〜 月、ゆらり 7 〜





 シーツを抱き締めて、無意識に、下腹を庇うようにからだを丸めて眠っていた。
 ピピ、と小さな電子音がして目を覚ました。
「……っ」
 下腹が痛くて、痛みをごまかすように上半身を起こした。
 広いベットと、薄暗い照明。
 ホテルの部屋の、その中に、由羽は、ぽつん、とひとりで。
 お腹が、痛くて……。
 由羽は枕を投げ付けた。壁に当る前に、ぼすん、と床に落ちる。
 枕につまっているのは羽毛……綿、かもしれない。大きな枕に、ぱんぱんにつめて百として、どうだろう、よれよれと、三十くらしか、つまっていない感じ。投げても、軽くて、空気の抵抗を受けて、ぺたりと床に落ちる。
 ぺたり、と由羽も横になった。
「……ねえ」
 天井に向って言っても、返事はない。
 靖宏は?
 ……帰った。
 帰って、と自分で言ったのを覚えている。
 彼女に、電話をかけ直して、帰って、と。
 ちゃんと言葉にできたのかどうかあやふやだったけれど、なんだ、ちゃんと、伝わっていた。
 それでいい。
 そう思う。
 同時に、
 なんで、ほんとに帰っちゃうかな、と、思う。
 なんで……。
 こんなところに、ひとり、なのか。
 ひとり、で。
 靖宏を、酷いと、思う。
 イラ、と尖った感情が込み上げてくる。のど元に刺さって、痛くて、泣きたくなる。
 枕をもうひとつ、投げようかと思ったとき、物音に気付いた。
 バスルームから、音がする。
 由羽はふと、ベットの周りを見下ろした。脱ぎ散らかしたままの服は、由羽の制服と、靖宏の、服。
「……え?」
 そういえば、由羽を起こしたあの音は、なんの音だった?
 枕元を見ると、デジタルの大きな腕時計が置いてあった。なんとなく置いてある、わけではなくて。きちんとそこに、置いていてある。
 由羽はベットを飛び降りてバスルームのドアを開けた。
 靖宏はバスタブに腰を掛けていて、その姿勢のまま頭からシャワーを浴びていた。ゆっくり由羽に見向いて、シャワーを止めた。
「お、起きた?」
 のんきに言う、から。
 尖ったままだった感情がそのまま、
「な、んで、いるの?」
「なんでって?」
「だって……だって、帰るでしょ!? 帰れって、わたし、言ったよね? 言ってない?」
 由羽の声は高くなる。
 やっぱり、言ったような気がしただけで言ってなかったのか。
 靖宏の声はのんきなままだ。
「言ったけど?」
「だったらなんで? ばかじゃないの!?」
「おまえの匂い付けてくわけにもいかないしなぁ」
「シャワー、浴びていけばっ」
「会社帰りにセッケンの匂いもおかしーだろ」
 座ったまま、靖宏は由羽を見上げる。由羽をなだめるようにした表情を、由羽をあらためて見て少し、変にした。驚いた顔、だった。
「そんで……? なんで小倉は泣いてんの」
 ヒステリックに喚いて、それで感情が昂ったから、ではないような涙に靖宏には見えた。抱いている最中に流した涙とも違う。
 由羽も、自分が泣いていることに気が付いている。指摘されて、涙を拭いた。
「だ、ってっ」
「なんだよ」
「だって、起きたら辻君、いないからっ」
「……いるじゃん」
「いないと、思った」
「そんで泣くんだ?」
 いなければいないで泣くし、いたらいたで、どうして帰っていないのかと怒るし。
「めちゃくちゃだなぁ」
「だから……付き合った人には、みんな、愛想、つかされた」
「ふうん?」
「辻君も? それ、愛想つきた顔?」
「納得、の顔」
 靖宏は濡れたままの髪の雫を払いながら由羽を見る。じっと見る、から。
「なに?」
「……別に」
「……なに?」
「いい眺めだな、と思って」
 裸で、立ったままの由羽は、つい、と自分のからだを見下ろした。あとはなんとなく、癖のように下腹を撫でるだけで。
 靖宏の期待したリアクションとは違ったようだった。
「きゃあ、とか、言わねぇの?」
「なんで?」
「……やー、なんとなく」
「今さら隠してもしょうがなくない?」
「……あ、そ」
 なんだか靖宏はがっかりする。由羽はバスルームの出入り口付近につっ立ったまま、
「それも、愛想、つきた顔?」
 小首を、傾げる。真っ直ぐの髪は、靖宏との行為で汗に濡れて少し、うねって揺れた。
 靖宏は由羽にシャワーヘッドを手渡す。
「俺が愛想つきてたら、どーだっての」
「……もう、呼んじゃ、ダメかな、と思って」
「明日も?」
「わかんない。生理、来るかもだし。そしたらいらない。でも……」
「でも?」
「……来月、とか。また呼んだら……」
 ……ダメ? と聞きながら、シャワーヘッドをもてあそぶのに由羽は靖宏から視線をそらす。靖宏の顔を見られない。自分の言っていることが恥ずかしいとか、そんなふうに思ったわけじゃない。
 だめ、だと言われる。多分、言う。由羽が靖宏なら、言う。
 それを聞きたくなかった。
 だって、由羽より、大事なものが靖宏にはある。
 彼女のほうが、大事、でしょ?
