕事をこなすことができるようになっていた。なので、いかにも仕事をしています、という振りをしてお客サマをチラ見することなんて朝飯前だ。
 ちら、と今日も彼女と彼を見る。そのふたりの向こう側の壁に掛けてあったカレンダーがまだ六月のままだったので、慌ててめくった。
 今日から七月だ。彼と……彼女が一緒にこの店に一緒に来るようになってから、ひと月……ちょうど、ひと月になる。だって、初めて彼が彼女を連れてきたのは、ちょうど、こんなふうにして五月のカレンダーをめくった日のことだった。
 忘れもしない。だって。だってっ!
 彼女はあの明るめの紺色のセーラ服姿で店に入ってきた。あの学校の制服は紺色で、冬なら上から下まで紺色で、六月でちょうど衣替えの日だったけれど、やっぱり、半袖の白地のセーラーの襟は紺色だったし、スカートも紺色だった。冬服では黒いリボンは、夏服では紺色のリボンで、全国的に見たら制服として特に目立つわけではないけど、とにかく、その制服は目立つのだ。よその地域では知らないけれど、この辺りでは。
 なんてったって、由緒正しきお金持ち。お嬢様っ。……間違えた。由緒正しきお嬢様。お金持ちっ。
 彼女が入ってきたとき、店内はざわめいた。そんなことを特に気にしていないのはあのふたりだけだった。
 いらっしゃいませこんにちは、と今日のように店内の片付けをしてた店員さんは、元気よく言いながら振り返って、彼と彼女を見た瞬間に手にしていたトレーをひっくり返してしまった。
 び、びっくりした。
 他の店員や、その場にいた客たちは、こんな店で目にしたお嬢様にびっくりした。
 でも、元気で明るいと評判の店員さんは、違う意味でびっくりした。落としてしまったトレーを慌てて拾いながら、心の中で彼に問いかけた。
 そ、そのお嬢さんはもしかして恋人サンですか!?
 それからちょっとひっそりと思った。
 ……そりゃないですよ。
 店員さんは、月に何度か姿を見せる彼のことをすっかり覚えていた。最初は、背が高い人だなあ、細い人だなあ、と思っていただけだった。それだけだった。でも、それだけ、でも思って日々見ていれば、少しずつ、見ていることの意味合いが変わってくる。
 よく一緒に来ていたお友達が彼のことを「マサミクン」と呼んでいたので、ああマサミくんかあ、と名前を覚えた。会話からでは名前を漢字で想像できないのが少し悲しかった。いまだにフルネームはわからない。
 せめて、マサミくんの立ち去ったテーブルの片付けでもしたくて、いつも、マサミくんが席を立つ頃合を見計らっていた。でも、基本的に店内はセルフサービスで、どうでもいい連中はセルフサービスなのを無視してトレーを置きっ放しにしていくのに、マサミくんはいつもきちんときれいに片付けて帰っていく。そんなマサミくんの背中を見送りながら、ツレナイひとだ、と心の中でハンカチを噛んでみたりしたこともあった。
 店員さんがここでバイトを始めて一年。マサミくんに女気はなかった。たまになにかの仲間であるらしい女の人が一緒であることはあったけど、仲間、以上でも以下でもないようだった。
 そんなこんなだったから、安心していたのにっ。
 と、店員さんは大きなため息を吐いた。
 ごちそうさまでした、と手を合わせる彼女をちらと見て。いつ見ても、
 か、かわいい人だなあ。
 と素直に思う。
 少し癖のある真っ黒な髪も、すっぴんの顔も、ぜんぜん今風ではないのに。リップもつけていないのに。だから気にせず、お嬢様のくせにチキンにかじりついたりするのに。その食べ方は店員さんがそうするのとなにも変わらないのに、なのに、なんだかとても違う気がした。
 トレーに乗ったチキンやハンバーガーをどう食べていいのかわからない顔をして、じっとマサミくんを見て、そうして納得したように真似をして食べ始める。おそらく、初めての味を、おいしそうに一生懸命に食べる。
 一生懸命に食べる彼女を見るマサミくんの顔を見て、店員さんは無意識になにかを悟った。そのなにかがなになのか、そのときはわからない振りをした。バイトを終えて、家に帰って、お風呂にはいってやっと、ちょっと泣いた。
 実は今でも、そんなマサミくんをみるとちょっと泣きそうになる。いや、泣ける。
 どうして、そんなに優しい表情ができるんですか?
