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 この、季節 あの、日  (望月編)  2.
 
 
 その後の友久は不自然だった。
 後になってこの頃の自分で思い出してみても不自然だったと思う。でも仕方がない。そもそも急に紗穂を、そんな、目で見るようになったことが不自然で、つまりだからとにかく不自然だった。
 「とーもーちゃん」
 学校で、廊下で声をかけられて、嬉しいのに。
 そばに寄られると逃げたくなる。
 「……なんだよ」
 明らかに不自然に、廊下の教室側と、その反対側で。
 友久は、用があるならさっさと言ってよ、という顔をする。紗穂は、今までは呼べば子犬のように寄ってきた友久がなぜか自分を警戒しているように見えて不審な顔をする。紗穂は何かを考えて、
 「あれ、紗穂、ともちゃんと喧嘩中?」
 そうだっけ? いつ喧嘩したっけ?
 「……別に」
 喧嘩なんか、してない。と返せば、
 「なあんだ」
 紗穂は簡単にそばまで来た。すでに廊下の端に寄っている友久にはそれ以上逃げ場がなくて、これまでと、今までと、少しも変わらないふたりの距離に戸惑う。
 髪とか腕とか指先とかが、
 「わあ!」
 触れただけで過剰に反応する自分に戸惑う。
 わけが、わからない。
 いや、わけなら、わかっている。
 だから、余計に。
 そばに寄らないでくれ、と思う。
 紗穂のことなら知っている。今まではなにも考えずにそばにいたから、紗穂の腕や足や肌が、どれくらい柔らかいのか知っている。知っているから、それ以上のことを考える。その先はどうなっているんだろうと、考える。
 紗穂を、そんな目、で見るようになったことがむしろ自然なことだと、もっと早くに気が付くことができていたら、もう少しくらいは楽だっただろうか? と何年か経ってふと思ったけれど。これは、まだ、そんなことを考えもしなかった頃のこと。
 部活のこととか宿題のこととか友達のこととか、考えることもすることも遊ぶこともたくさんあるのに、気付くと紗穂のことを考えている自分がいやだった。……だから、紗穂を、避けていた、のに。
 「ともちゃん、とーもーちゃんっ。あーそーぼっ」
 締め切った友久の部屋のドアを、紗穂が乱暴に叩く。
 「ジャンプ、続き読ませて。この間までやってたテレビゲームの続きどーなったの? 宿題、わかんないとこないの?」
 あんまり乱暴に叩くので、見かねた友久の母親もやってきた。
 ドアの向こう側で、
 「どうしたのさぁちゃん。友久死んでるの?」
 「生死不明なんです」
 「あら、まあ」
 今度はふたりしてドアを叩く。あまりのうるささに耐えかねてドアを開けると、
 「ジャンプ、ジャンプっ。週刊誌なのに、もう一ヶ月も読ませてもらってないよ。取ってある? 捨ててない? ともちゃん、いらなくなるとすぐ捨てちゃうでしょ?」
 マンガ雑誌の名前を連呼しながら紗穂もぴょんぴょん跳ねる。
 友久が顔を出したので、生存確認、と呟いて友久の母親は夕食の支度に戻る。紗穂は友久の部屋に入り込んだ。
 「ともちゃんのお部屋久しぶり。あいかわらず汚くないね」
 もっと汚かったら、お説教とかできちゃうのにね、となんだかがっかりする紗穂に友久もなんだかがっかりしたように肩を落として、
 「男の、部屋に、入んなよっ」
 そんなことは言っても無駄だと思いつつとりあえず言ってみた。紗穂は案の定、
 「なに言ってんの?」
 友久の言いたいことを察しているのかいないのか、
 「男の、子、のお部屋だもん」
 と言ってみた後、
 「ともちゃんのお部屋だもん」
 紗穂は無防備な顔をして、部屋の隅に積み上げてあるマンガ雑誌を発掘する。どこまで読んだか確認するのに一冊ずつぱらぱらめくった。
