〜 月、ゆらり 9 〜





「あ」
 そうだった、とふと思い出して、由羽は慌てて携帯を取り出して、
『ごめん、今、思い出した。さっきのナシ』
 靖宏の携帯番号にメールして、送信終了の文字を見ると吐息した。
 いつものファミレスの駐車場で、車の中で、折りたたみの携帯電話を閉じたり開いたりする。
 靖宏からは、メールが来たことも、電話かかってきたこともなかった。だから着信履歴に靖宏の番号はない。
 メールの送信履歴を見ると、友人たちの名前が出てくる。その中にぽつり、ぽつりと、名前ではなく、電話番号がそのまま表示されていて、そういえば、これが靖宏の携帯番号だったな、と思ったりする。靖宏の携帯番号を、短縮に入れる、ということはしなかった。そんなこと思い付きもしなかった。だから毎回、靖宏にメールをするときには番号を、その都度、自分で入れた。言え、と言われても言えない十一桁の番号は、指が、勝手に覚えていた。
 しばらくの間、ファミレスを出入りする家族連れなどを見ていた。携帯は鳴らない。
 別に返事を待っていたわけじゃ、ない。
 別に返事が、来ると思っていたわけじゃ、ない。
 ただ、返事が、こないな、と思う。
「……残業あるって、言ってた」
 そう、そんなことを言っていた。
 昨日、そういえば、こんな付き合いももう半年になる、なんて話をした。ずいぶん由羽の髪が伸びた、なんて話をした。
 そのついでのように言っていた。今日と明日は残業だから、と。
 だから会えない、と。
 そんなことを、メールしてしまってから思い出した。ここまで来てしまってから思い出した。
『今日も、来て』
 短く送ったメールを取り消して、由羽はもう癖のように下腹を撫でた。
 お腹が……痛くて。
 だから、靖宏を呼ぶのに。
 靖宏は来ないから。
 ……こんなとき。
 いつも、どうしてたっけ?
 ……お腹が痛くて、うまく頭が回らない。まだ、生理はきていないのに、きたときよりひどい貧血になってるみたいに頭の奥がぼうっとする。時折りお腹はきつく痛んで、奥歯を、噛み締めたあとに、ふっと緩んだ痛みにそのまま被せるように眠気が襲ってくる。
 由羽はそのまま目を閉じた。
 少し開けてある車の窓からは、まだ冷たいような、もう温かいような風が吹き込んでくる。このあたりではもう遅咲きの桜も咲ききって、花冷えすることもなくなった。
 車の、中で。寝かかったときに携帯が鳴って飛び起きた。メールの着信音に慌てて携帯を開いた。
 ……誰だと、思ったのか。
 期待していた誰か、からだろうかと思ったのか、ただ純粋に、誰だかわからなくて誰だろう、と思ったのか。
 メールを見た由羽は、車のエンジンをかけるとファミレスの駐車場を出た。



 頭の奥はなんだかぼうっとしたまま、由羽はこんな日はいつも、いつもより少し慎重に運転をする。……慎重に、しているつもりだった。でも、頭の中では昨夜の靖宏との会話を思い出していた。
『そういや小倉さあ』
 くしゃくしゃにしたシーツの上で、靖宏はずいぶん伸びた由羽の髪をくるくると指先でもてあそんで、なにを思ったのかその親指で、由羽の眉をなぞった。
『なに、してるの?』
『おまえ、いっつも潔く化粧落すよな、と思って』
 眉を描く茶色で靖宏の親指は汚れない。
 由羽の眉も目元も頬も唇も。
 部屋に入って、すぐに入った風呂できれいに落ちている。
 きれいに落として、素肌で靖宏にしがみつく。
 すでに気の済むまで肌を合わせて、それで眠そうにしていた由羽は、少し、目が覚めたように靖宏を見た。
『だめ? 化粧落すとぶす? 実は抱くの苦痛?』
『……いや』
『そんなことない? わりと大丈夫?』
『まあ……』
 じゃあ、よかった、と由羽は安心したようにシーツに頬を撫で付けた。そのまま気持ち良さそうに目を閉じて、寝てしまうのかと、思ったけれど。
 目を、閉じたまま。シーツの感触を頬に感じるまま。
『辻君の彼女は、すっぴんでも美人さん?』
 靖宏が、誰かと比べたように由羽に言ったから。由羽もその誰かの事を聞いてみた。
 靖宏は、ごそ、と動いただけで返事をしない。
 由羽は、そのまま、静かで。眠ったのかと靖宏が確かめようと覗き込んだら、ぱちりと目を開けた。
『そういえば。落とさない、かも』
『は?』
