〜 月、ゆらり 6 〜





 靖宏だ、と思った。
 同時に、靖宏だっけ? と、思った。
 顔は……実は、よく覚えていない。家族や友人なら、後ろ姿でもわかるけれど。
 そのほかのひとの区別なんて付かない。
 でもあの上着には、見覚えがある。
 靖宏も由羽を見ているから。
 由羽も、靖宏を見たまま。
 慌てて名刺を出して、携帯を出した。そのまま、由羽の携帯の奥で呼び出し音が、三度。
 四度目の途中で、通路の向こうで靖宏が自分の折りたたみの携帯を開いた。
 由羽が聞いていた呼び出し音が切れて。
 かさかさと、由羽にも、靖宏にも、喋らない声が聞こえた。
 お互いに、かさかさと、繋がっているのは電波だけ。
 ……繋がって、る?
 繋がってる?
 由羽は電話を切ると、靖宏から目を逸らした。



 こん、と窓を叩かれる前に由羽は車から飛び出した。
 昨日は目を閉じて待っていたけれど。
 今日は、ちゃんと、その目で靖宏を待っていた。
 目が合って、十月末の、日が沈んでしまえばもうずいぶん寒い空気の端で靖宏を掴んだ。
 掴んで、引き寄せて、抱き付いた。
 靖宏を仰ぎ見る。そうして求めたものは……。
「……小倉、おまえほんっと、おかしいだろ」
 昨日と同じファミレスの駐車場で、靖宏は由羽がなにを求めているのか、知っている声で。
「おまえ、おかしいって」
「でも、来た」
 由羽は靖宏を待っていた。
 靖宏は、ちゃんと、来た。
「メール、返事ないから、来ないかと思った。……届いてないかと思った」
 電話番号にメールを送った。
 同じ会社の携帯なら、それでメールは届く、はず。
 違う会社の携帯なら、届かなくて、それっきり。
 メールは、届いた?
『昨日と同じ場所で、待ってる』
 ……届いた。



