〜 月、ゆらり 8 〜
待ち合わせる場所は、もうすっかり、ファミレスの駐車場に決まっていた。
遅れてきた靖宏を、由羽はイライラしてよく怒鳴った。
「遅いっ、信じ、らんないっ!」
「……なにが信じられないって?」
「なんか、よくわかんないけどっ」
ただ、下腹が痛いだけだ。靖宏は慣れたように、
「わかったわかった、悪かった」
まるで気まぐれな猫をあやすように頭を撫でた。靖宏は適当にそうしているだけだった。心の底から由羽をなだめよう、という気があるわけじゃない。こうすればそのうちに落ち着くだろう、ということがわかっていたからそうしているだけだ。
由羽は、悪かった、と言った靖宏を見上げて、すぐに後悔した目で、抱き付いた。
……ふと、気が付く。
どうして靖宏が謝っているのか。
呼びつけているのは、いつも、由羽だ。靖宏は呼んだから来てくれているだけだ。
「……ごめ、なさい」
すとん、と、高い場所から落ちた気分の音を靖宏は聞く。
由羽は靖宏に謝らせた自分に後悔する。
そんなふうに、躁と鬱を繰り返す。
靖宏はそんな由羽しか知らなかった。
だから、由羽は、そういう人間なんだと、思っていた。
「ごめん、なさい。謝るから、帰らないで」
由羽がひどく落ち込んで声を落したら、
「別に、帰んないけど」
「嘘……」
「嘘じゃないし」
「ほんと?」
「ホント、ホント」
子どもをあやすように頭を撫でればいい。
部屋に入ってベットに上がり、素肌を抱き始めれば、由羽の言動はわりと正気に戻る、ように思えた。……本当に正気なら、こんなところで靖宏に抱かれているわけは、ないのだけれど。
「ねえ、わたし、面倒でしょ?」
「まあなあ。でも、面倒は面倒なりに、わかりやすい、けどな」
「……そう?」
「わりと。小倉攻略本、書けそうな勢い」
「ほんとに?」
「ホント」
「書いたら見せて」
「書いたらな」
どうでもいいことを喋るのは、最近、シャワーの音を聞きながらすることが多かった。
ぬるめの湯に、ぬるめの湯を、シャワーから直接バスタブに注いだ。ばたばたと跳ねる雫で頭から濡れながら。
ふと、なにかに気付いた由羽がバスタブから出て行く。
なにをするのかと靖宏が眺める先で、由羽は、きちんと閉まっていなかったバスルームのドアを、ぱたん、と、きちんと、閉めた。そうして靖宏に振り返る。
靖宏はバスタブの中から、
「気ぃ、済んだか?」
「うん……済んだ」
「そりゃ、よかった」
きちん、とドアを閉めたバスルームは、ホテルの部屋よりもさらに狭い密室になる。
由羽はなんとなく、安心する。
由羽が、なんとなく安心するのを、靖宏はなんとなく、理解しようとする。
響いているのは出しっぱなしのシャワーの音だけで、ここにいるのはふたりだけ、で。
だから、まるで、ふたりだけの世界のようで。
「靖宏」
「んー?」
出しっぱなしのシャワーの音は、どんな音?
靖宏、とすっかり慣れたように呼ぶ由羽の声はどんな声? どんな顔?