『化粧……お泊りじゃないんだから、落さない、よね? 髪とかもあんまり濡らさないようにする……気がする。え、あれ? 辻君の彼女は? どうしてる?』
『……じゃなくて』
 靖宏の、彼女の話ではなくて。
『小倉、面倒だって言ってただろ』
 なんのこと? と由羽は小首を傾げる。
『親に追求されんの、面倒なんじゃねーの?』
 初めて由羽が靖宏を誘った日、由羽は泣いていた。泣いた理由を親に追及されるのが面倒だと言っていた。一緒に暮らしていれば干渉される。それが面倒だと、言っていた。
『泣く理由聞かれるくらいなんだから、風呂入って帰る理由も聞かれてんじゃないの、と思って』
 ふと、そんなことを思っただけ、という顔をする。
 気にしたら、気になってしょうがなかっただけ、という顔をする。
 由羽は、なあんだ、とまた目を閉じた。
 なあんだ、そんなこと、か。
『そんなの、わりといつものことだから、親も気にしてない、よ。どうせ帰ったら寝るだけだし』
『……いつも?』
『うん』
 由羽は何気なく返事をする。なんでもないことのように、なんでもない返事をする。
『あ、そ』
 息を、吐き出すように言った靖宏は、なにかに、安心をしたのか。それとも。なにかを気にかけたのか。
『おまえ、男、できた?』
 ……え? と由羽が問い返すより先に、
『ちゃんと、彼氏ができたんじゃねーの? だから……』
 それくらいの理由しか靖宏には思い付かない。由羽が靖宏と会うのは、月に三日か四日、だった。由羽の体調やお互いの都合で、二日だったりすることもある。それを「いつも」というだろうか。
 由羽は、ゆっくり目を開けた。靖宏が目をそらしたような気がして、追いかけた。
『……だから?』
 でも、別に、靖宏は目をそらしたわけでも、なんでもなくて。
 でも、由羽には靖宏がそんなふうに見えた理由は。
『だから、もうやめるの?』
 ついさっきまで眠たそうにしていた声で、詰め寄った。
『もう、いや? わたしのこと、いやになったの!?』
 低い声。かと思うと高い声をあげる。イラ、と何かがこみ上げてくる。そこまでは由羽にもわかる。でもあとはわからない。いつだって、その最中には気付かない。自分でもよくわかっているようなわかっていないようなことを叫ぶ。
『はっきり言ってよ』
『はっきりって、おまえ……』
『なに、いやならいやって言えばいいのに! なに勝手なこと言ってるの? 勝手に……、勝手なこと、言わないで。わたし、そんなことひとことも言ってないよね!?』
 靖宏はヒステリックに苛つく由羽を、見る。
『……小倉』
 ひとしきり喚いて、呼吸する由羽を呼ぶ。ただ呼んでみた、というふうに呼ぶ。落ち着かせようとしたわけじゃない。
 呼びたかったから、今、呼んだ。
 そんなふうに由羽を呼んだ。
 由羽は靖宏をきつく睨む。そんな眼差しに、靖宏は笑った。呆れたわけじゃない。
『もう、終わりか?』
 ならいいけど、と、あらわになっていた由羽の下腹に触った。
 由羽はさまよわせた視線を靖宏に戻した。
 その眼差しをふと落として、後悔、して靖宏の手を掴んだ。
『……ごめ……なさっ』
 由羽にも、よくわからない。
 急に感情が尖る理由がわからないから、我に返って後悔する。持て余している感情をさらに持て余す。
 由羽は何度も謝って。黙って由羽の言葉を聞く靖宏の、掴んでいた手を撫でた。親指でなぞるように、爪の先から、節から、手の甲へと撫でて。子供がお気に入りの人形やタオルやおもちゃを抱き締めるように抱き締めて、それで落ち着いて、細く息を吐き出した。
『辻君は、彼女とうまくいってる、よね?』
 また、手の甲を撫でながら、
『……なんだよ急に』
『いってるよね?』
 靖宏は、由羽が触る自分の手を見る。少し、痛そうなくらい爪を短くした由羽の指を、細いな、と思いながら、
『うまくいってる、よね』
『まあ……』
 乱れたベッドの上で、向かい合って、そんな会話をする。ここにはいない、ほんとうの恋人の話をする。
 ……ほんとうの……。
 偽物の。
『でも、わたし、捨てないで』
『……捨てるって、おまえ……』
『辻君としてるの、気持ちいい。やだ……いやだ。このままがいい』
 由羽は靖宏の手を離すと、だっこして、と子供のように手を広げた。
 由羽がだっこをせがむのは、
『つか、おまえ、彼氏……』