 昨日と同じホテルの、同じ部屋に入った。
 同じ部屋で、
「それで、どうされたい?」
 この後ずっと、この部屋に入るたびに挨拶のように言うようになる言葉を靖宏が落とす。
「好きにして、いいよ」
 この後ずっと、この部屋に入るたびに挨拶を返すように言うようになる言葉を、由羽も落とす。
 ひとつ、ふたつ、ぽつり、ぽつりと。言葉が積もっていく。
 いつかその言葉に埋もれて、もしかしたら身動きが取れなくなるかもしれない。そんなことをなんとなく、由羽も靖宏も考えた。
 ふと……考えただけだ。
「好きにしていいよって、言ってるでしょ? しなかったら、辻君、誘われ損じゃない?」
「……なんだそりゃ」
 靖宏はひとりで笑った。
「俺が好きにしても、おまえ、あんまり覚えてない、んだっけ?」
「ん……」
 由羽は曖昧な返事をした。
 覚えているのか、覚えていないのか。靖宏には、曖昧なままだ。
「……こいよ」
 靖宏は会社の制服姿の由羽を、昨日そうしたのよりは少し、慣れたように裸にする。
 ふたりともまだ昨日のことを覚えている。からだも気持ちも昨日のお互いを覚えていて、相手を求める呼吸はすぐに性急になった。
 昨日と同じ。
 引き寄せて、重なる。
 でも、まだ、預けたからだは靖宏には慣れていなくて。
「っ、んっ! ……ぁあ!」
 からだを侵される痛みに由羽は爪を立てた。
 由羽の声に靖宏はためらう。
 ためらうけれど、止まらない。 
 止まらない靖宏を、由羽が、掴む。
 携帯電話が鳴ったのはそんなときだった。
 一瞬、なにが起こったのかわからないような顔をした靖宏を、由羽が、見た。
 ……一瞬。
 着音は由羽には聞き慣れないものだった。
 靖宏には、聞き慣れたものだった。
 ……聞き慣れた、というよりは、待っていた、着音のようだった。
 誰か特定の人物の着音だけ変えてあって、それが鳴れば、誰からかかってきているのかすぐにわかる。
 靖宏の視線が揺れた。携帯電話を視線が探す。さっきまで着ていた上着の、ポケット。
 その、特定の誰か、は、だれ?
 由羽は靖宏を強く、掴んだ。
 掴まれて由羽に戻って来た靖宏の視線は、由羽を見ない。
 由羽を、見てる。
 でも、見てない。
 からだを繋げたまま、見てない。
 靖宏をそうさせる電話の相手を、由羽は知っていた。姿形は知らない。けれど、その存在の意味なら、知ってる。
 彼女が、いると、靖宏は言っていた。
 ……言っていた、けど。
「や、だ。だめ」
 今は。だめ。
 由羽は靖宏の額から、髪を撫でた。
「やだ、続けて……っ」
 続けないの?
「今からいいトコなのに、やめるの? わたしと、こんな格好のまま彼女の電話に出るの? 出られるの? 辻くん、動いたらわたし、声、出ちゃうよ……?」
 声、出すよ?
「……お、まえ」
 低くなった靖宏の声は、多分、本気で呆れていた。それとも、怒っていた?
 かまわずに靖宏の髪を撫でた。
 その耳元に声を寄せた。
「……やすひろ」
 靖宏を受け止めているからだで、声で、呼んだ。
「続き、して」
 由羽を見ていなかった目が、由羽を見た。
「……っん!」
 我慢が、できないように動いた靖宏に由羽は声を上げた。
 その声にかき消されたように携帯電話の着音が途切れた。少し前に流行っていた曲は、由羽の耳の奥でまだ流れている。
 ここには他の音がなかったから。
 靖宏の耳の奥にも、流れている。
「お、っまえ、サイアク」
「うん……」
 うん、と言う由羽に。
「……ほんと、最悪」
「……うん」
 かさかさと荒れている靖宏の指先、柔らかい由羽の首をなぞった。由羽が感じたのは、靖宏の指先の冷たさ。靖宏が感じたのは、由羽の、柔らかな首のその皮膚の熱さ。手の平に力を込めると、指は簡単に食い込んで、由羽は苦しそうに表情をゆがめた。
 靖宏は慌てて、手を、離した。
 由羽は息をする。なにごともなかったように呼吸、するから。
 なにごとも、なかったように……。
「好きにして、いいんだよな?」
「いいよ」
 由羽の返事よりも先に、靖宏は由羽を引き寄せた。引き寄せた両膝を開いてさらに自分を押し込める。
 靖宏の一方的な行為に由羽がどんな声を上げても、もう、靖宏はためらうことをしなかった。乱暴に、したわけではないけれど、由羽を気遣いはしない。
 切れた電話がまたいつかかってくるのか、少し……少し、心のどこかで怯えていたような靖宏に由羽はただしがみついて、欲しいものを欲しいままに受け入れた。
「……っ、ん、もっと」
 もっと、とせがむ。靖宏の指をくわえて舐めて、キスをねだった。
 靖宏は一度、ベットの下に落ちたままの自分の上着を見た。……見た、だけで、
「もっと?」
「ん……」
 微かに頷いただけの由羽に唇を落とした。手の平は執拗に胸をなぞった。下半身は繋がっては達した。
 靖宏はゴムを付け替え、また入り込んでくる。
 そのうちに由羽は携帯電話の着信音を忘れた。
 なんの曲だったっけ? 誰の曲だったっけ?
 靖宏ならすぐに思い出せるだろうけれど、由羽には思い出せない。
 誰の曲だったっけ?
 靖宏にからだを揺らされて、忘れた。
 忘れた頃、ふいに、靖宏が由羽の目元を指先で拭いた。
「……なに?」
 なに、してるの?
「……別に」
 今ここで、靖宏は答えない。
 なにをしていたのか、靖宏が答えるのはずっと、ずっと後。
『おまえ、いっつも泣くんだよ』
 靖宏が、泣きそうな顔をして言う。
 由羽はそれをどんな顔で聞く?
『わたし、泣いてた?』
 自覚をしていないだけなのか、覚えていないのか。
 なぜ泣くのか由羽にはわからない。靖宏にもわからない。とりあえず、
「まだ、痛いのかよ?」
 だから泣くのかと、聞く。
「痛い……? なんで?」
「……昨日、初めてで痛がってただろ」
 由羽はふっと我に返ったように小首を傾げて、
「痛く、ないよ?」
 どうして靖宏がそんなことを聞くのかわからない。自分が泣いていることも、その意味も知らない。
「気持ち、いいよ?」
 細めた眼差しは、由羽は、笑ったつもりだったから。
「靖宏は?」
 やすひろ、と呼ばれて。
 靖宏は驚いたように動きを止める。驚いたように、ではなくて、驚いている。
 やすひろ、となんでもないことのように名前を、呼ぶから、戸惑う。
 戸惑って、動きを止めたまま……止めたから、だめ、と由羽が抗議した。
「……動いて。その方が」
「その方が?」
「気持ちいい」
 そうでしょ? と由羽は言う。
 繋がった場所が靖宏を締め付ける。
 靖宏は細く、息を吐いた。
「……だな」
「うん……」
 もう何度目か、ゆるゆると靖宏は動き出す。
 ゆるゆると、でも、次第に、息をする間もないほどにからだを寄せ合う。
 由羽はただ身を任せた。気持ちがよくて、頭の中がぐらくぐらする。頂絶に押しやってもらうたびにそのまま中身が傾いて意識を失いそうになる。
「っん、……ぁ、や、だめ、い、っちゃう」
「イけよ」
 靖宏が腰を揺らすと、由羽は悲鳴を上げて靖宏の胸元に当てた手の平を握り締めた。
「……あっ!」
 頭の中から、からだが傾いた。
「小倉?」
 靖宏の声が、遠ざかったように聞こえたのは、
「……おい?」
 ぱたり、と由羽のからだがベットに沈み込んだ。遠ざかったのは靖宏の声ではなくて、由羽自身。
「……ねえ、あのね。電話、してあげて。帰って、いい……から。ごめ……」
 由羽にも、どうしてそんなことを言ったのかわからない。
 けれど。
 言っていたから、だったら、どうせなら、ちゃんと伝わっているといいな、と思った。
 伝わっただろうか?
 声にしたつもりだったけれど、声になんて、なってなかったかもしれない。
「……小倉?」
 小倉、と呼ぶ声に。
 結局、いつの間にか由羽を気遣っている靖宏がおかしくて。
 由羽は口元で笑った。
 ちゃんと、笑った。
 それから目を閉じて、眠った。
 目が覚めたとき、きっと靖宏は、いない。


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