 「ほらあ、紗穂、五冊も読んでない。五週間だよ。どうしてともちゃんいつもみたいに、うちに持ってきてくれないの?」
 「五冊じゃなくて、四冊だろ。一冊は読んだじゃん」
 「読んでないよ」
 「読んだ」
 「読んでないもん。ほら、紗穂、読むから、紗穂のお部屋に持ってって」
 「自分でっ、持ってけばいーじゃんっ」
 「ええ、だって五冊だよ!? 持てないよ」
 「四冊」
 「五冊だもん。ほら、持ってって」
 まず三冊。紗穂に押し付けられて友久は雑誌を抱えた。次いでその上に二冊、積まれる。背中を押されて部屋から出される。
 「おばさーん、ともちゃん運送屋さん借りまーす」
 「はいはいどーぞ」
 夕飯までには帰ってくるのよー、と見送られてしまって、友久は誰にも対抗できずにすごすごと紗穂の後を着いていく。しばらくして隣に並んだ紗穂が、もしかしたら友久の気持ちなど知っているようにかわいく笑った。
 「ご褒美に、オレンジゼリーあげるね。あと、いいもの見せてあげる」
 ……あんまり、かわいく笑う、から。
 だめだこいつ、と友久は荷物を抱え直す振りをして空を仰いだ。
 紗穂は、気付いてない……に決まっている。
 気付いていてそんな笑顔を見せるなら鬼だ。……でも、気付いてなくてそんな笑顔見せるなんて、悪魔だ、とも思った。
 「そんで、……いいものって?」
 別に今日はゲームをするわけでもないのに、紗穂の部屋に入るとついいつもの癖でテレビ前に陣取って座り込んだ友久は、諦めたように吐息した。なるべく紗穂を直視しないように、テレビのリモコンを探したりする。
 紗穂は、
 「見て見て、高校の制服届いたの」
 すでに推薦で合格が決まっていて、じゃーん、と自分で効果音を付ながら、モスグリーンのブレザーと同じモスグリーンに赤いラインでチェック模様の入ったスカートを自分のからだに合わせて見せた。
 友久は、いつだったか同じ様なことがあったな、とぼやんと思い出す。三年前、紗穂が中学の制服を手に入れたときだ。効果音も同じだ。
 変わってないなあ、と、思ったけれど。
 「ねえ、見たい? 着替えたとこ、見てみたい?」
 友久の意見はどうであっても着替える気満々の紗穂を、友久はじっと見上げた。
 三年前のように、紗穂はそのままここで着替えるんだろうか?
 「見たい?」
 見たいよね、と押し付けるように聞かれて。
 「ねえ、見たいよって言って」
 でも別に、そんなに強制されなくっても、
 「……見たい、けど」
 「けど?」
 ……けど。
 と言ったきり口を閉ざしていたら、紗穂がどこかを指差した。それは友久の背後だったから、なにがあるのかと振り向いたら、
 「着替えるから、そのまま、そっち向いてて」
 首だけを不自然に後ろに向けていた友久は、ずりずりとからだごと、紗穂に背中を向けた。
 向けたまま、ちょっとおかしくなってこっそり笑った。
 紗穂の着替えている音に、たとえば脱いだスカートを床に落とした音や、セーターから腕を引き抜く音にどきどきするのに。正直、鼻血だって出せそうな勢いなのに。
 ちょっと振り向いてみても、きっと、紗穂は、
 『えっち』
 とか言いながら、振り向いた背中を蹴っ飛ばす振りをしてみせるくらい、のことしかしないに違いない。その後は気にせずに、さらさらと真っ直ぐな髪を揺らして着替えを続けるのに違いない。
 ……いつまで。
 いつまで、自分は小さな弟分なんだろうな、と思って笑った。
 ずっとそれでいいけれど。
 ずっとそれじゃ、報われない。
 でも、だからって。
 報われるって報われるって、報われたらって思うけど。
 それってつまり。
 好きだって言ったら、好きだよって言ってくれて。抱きしめたら抱きしめ返してくれるってこと、なんだろうか?