『いないっ。いな、いよ? だから……このままでいい? いいよね? ダメ……なんて言わないで。いや。やだ』
 泣いてそんなおねがいするのはずるいことだとわかっていた。そんなことくらいは、ちゃんと、わかっていた。
 泣いてそんなおねがいするのはずるいだろう、と思っていた。でも、それでも。
 いやだ、と駄々をこねる子供を、靖宏は抱き上げる。
 子供に、するようになんとなく軽々と抱き上げようとして、でも子供とは違って。軽々とは抱き上げられなくて、抱き締めた。抱き締めた背中を、子供をあやすように撫でた。
 由羽は安心して抱き付く。
 そんなふたりが、おかしいみたいに靖宏は笑う。そうするのがおもしろいみたいに、よしよし、と由羽をあやす。
『わたし、このままがいい……』
 うん、とか、そうだなあ、とか。
 抱きついて、それで、肌を通して伝わってくるような靖宏の声が気持ちよくて、由羽はもっと、抱き締めた靖宏のからだに擦り寄った。
 あのね、と由羽が言うと、なんだよ、と靖宏は由羽の背中の方で返事をする。
『あのね』
 由羽はゆっくり、ゆっくり、喋る。
 今はどうでもいいことを、仕方ないから思い出すように、喋る。
『わたし、会社帰りにね、よくイトちゃんの家に寄る、の。喋ってるうちに遅くなって、でももっと喋ってたくて、それで一緒にお風呂入ったりする、から。そういう……そんなの、しょっちゅうだから。もう何年もずっと、の、ことだから。だから、お風呂入って帰るのは、今さら、なんにも言われない、んだよ。わたし、イトちゃんといたと、思われてるだけなんだよ』
『イトちゃん?』
『中学のとき、委員長だった』
『伊藤?』
『うん』
『……仲良し、なのか』
『うん』
『そ、っか』
『うん』
『……ふうん』
 靖宏はいまいち理解ができない、という返事をする。由羽には、靖宏がなにを理解できないのか理解できない。
『なあに? なんか、おかしい?』
『……いや、トモダチと風呂、一緒に入ったりするのか、と思っただけ』
『辻君は、入らない?』
『……いや、あんま、どーかな、別に、入りたくないっつーか……』
『そう? 背中、流しあっことかしないの?』
『しなだろ』
 言い切られて、そうなの? と由羽は半ば本気で唇を尖らせた。
『オトコのコってつまんない』
『オンナのコは神秘だなあ』
 靖宏は笑いながら、
『んで、その風呂ん中で、俺はろくでもない男になってたりするんだ、伊藤には』
 どこか他人事のようにおもしろそうにしながら、そういう話もするんだろ、と聞く。由羽は曖昧な返事をした。曖昧なのをごまかすように、あやふやに、笑った……つもりだった。


     ◇


 普段は元気よく登ることのできる階段を、由羽は今日はゆっくり、足元を確かめるように登った。二階に、上がるだけなのに、それだけで息切れしそうな気分でたどり着いたアパートの部屋の、ぴんぽんを押す前にドアが開いた。
「……こんばんはー」
 と言った声にも足取りにも覇気がない由羽に、部屋の主は呆れた顔をした。呆れた顔のまま、無意識に下腹を撫でている由羽を見て、
「お腹減ってる?」
「痛いっ、の」
 痛い、と言う由羽に、由羽の記憶では出会ってからずっと、義務教育の間中クラスの委員長をしていた彼女は、
「なんだ、治ったわけじゃないんだね」
 安心をしたわけじゃないけれど安心をしたように、ほんの少し、呆れたばかりだった表情を改めた。
「まあとにかく、お入んなさい」
 由羽は慣れたように、それでも一応、おじゃまします、と言って上がり込む。ストッキングを脱いで、浴室で足を洗って手を洗って、差し出してくれたタオルで拭くと、そのまま人様のベッドに倒れ込む。
 由羽は枕と布団を抱え込んで丸くなりながら、伊藤たか子のことを、気の抜けた声で、
「……イトちゃん」
 と呼ぶ。
 たか子はアパートの、ひとり暮らし用の小さな台所に立つ。由羽はからだが重そうに起き上がると、フライパンを火に掛けるたか子の傍に並んで立った。
 ついさっき携帯に入ったメールはたか子からで、
『ご飯食べにおいで』
 とあったので、たか子はその食事の支度を始める。
 傍の由羽は、次第にたか子にもたれかかって、
「こら。火、使ってんのに、危ないよ」
「……ごめんなさい」
「一歩、離れて」