 どうしてそんなに幸せそうな表情ができるんですか?
 両手を合わせた彼女に、その向かい合わせに座るマサミくんも真似をして、
「はい、ごちそうさまでした」
 と言って笑う。
 彼女のほうはきょとんとして、なぜマサミくんがいつまでも笑っているのかわからないような顔をする。マサミくんのほうはきっと、礼儀正しすぎる彼女が微笑ましくおかしくてしかたないのだろうけれど、そんなこと、彼女はわからないみたいで。
 彼女はくすくす笑うマサミくんをのぞき込んで、
「あの、雅巳さん?」
 どうして笑われているのかわからなくて、少し顔を赤くしながら、
「わたし、なにかおかしいですか?」
「いいえ」
「じゃあ……」
 どうして? とさらに覗き込む。ふたりの距離がすぐ傍になって、店員さんはなんだかどぎまぎした。マサミくんは、その至近距離に降参したように、
「すみません。かわいらしかっただけです。それでつい、イトコのこどもを思い出してしまって」
「こどもさんを、ですか?」
「はい、いくつの子、だったかな」
 身長はこれくらいだったんですよ、と手のひらでテーブルの高さ辺りを示しながら、
「覚えた言葉を使うのが楽しそうなんですよ。食事の後には大きな声で、ごちそうさまでした、と言うんです。とてもかわいらしいですよね」
 マサミくんはまた、ぷは、と笑う。さすがに彼女もなにかを察した様子で、
「雅巳さん、わたしがこどもさんと同じでおもしろがってますね?」
「いえ、あの」
 マサミくんはなにか言い訳をしようとして、でも結局正直に、
「はい、すみません」
 気に障りましたね、謝ります、と言いつつまだ肩を揺らす。肩が揺れているので少々震えた声で、
「いえ、でも、本当に、かわいらしくて」
 と、無邪気に笑い続けるマサミくんもかわいーです、と店員さんは思う。
 彼女があんまりこのうえなく欠陥なしにかわいらしいお嬢様だったので、はじめは……本当のほんとうにはじめは、だめだよマサミくん、そんなおじょーさまとうまくいくわけないよ、とか思ったりもしたけれど。
 笑い続けるマサミくんと、ほんのり顔を赤くする彼女に、他のテーブルのお客さんたちがつられて笑ったりしはじめるから。
 気付くと、店員さんも笑っているから。後でふと我に返って泣きたくなったりもするんだろうけれど、今は、笑っているから。
 マサミくんと彼女が席を立った。店員さんは素早くテーブルを拭く。そのテーブルにハンカチが置いてあった。店員さんが百均で買ったりするものとはまるで質が違うとひと目でわかるそれは彼女の忘れ物に違いない。店員さんは慌ててふたりを追いかけた。
「あの、これ、お客様の忘れ物じゃないですか?」
 振り向いた彼女が、ありがとうございます、とハンカチを受け取って丁寧にお辞儀をした。店員よりも丁寧なお辞儀に店員さんは少し慌てた。慌てながら、店員さんは見た。
 よかったですね、と言ったマサミくんが、ナチュラルに彼女の肩を抱こうとして、そんな仕草に店員さんは少し心を痛めた。でも、なんと、マサミくんはなにやら決死の覚悟でその手を引っ込めた。
 肩を、抱かない。
 店員さんはぴんときた。このふたり、まだ付き合ってないじゃんっ。
 そう思ったら、思わず、ありがとうございました、と背中を見送る声が大きくなった。
 それはもちろん、明日にでも、明後日にも付き合い始めていちゃいちゃしちゃったりしてもおかしくないふたりに見えたけれど。でも。
「……あはは」
 肩を抱きたそうにしていたマサミくんを思い出して笑った。
 肩を抱きたいくらい、でも抱けないくらい、彼女が大好きですか。そーですか。
 なんだかもうごちそうさまです、と店員さんはふたりの背中に手を合わせた。
 家に帰ってお風呂に入ったらまた少し泣くかもしれないけれど、明日もバイト、頑張ろう、と思った。



18.ごちそうさま。おわり


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