 そんなの、ぜんぜん。
 ぜんぜん、想像ができなくて友久は笑った。こっそり笑った。もう少し泣きたい気分になるかと思ったけれど、意外に、ちゃんと、おかしくって、笑った。
 そんなの、本当に想像ができない。
 紗穂のほうが背が高い。世の中の、知っていることなら紗穂の方が多い。
 ……抱きしめてみたいと、思うけど。ほんとはまだ、その先はどうしたらいいか友久はよくわかっていない。そんなこどもだったから、だから。
 ともちゃん、と呼ばれて振り向くと、高校生の格好をした紗穂が立っていた。
 中学生の友久には、紗穂の制服が変わったそれだけで、まるで、大人に、見えた。
 「ねえ、似合う? 似合うよね?」
 「……うん」
 正直に答えた。
 それからゼリーを一緒に食べた。すぐに夕飯の時間になったのでその日はそれで帰ったけれど、次の日からはまた、ゲームを持って紗穂の部屋に入り浸った。マンガ雑誌が発売されれば持って行った。
 しばらくはそんなふうに、今までと変わらず過ごしていた。
 
 
 
 次の春が来て、高校生になった紗穂は部活や友人との付き合いでいつも帰りが遅くなった。夏が来て秋がる頃には、友久はやっと部屋にテレビを入れてもらって、自分の部屋で好きなだけゲームができるようになった。また次の春を迎えた頃には、宿題も勉強も、紗穂に聞かなくてもできるようになった。
 紗穂に合う回数はずいぶん減った。マンガ雑誌はいつの間にか、紗穂のところに持っていかずに処分するようになった。けれど。
 「ともちゃん、ともちゃん、あーそーぼっ」
 紗穂は時折、当たり前のようにノックもせずに友久の部屋に顔を出した。
 「今日ね、うちの両親帰りが遅いって言ったら、ともちゃんのお母さんが、ご飯一緒にどうぞ、だって。お手伝いするって言ったら、ともちゃんと遊んできていいよ、だって」
 「遊ぶって……」
 小学生かよ、と突っ込む友久を無視して、
 「遊んでくれないなら、マンガ読も。あ、でも最近読んでないから、あらすじ教えてくれないとわかんない。教えて」
 テレビの前で、ゲームのコントローラーを握り締めてあぐらをかいていた友久は、どことなく、びっくりしたように紗穂を見上げてまばたきをする。どうしたの? と聞かれて、
 「……教えてもらうことばっかで、教えて、って言われたの初めての気がする」
 「そう?」
 そうだよ、と返した友久を見下ろした紗穂は、
 「わたしも、ともちゃん見下ろすの久しぶり、の気がする」
 友久の身長はびっくりするくらい伸びた。近所ですれ違うとき、友久は紗穂を見下ろす角度に、紗穂は友久を見上げる角度に、なかなか慣れない。
 笑う紗穂を見上げる友久は、同じように笑おうとして、なんだか上手く笑えずに、上手く笑えなかったのをごまかすようにゲームの画面に目を向ける。
 「ともちゃん?」
 「んー?」
 「なんか、いつもと違う?」
 「別に違わない」
 「でも」
 「なに」
 「ヘンな笑顔」
 すぐ、隣に座り込んだ紗穂をちらりと見て……ちらりと、見ただけで、
 「ラスボス倒すまで、声、かけないで。邪魔すんな」
 「ラスボス? それどんなゲーム? どんなストーリーだったの? ねえ、ねえねえっ」
 「……うるさい」
 「えー、つまんなーい」
 テレビ画面ばかりを見る友久が心の底からつまらなそうに紗穂はふくれて、それでも相手をしない友久に諦めて、マンガ雑誌を読み始める。
 「……やっぱり、よくわかんなくなってる。ねえ、ほらあの、わたしが好きだった連載、終わっちゃった?」
 「……んー」
 「終わったの? 終わってないの?」
 「終わった」
 「ええー」
 最後はどうなったの? と聞いても友久は生返事ばかりで答えない。
 「とーもーちゃーんー」
 紗穂は、ゲームのコンセントを引き抜いた。
 「なにすんだっ!  あとちょっとで……っ」
 「どーせ、ゲームに集中してたわけじゃないくせに」
 ぎくりとして友久は目をそらす。
 「ほら、あたり。なに? なに考えてるの? 教えて」
 友久が、なにを考えているのかなんて。
 「……別に」
 友久にだってわからない。
 ラスボスをどうやって倒したらいいかとか、紗穂の好きだったマンガのラストはどうだったっけ、とか。紗穂が、あいかわらず、無防備に笑って自分のそばにいること、とか。どれも同じレベルで気になっているような気もするし、そんなわけがないような気もするし。
 友久はゲームのコントローラーを放り出して、紗穂からマンガ雑誌を取り上げた。紗穂が読みかけていたマンガの前回までのあらすじや、紗穂が気にした話のラストを簡単に答える。
 「以上。ほかは? なに聞きたい?」
 なんでもどーぞ、という友久を紗穂はきょとんと見る。
 「なんだよ」
 「ともちゃんて」
 「なに」
 「教えるの上手なんだね」