 言われて、由羽は一歩、たか子から離れる。一歩、離れても。それでもすぐ傍で。
「……イトちゃん、うちのおかーさんから電話、入った?」
「おばさんからの電話に由羽が出ないから、おばさん、心配して私にかけてくるんでしょ」
「……電話」
 たか子がざくざくと切るキャベツから目が離すのが惜しいように由羽はためらって、でもけっきょくベッドまで戻って、放りだしていたカバンから携帯を取り出した。着信履歴には、自宅からの電話が何度も入っていた。
「……あれ」
 気が、付かなかった。と由羽は呟く。
 履歴なら、ついさっきも見たところなのに。
 そんな由羽に、たか子は、今さらでしょう、という顔をする。
 この時期になると由羽の携帯は繋がりにくくなる。携帯が、鳴っているのが分かっていても故意に無視することがある。鳴っていることにすら、気付かないことがある。
「メールは、気にしてるんだけど……な」
「メールは、言葉を選んで返事ができるからね」
「……うん」
 メールならいい。でも電話は、イライラしているとき、そのままが言葉になるから。なにを言うかわからないから。……なにを言っているかも、わかっていないときがある、から。
 仕事の最中なら、仕事だからと割り切って対応できるけれど、身内にはそれがなかなかできない。だから、意図的に知らない振りをしている……のかもしれない。よく、わからないけれど、結果的にはいつもそういうことになっている。
 こんな、自分は、
「大丈夫……かなあ?」
 由羽はひとりごとのように言う。
「大丈夫なんでしょ」
 由羽のひとりごとに、たか子は必ず返事をした。
 台所に立つたか子を由羽は見上げた。
 ひとりごとのようなひとりごとを、ひとりごとだと思って返事をしないことが多いひとがいる。
 靖宏を、ふと思い出す。
 由羽は携帯をカバンの中に押し込むと、また、たか子の隣に立った。
 由羽はたか子にぴたりと引っ付いて、たか子が料理をするのを見る。あんまり引っ付かないの、と言うたか子はそんな由羽には慣れていて、危なげなく料理を続ける。
 由羽はなんとなく、たか子の目線を見上げた。
 由羽よりも高い目線を、それでも、誰かよりは低いな、と思う。
 ……誰か。
 って誰だろう。
 下腹を、撫でると、たか子が気にした。
「痛い?」
「ううん。お腹減った」
「もう痛くないの?」
「痛い、けど。お腹減った」
「じゃあ、テーブル拭いて、お箸と茶碗出して」
「えー、お腹痛い、からヤダ」
「ヤダでもさっさとやる」
 たか子はてきぱきとさい箸で食器棚を指す。
 由羽は、はあい、と母親に叱られた子供のようにふてくされた返事をしながら台拭きを洗う。本当に嫌がっているわけじゃないその顔は少し、笑っていた。お腹は痛いままだ。でもきちんと笑っている。由羽はたか子の前だといつでもよく笑った。たか子は裸足のつま先で由羽を蹴飛ばした。
「なに、笑ってんのっ」
「だって、おかしーんだもん」
「なにが?」
「イトちゃんの存在が」
「……あんた、さらっと失礼なこと言うよね」
「違うよ、失礼なのはイトちゃんだよ」
「なんで? 私のどこが? どう失礼?」
「蹴飛ばすし、人使い荒いし。お客さんにお箸、用意させるし」
「だれがお客さんか」
「わたしわたし」
「どこが客なの」
「ご飯食べにおいでって言ったのイトちゃんでしょー?」
「言ってませんー。メールですー」
「すぐっ、そーゆーへ理屈言う」
「なんでもいいから、ほら、お皿出してっ」
 たか子はもう一度由羽を蹴飛ばした。つま先で由羽を食器棚まで押しやる。狭い台所で、横暴っ、と由羽はさらに言い返しながら、それでも笑う。
 笑う由羽を、たか子が、
「由羽」
 と呼んだ。
「はあい」
 由羽は食器棚から箸と茶碗を出しながら、
「……はあい」
 茶碗を抱えて、しぶしぶ、ほんとうはそうしたくないように、たか子に見向いた。笑っていた顔は、少し、拗ねた顔で。合った目を、伏せた。
「由羽」
 また呼ばれて、目線を上げる。ふと、なぜか、上げ過ぎてしまった目線を、慌ててたか子の目線まで落とした。慌てた由羽に驚いたのは、たか子ではなく、由羽だった。自分で自分に驚いて、慌てて、落しそうになった茶碗を抱え直した。
 今、由羽は、誰と話しをしているつもりだったのか。
 たか子と、話しをしている、つもりだった。
 でも目線は誰を見た?