「小倉さあ」
 靖宏が由羽の下腹を撫でた。由羽は自分を撫でる靖宏の手を見る。靖宏の手は、子供の頭を撫でるように、由羽を撫でる。
「来月、他の男、紹介してやろうか? 彼女欲しがってるヤツとか、いくらでも……」
 ふたり、視線が合って、由羽の表情に靖宏は吹き出した。
「おまえ、あんまりそーゆう顔すんなよ」
「ど、ゆう?」
「俺がいい、って顔」
「だって」
 だって……。
「辻君以外、知らないから。……辻君じゃなくても、気持ち、いいかな……?」
「さあなあ」
「辻君がいいな」
 由羽はシャワーヘッドを落とした。
 落そうと思って落としたわけじゃない。手を、離したら、落ちただけ。
「次も……来月も、呼んだら、来てよ。そうして、そうやって……」
 靖宏の手が撫でている場所を、
「触ってて」
 痛みが、痛いと訴える場所を、触っていて。
 その感触が欲しい。
 海辺で、波に削られて石や割れたビンの角が丸くなるように、カチカチと下腹部に刺さる痛みが丸くなればいい。
 波のように優しく触ってくれればいい。
 波のように気ままに抱いてくれればいい。
 そうしてもらえたら、大丈夫。まだ、大丈夫。
 大丈夫じゃない、という気持ちを持て余して、でも、死にたいとまで思った事はない。
 だけれど、たまに、耐えられないことがある。
 いろいろ、いろいろ、いろいろあって。
 自分を少しの間、無くしたくなる。
 考えるのは嫌い。ただ、大声で叫びたいだけ。
 誰かにめちゃめちゃにしてもらいたくなることがあるだけ。
 同時に、同じだけ、
 静かに、静かに、誰かに、この肌に、触れてもらいたくなることが、ある。
 その手が欲しい。
「触ってりゃいいの? 欲しいのは手、だけ?」
「手、だけ」
「他は?」
 他、は? たとえば、こんなふうに手を動かそうとする、その、心、は?
「いらない、よ?」
 ……いらない。
 ただ、こうやって、触っていて欲しいだけ。
「……ふうん」
 今度こそ呆れた? と聞いたら、別に、と返って来た。
「呆れるほど、期待してたわけじゃないし」
「期待? なんの?」
「もしかして小倉、実はちょっとくらいは俺が好きだったんじゃねーの? とか」
「ぜんぜん」
「……っそ」
 あ、そう、と確かめるように呟いて、靖宏はいっそ気分がいいように笑った。
「楽、なもんだなあ」
 靖宏は転がったシャワーヘッドを取り上げて、湯を出す。少しぬるめにして、由羽の足元からかけた。
「楽って?」
 と由羽が聞き返す。
 靖宏は花壇に水でも撒くように、由羽にシャワーを向けた。
 さわさわと、由羽はシャワーを頭から浴びる。
「楽だな、と思ったんだよ」
 今、こうしてここにいることが。
「こういう関係は、楽だな」
 今、ここにこうしている、だけの、ことが。
 ここには由羽と靖宏がいるだけだ。お互いに触れ合うためだけの感触を感じるだけだ。体温を感じる肌と感覚があればよくて、その中になにが詰まっているのかなんて問題じゃなかった
「……こういう、関係?」
「そう」
「……こういう、からっぽな、関係?」
 由羽の言い様に、靖宏はおもしろそうに笑った。
 由羽は下腹を撫でていた手で、靖宏の胸元を撫でた。撫でるのに屈んだついでに、そこに唇を押し付けた。
 からっぽの、味がする?
 そんなの、わからない。
 舐めたら、ひとの肌を舐めた味が、するだけ。
「ねえ、辻君は、彼女、好きでしょ?」
「そりゃ」
「どきどきする?」
「……面倒なくらい」
「面倒?」
「自分がコントロールできない感じが、こう、なんとも……」
 由羽はつと顔を上げて、靖宏の肩に手を置いた。座ったままの靖宏を見下ろす。シャワーは足元で。
「じゃあ、辻君の中は、そうやって誰かを好きな分、なんだか色々なものが詰まってて、そんなにからっぽじゃないね」
「……そうか?」
「そう、じゃないの?」
「小倉は?」
「わたしは、からっぽ」
「気になるやつとか、いねーの?」
 意外なことを聞かれた、という顔を由羽がした。その表情のまま、心の底から、
「だって、いると、面倒でしょ?」
 靖宏も、意外なことを言われた、という顔を、したい気分には、なったけれど。出てきた声は妙に由羽に納得していた。
「……そりゃ、そうだな」
 靖宏の指が由羽の唇に触ったから、そのまま唇を重ねた。由羽は靖宏に抱きつく。靖宏は由羽を抱きとめた。
「……小倉、あのさ」
「なに?」
 なに? と由羽が聞き返す。すぐ傍で靖宏を覗き込む。
 靖宏はなにか言いたそうな顔をした。でも、言わない。言ってくれなければわからない。
 なに? ともう一度聞く。
 靖宏は吸い込んだ息を、吐き出した。溜め息をついた、のかもしれなかったけれど、溜め息ほどあからさまではなかったから、ただ、吸い込んだ息を吐き出しただけだったのかも、しれない。
「なに?」
「……や、おまえ、からだ冷えてる。風呂、入れ」
「……冷えてる? それで、お腹、痛いんだ」
「冷えると痛い?」
「ん……」
「じゃー、さっさと入っとけ」
「一緒に入ろ」
 一緒に、入ろう?
 一緒に入った水面がゆらりと揺れて、揺れた水面に映っていたものを靖宏はふと見上げた。見上げる前に由羽を見て、それから、なにかを探すように天井を見た。
 見上げた場所にあったのは、ただの、天井に埋め込まれたライトだった。オレンジ色の……。
 丸いライトの影が水面で揺れていた。
 靖宏が見るので、由羽も見た。
 そんなふうに。
 その次の月も、その次の、月も。
 その次の月も、一緒に、見る。


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