 知らなかったなあ、と紗穂はなぜか嬉しそうに笑う。かわいらしい笑顔にさらりと髪がこぼれて、そんな、紗穂からさりげなく目をそらす友久に、
 「ともちゃんは? もうわたしに教えてほしいことない?」
 立ち上がって、勉強机の教科書をめくる。
 「数学とか、英語とか。まだ、教えてあげられるよ」
 「そりゃそーだろ」
 友久は中学生で、紗穂は高校生で。
 「えー、でもともちゃんの行きたい高校、わたしが行ってるところよりもぜんぜんレベル高いんだもん。来年になっちゃったら、もうぜんぜんわたし、わかんなくなっちゃう」
 つまんないー、と紗穂はつまらない表情いっぱいで椅子にかける。
 「でも、受験勉強わかんないときは聞いてみて。大丈夫。まだわかるから。ね。頑張って志望校入ろうね」
 実の姉よりも姉らしい紗穂を、
 「さ……」
 さあちゃん、といつものように呼ぼうとして、友久は言葉を飲み込んだ。紗穂を追って立ち上がろうとしたのをやめて、ゲームの本体を部屋の隅に寄せる。そうするとやることがなくなって、なんとなく、無意識に紗穂を見て、慌てて目をそらす。
 紗穂はそんな友久を観察するように、
 「ねえ、ともちゃん。わたし、そーゆー感じの人、知ってる」
 「……そーゆー感じって?」
 「あのね」
 実はね、と、紗穂は友久の前に膝を着いて友久を覗き込む。至近距離から覗かれてのけぞる友久は、
 「なんっ、だよっ」
 近寄るなよ、と背中にベッドがあってそれ以上逃げられないながらも抵抗しながら、
 「わたし、彼氏とね」
 なにか得体の知れない言葉を聞いた。
 友久は紗穂を見て、横を見て、天井を見て紗穂を見て、
 「か……?」
 なんだって? と、想像外の単語を繰り返そうとして、繰り返すのがイヤで。うっかりのけぞるのをやめようとしたら顔と顔がぶつかりそうになって咄嗟に横に避けた。
 今、なんだか、もしかしなくても、確かに。
 「か……れし?」
 が、
 「いつの間に!?」
 思わず叫んで、叫んだ自分にはっとする友久が、紗穂にはどう見えたのか。
 「いつって、一ヶ月前に。新学期始まったばっかりの頃にね。つきあわないかーって。それがちょっと、聞いてよ、あのね、両思いだったんだよ」
 のほほん、と紗穂は言う。
 両思い、というのはつまり、紗穂も、相手を想っている、ということで。
 「あ…………、そう」
 ほかに、なにをどう言えばよかったのか。意味もなくゲームのコントローラーを引き寄せて、なんでこんなもん持ってるんだ、とまた部屋の隅に寄せる。紗穂の顔は見ない。
 「ともちゃん」
 呼ばれても返事もしない。でも、
 「ともちゃん、とーもーちゃん、ともちゃんともちゃんっ」
 しつこく呼ばれて、
 「なん、だよっ!」
 ようやく答えた自分の大声にびっくりした。自分の大声で我に返った。
 ……あれ。
 どうしてここに紗穂がいるんだっけ? ……そうだ、夕食を一緒に食べるんだった。
 「……メシ」
 ぽつりと呟いて、お腹へった、と友久は立ち上がる。その腕を、掴まれた。
 「あのね、ともちゃん」
 「なに」
 なんですか、と紗穂を見下ろす。
 あれ? と思う。なぜだか妙に冷静だ。もしかしたら、思ったほどのダメージは受けなかったのかもしれない。そう。そうに決まっている。
 「ともちゃんは、好きな女の子いる?」
 ……妙に、冷静だと、思ったのは。
 「いる」
 淡々と、答えたのは。
 「だあれ?」
 と聞かれて、紗穂を見て。でも結局、答えずに。紗穂も特に相手を気にしないまま、
 「ともちゃん、キスしたことある?」
 まるで予想しなかった場所に次々と爆弾を落とす爆弾投下魔に、
 「……幼稚園のころ、とーさんとかーさんとねーちゃんに」
 「そーゆーのじゃなくて」
 じゃあどーゆーのか、と。言われなくても。
 そんなことは。身内以外では。
 「ない」
 だからなんだよ、と、平静を、装いたかったのに。紗穂のくちびるを見て顔を赤くした。黙っていればもしかしたらこれ以上被害を被ることもなかった、かも、しれないのに。
 「あはは、ともちゃん素直で正直者」
 笑った紗穂は、次には心から残念そうに、意外そうに、
 「そっか、ないのか」
 「なんで、ある、とか思ってんだよ」
 「ともちゃん、かわいいのにねえ」
 「かわいいって言うな」
 いつもならムキになって反論するけれど、今日はどこか無気力に答える。
 どうでもいいや、と思う。
 なんで、こんな話をしてるんだっけ? と頭の隅で思いながら、別の頭の隅で、なんで、オレじゃないんだよ、と、思う。
 今だってこうして、当たり前みたいに、隣にいるのに。
 自分じゃない別の誰かのことを、どうして紗穂の口からわざわざ聞かされているのか。すごく、聞きたくないのに。
 すごくすごく、聞きたくないのに。
 「わたしね、この間したんだけどね」
 …………………………なにを?