「由羽?」
 たか子の声は、誰か、の声じゃない。
 誰かの声は由羽を「由羽」とは呼ばない。
 だから、今、ここにいるのは、誰か、ではなくて。たか子で。
「由羽、ぼうっとしてる」
「……いつもの、ことでしょ」
「そうだけど。最近、私、そういう由羽をあんまり見てないから、珍しいなと、思って」
「……そ、かな?」
「そー、でしょ」
 生理前になると、由羽は自分から逃げるように、たか子の家に来た。ご飯を食べて、好きなだけ喋って、喋って、喋って、風呂に入った。
 そんな由羽は最近、
「最近、『そういう由羽』は、あんまり来ないよ」
 たか子の家には変わらずに遊びに来るけれど、その時期の、そういう由羽は、最近来ない。
「由羽、今日は来たけど、この頃は、メールの返事もない」
 返事がないことを、怒っているわけじゃない。でも。
「今日も、来ないかと思った」
 怒っているわけじゃ、ない。
 茶碗を抱えたままの由羽に、
「でも、それでも、おばさんから電話があれば、由羽はうちにいますよ、ってことになる、んけどね」
 いつでも、由羽は気軽にたか子を尋ねたし、いつでもたか子は気軽に由羽を呼びつけた。いつでもたか子の作ったご飯を食べて、いつでも、夜遅くまで下らない話をする。
「昨日も、その前の日も」
「……おかーさんから、電話、あった?」
「あった。けど、あんたに電話は繋がらない。メールの返事もない」
「……ず、っと?」
 昨日も、その前の日も。先月も、先々月も。
「そう、ずっと」
 この半年間、ずっと。月に何度か、由羽の体調がおかしいはずのときに限って、たか子は由羽と連絡が取れない。それ以外の日はいつも通りだけれど。
 由羽はこっそりたか子を見上げる。
 怒ってる? と聞きたかったけれど。怒っているわけじゃないことはわかっていた。
「ごめ……ん。わたし……あの、ね」
 心配を、かけてごめんなさい、と由羽は謝る。たか子はそれで気が済んで、まあいいけどね、と呟いた。
「ついでに、言う気になった?」
 体調の悪いはずの由羽が、どこで、なにをしているのか。
「いつ聞いても、いつも由羽はごまかそうとするから、喋りたくないんだと思ってごまかされてきてあげたけど。今日もごまかすの?」
 たか子はなにも聞いていない。
 由羽がいつも、いつも、ごまかそうとすることを。由羽はいつもいつもごまかしたままで。
 由羽は、
「あの……」
 と呟いたきり、茶碗を抱えてたか子を見上げた。
 由羽はたか子になにも言っていない。
 このままがいいと、言ったら、うん、とか、そうだなあ、とか言いながら背中を撫でてなだめてくれるひとのことを。
 由羽は今日もごまかす。茶碗を抱える。落としたら割れてしまうから、しっかり抱える。ここは、落としても割れない夢の中じゃない。
 由羽と靖宏がふたりで逢っているふたりだけの時間じゃ、ない。


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