どこか、瞳が眠そうなのは、本当は、眠っているから、なのかもしれなかった。
眠っていて、これは夢で、夢だから、欲求不満のからだを適当な誰かに抱いてもらう。
由羽は、そんな夢を見ているのかもしれなかった。
もしかしたら靖宏も、これは夢で、ただの、欲求不満が見せる夢を、見ているのかもしれなかった。
だから……。
「靖宏」
聞きなれたはずの声は、どこかぼやけて聞こえた。単に、さわさわとしたシャワーの音がそうさせただけ、だけれど。
由羽はバスタブの、靖宏の隣に滑り込んで、靖宏の首に抱き付いた。
靖宏の濡れた髪をかき上げる。かき上げた場所に唇を押し付ける。靖宏は仰向いて由羽の唇を追った。追われて、重なる。
「っ……ん」
絡め取られるように舌を吸われた。
恋人じゃなくても、こんなキスが、できる。簡単、だった。
靖宏は唇を他の場所に移そうとする。
「……い、や……っぁ」
由羽はもっとキスを欲しがる。一度、身を退いた靖宏を泣きそうな顔で見る。
泣く、わけじゃない。
欲しいだけだ。
「小倉、キス、好きだなあ」
わざとからかうように言ったのは、
「……好きじゃ、ダメ?」
すぐ傍で、由羽は靖宏の唇を舐める。
「……ダメ?」
だめ、かと聞かれれば、
「そうでも、ないけど……」
由羽は安心したように唇を押し付けた。靖宏の肩に手を置いて、傾けた唇をより深く重ねた。
由羽はキスに夢中になる。
靖宏は、由羽ほど夢中にはならない。視界の端に見える由羽の胸元が気になっていた。靖宏は、唇よりそこを味わいたい。せめて手で触ると、由羽は一瞬、からだを強張らせた。
「んんっ……っ」
……一瞬。
その後には、素直に靖宏に身を任せる。
靖宏は好きなように由羽を抱いた。気が済むまで舌先と指先で胸元を弄ぶ。そのうちに我慢できなくなった由羽が勝手に足を開く。
靖宏は由羽の背中に回ると、由羽の手を取った。
「立って」
壁に手を付かせ、由羽の腰を引き寄せる。
「……や……ムリ……っ」
由羽は、からだに力が入らない。
「ムリじゃないだろ、腰、上げて」
以前、バスタブに浸かったままするのを嫌がったのは由羽だ。熱さに目が回って、わけがわからなくなる。
「ぁ、ふ…………」
由羽はゆるゆると、腰を、上げた。
壁に付いた手が滑るのを靖宏が支える。支えたそこに、靖宏は自分を押し当てる。
ぬるりとした感触が熱いのは、お湯のせいばかりではなくて。
「っあ、ぁあ……っ、んっ、やぁっ……」
靖宏が由羽の背中に唇を落とした、その感触に気を取られた隙に、さらに、腰を引かれた。
「ぁ……っ! んんっ!」
もう何度も迎え入れた靖宏を、
「……っああ……」
背後から、じわりと受け入れる。
「ん、ふあ、や……やだ、やす、ひろっ」
「……なん、だよ」
辛そうに首を振る由羽を見て、靖宏は抱える由羽の腰を揺らした。
「やっ……! や、だ。ばかぁ……っ」
まだ繋がりきっていないそこが由羽にはもどかしい。
「も、っと……っ」
もっと、ちゃんとちょうだい。
「もっと、欲しい?」
「ん……欲しっ……」
由羽に、靖宏は声で答えずに、繋がり始めたそこの具合を確かめるように何度か揺らすと、自分の腰を進めた。ずくずくと入り込む音が聞こえた気がして由羽は悲鳴を上げた。
「……ぅ……ん」
靖宏が由羽から離れると、由羽は崩れるようにバスタブに浸かりこんだ。意識はあるけれどどうにも力が入らない。放っておくと頭の天辺まで沈んでしまうので靖宏が抱きとめた。
「おまえ、気持ちいーぐらい感じまくってるなあ」
「だ、って……」
由羽はおっくうそうにそれだけ答える。だって、なんだよ、と突っ込む気力は靖宏にもない。
靖宏だって同じでしょ、と聞かれれば、はいそうですね、と答えるしかない。
靖宏はシャワーの温度を下げる。ほぼ水になった飛沫が気持ちがいい。
由羽も気持ち良さそうに顔を上げる。目は、閉じたままだった。ぼんやりと手探りで靖宏にしがみつく。靖宏の肌に頬を寄せる。赤ん坊が、無条件に信頼する母親の腕の中で眠る姿を、靖宏はなんとなく思い浮かべた。