 と、聞きたくないし、聞かなくても多分そうくるに違いない、とわかっていたのでわざわざ言ってくれなくてもいい、ことを。
 紗穂も素直に正直に、
 「キスだよ」
 だからそう言ってるでしょ、ちゃんとわたしの話聞いてる? という顔をされて友久は、ほんっとに聞きたくないんだけど、と言う顔をする、のに、紗穂にはあまり通じない。
 「した、あとにね」
 聞いてよ、と覗き込まれて友久はきっちりきっかり目をそらす。紗穂は、ほら、と少し不思議そうに、
 「あのひとも、そんな顔、してたよ」
 あのひと、と言われたのが、トドメだった、みたいだった。
 あのひと。友久の知らない誰か。
 あのひと。紗穂に触れた、誰か。
 「あ……そう」
 すとん、と。
 なにかが落ちて転がって。
 泣きそうになった。
 泣きたくなった。
 「ちゃんと見て。どうして目、そらすの、かな?」
 「オレ、知らない」
 「でも、おんなじ男の子でしょ?」
 「おんなじ?」
 「うん」
 紗穂が、うん、と言ったから。
 「恥ずかしい、のかな? あ、そうか。わたしのこと好きってことなのかな?」
 わたしのこと好きってことなのかな? なんて、言ったから。
 じゃあ、その誰か、と自分と。
 なにがどう違うのかと、考えるよりも先に、反射、みたいに。
 紗穂を引き寄せた。そのまま紗穂を抱き締めた……つもりだったけれど。
 からだばかり大きくなっても他はなにも変わっていないように、小さな頃のままの、ように、抱き付いて。くちびるにくちびるを押し付けた。
 いつまでもこの関係でいると思ってた。
 そんなわけがないと、知っていたけど、思い込んでた。
 紗穂のくちびるは柔らかくて気持ちが良かった。でも、それ以上どうしたらいいのかもわからなくて、友久は酸素を求めるようにずらしたくちびるを離した。
 は……、と、紗穂も、足りなくなった空気を吸い込む音が聞こえた。
 聞こえた、だけで。見ていない。
 見ることができなくてうつむいて、まだ感触の残るくちびるを噛み締めた。
 噛み締めてる、から。謝ることも告白することもできない。
 「ほら、ね」
 紗穂の声にはっと顔を上げて、目が合うと慌ててよそを見る。紗穂はかまわずに友久の目線に回りこんだ。
 「ほら、わたしじゃないトコ見る。どうして?」
 「……だ、って」
 紗穂は真っ直ぐに見てくる。
 「だ、ってっ」
 「ともちゃん、わたしが、好き?」
 それとも、
 「好きじゃないのにしたから、やましいの?」
 だったら、
 「あのひとも、そうなの、かなあ?」
 「……好き、だよっ」
 友久が、紗穂を。
 「好きだよ!」
 でも。
 「うん……」
 紗穂が笑ったのは、あのひと、とやらが紗穂を好きだということを、確認しただけにすぎなかった、みたい、だった。
 目の前にいるのは友久なのに。友久が、好きだ、と言ったのに。
 かわいく、かわいく笑う紗穂は、いったい誰を、思い浮かべているんだろう。
 誰を、なんて、わかってる、けれど。
 だからそんなにかわいく笑うんだろうけれど。
 ご飯できたわよと、母親に呼ばれて返事をする友久に、
 「ねえ、続きは?」
 かわいいと思っていたばかりの紗穂の笑顔が、少しだけ、歪んで見えたのは、
 「続き……?」
 友久の気持ちも、少し、歪んでいたから。
 真っ直ぐに真っ直ぐに想っていたけれど。そういう気持ちが大事なんだと思っていたけれど。
 「キスの続きは? どうするの? 男の子はどうしたい、のかなあ? 教えて」
 
 
 
 
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