行為が終わった後、いつでも、由羽はなかなか靖宏から離れようとしない。
靖宏に抱きついたまま、靖宏を抱き締める。
靖宏もそれを特に疎ましくは思わない、けれど。
「おまえ、早く彼氏作ったら?」
一応、言ってみる。
「セックスより人肌が好きなだけだろ」
由羽は気だるそうに、目を閉じたまま、
「そ……かなあ?」
「そーだろ」
「ん……、そ、かも。安心、する。でも」
「なんだよ」
「セックスも好き」
一方的に由羽に抱き付かれている靖宏は、思わず、由羽を抱き締めるのをやめて、ばんざい、をした。ふと目を開けた由羽に、なにしてるの? と聞かれて、
「や、驚いただけ」
「なんで?」
なんで? と言われても……。
はっきり言った由羽よりも、なぜか、靖宏が顔を赤くした。
浸かったままの湯は、ぬるいけれど。
靖宏の赤い顔を見て、
「湯あたり?」
「……違うっ」
由羽を自分から引き剥がすと、靖宏は湯船から上がった。直接シャワーを頭から浴びる。慌てて温度を上げた。部屋から一歩出れば真冬だ。水は、冷たい。
「あ」
声を上げた由羽は、すっかり目が覚めた顔をしていた。目が、覚めているだけで、表情はいつもの通り、どこかあやふやだけれど。
「どーした」
「……忘れ、てた」
「なにを?」
靖宏が聞くと、由羽は、怒らない? と上目遣いで靖宏を見る。表情がないとは言え、その仕草は、かわいい、といえばかわいい。ムカツク、といえばむかつく。
普段から由羽がこういうふうなのかどうか、靖宏にはわからない。ただ、中学時代を思い出すと、そんな由羽は靖宏の記憶のどこにもいない。……そもそも、そんなにはっきりとした由羽の記憶があるわけでも、ないのだけれど。
「辻君、彼女にもらったでしょ?」
由羽は当然のように、そう聞いた。
靖宏は、意外なことを聞いた顔を、した。……意外、だった。だから、心の底から、
「……なにを?」
「バレンタイン、のチョコレート、とか、ケーキ、とか」
「……ああ」
靖宏はやっと思い当たった顔をした。それから今日の日付を考える。由羽と靖宏がこうして会うのはいつも月末で、バレンタインは、二週間も前に終わっていた。
「辻君に、チョコ買うの忘れてた」
「……ふうん」
「怒った?」
「なんで」
「お世話になってるのに、忘れたから。会社のおじさんたちにはちゃんとあげたんだけどな」
「……お世話?」
「うん、なってるでしょ? すごく、お世話になってる、でしょ? そういうひとには、ちゃんと、あげなきゃ」
なのに、どうして靖宏の分を忘れていたのか。
……由羽にはわからない。
「本当は、先月会ったときに、ちょっと早いけど、ってあげるつもりだった……ような気もする。あれ、彼女に悪いからやっぱりやめよう、と思った、のかな?」
どうだったかな? と聞かれても靖宏も困る。
チョコを持ってくるのを忘れた、というならともかく、そもそも買うことを忘れている。会社のオジサンたちの分とやらを買うときに、もう、忘れていた、ということは。
「小倉、正気のときは俺のこと覚えてないんだろ?」
ここにいるのは、正気でないはずの、由羽だ。
そんなこと、靖宏はわかっている、つもりだった。
そんなこと、由羽は、わかっているつもり、だった。
「……んー」
由羽は曖昧な返事をする。そのまま、靖宏から目を逸らした。ぬるいお湯に、肩まで入った。
「辻君だって、覚えてない、よね?」
靖宏は、目を逸らした由羽をちらりと見ただけで、
「覚えてなくていいよって、わたし、言った、よね」
靖宏は、なにも答えない。
靖宏が答えなかったのは、由羽が目を逸らしたから、声も、逸れてしまって聞こえなかったせいか。それとも、出しっぱなしのシャワーの音の、せいで、由羽の声が聞こえなかったのか。
それとも。
靖宏はなにか、言ったのかもしれない。
靖宏の言葉が由羽に聞こえなかったのは、由羽が目を逸らしてしまったせいだったのか、それとも、シャワーの音が邪魔をした、せい、だったのか。
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