〜 月、ゆらり 5 〜
靖宏は深く吸い込んだ空気を静かに吐き出した。
「……お、まえ、ヤバいんじゃないの?」
なにも喋りたくない、という気分をとりあえず横に置く。
黙っていては会話にならない。
なのに、由羽は黙っている。シーツを頭までかぶって、靖宏と目を合わせない。
「おい」
靖宏が、シーツを引っ張る。
「小倉」
普通に、当たり前に、名前を呼ばれて。
シーツから顔を出した由羽は、そのまま靖宏を見た。大きな枕にもたれている。
由羽もからだを起こす。
「……っ」
呻いたのは、からだが、痛かったから。痛みを支えるように、靖宏にもたれた。
靖宏は由羽のからだを押しやる。逃げるように自分から離す。
「おまえ、ぜったい初めてだろ!」
我慢が、できないように、
「違うよ」
「嘘つけ」
シーツには、血痕。
引き抜いた靖宏自身にもその跡があった。
それ以前に靖宏も気付いていた。でも、やめなかった。
そんな余裕、なかった。
靖宏にも。由羽にも。
由羽は痛みの先を求めたし。
痛みに、苦痛の表情を浮かべる由羽は、悪くなかった。
「初めて、じゃ、ない、けど」
由羽はシーツを胸元まで引き寄せる。ふと気が付いて、半分、靖宏に譲る。
「した、のは、初めて」
靖宏はかたまる。
意味が、わからない。ぜんぜん、わからない。
「おまえ、カレシは」
「優しいんだもん」
「は?」
「痛いって言うと、それ以上、しないんだもん。誰も」
だから、
「優しい、よね」
「俺はその優しい彼氏に殺されるのか?」
「大丈夫。今は、いない。面倒くさい。みんな優しいのに、わたしは、優しくできないし」
「……テキトーに男誘って、やりまっくってんのかと思った」
「そこまで節操なく、は、ない」
「さっさと、初めてを済ませたかったとか」
「別に」
「じゃーなんだよ」
「だって」
「なんだよ」
「気持ちいいのは、知ってるから」
由羽は小さなあくびをする。
「わたし、ちゃんと感じてた、でしょ?」
靖宏にもたれる。
靖宏はもう、由羽を邪険にしなかった。もたれやすいように、からだの向きを変える。
「わたし、良くなかった?」
由羽の、体温に。
靖宏はシーツを引っ張った。
引っ張られて見上げると、靖宏はコメントし辛い様に横を向いた。
初めてだと、わかっていてやめなかった。
好きな女なら、決して、そんなふうに抱かない。
相手の痛みを弄ぶなんて事はしない。
でも、した。
由羽の悲鳴に、興奮した。
そんな自分に気が付いて、ショックを受けた顔をする。
口を閉ざす。
黙ってしまって、会話が続かない。
静かな部屋で、
「ごめんね」
謝ったのは、由羽。
つい今まであくびをして、眠たそうな顔をしていたのに。
今は、傷付いた顔をする。
その顔を靖宏は見た。
「わたしが、正気じゃないんだよ」
由羽はシーツを跳ね除ける。あらわになった自分のからだの、首から胸へ、下腹へ。
「お腹が、痛いの」
手の平でなぞる。
「いろいろ、ぎゅうぎゅうに詰まってる気がする」
なにが、詰まってる?
「わたしじゃないものが、詰まってる気がする」
のど元まで、いっぱいいっぱいに詰まってる気がする。
早くそのときが来て、
「早く、流れて行ってくれればいいのに」
「……流れる?」
「生理、来たら、一緒に流れてく……もうすぐ」
「せ……」
どうにも言いにくそうな靖宏を、おもしろい、と思ったけれど。
思っただけで、やっぱり、由羽の顔は笑わない。
あはは、と、声だけが乾いて笑う。
「一応ね……こういうの、月経前、症候群、とか、月経前不快気分障害……とか、言う、んだって。ネットで調べてみたりするとね、ちゃんと、生理が始まれば治るって、書いてある。読んで、ふうん、って思った、けど」
……けど。
「それまで、辛いの。いつもいらいらしてたり、全部がどうでもよくなったり……辛いって、言葉にするとなんか滑稽、だけど」
滑稽、という言葉も、言葉にすると滑稽だ。
「辛いより、気持ち、いいほうが、いいかな、とかちょっと思った。詰まってて、いらいらして、なんだかよくわからない気分は、わたしの気分じゃない。でも、シてると、それが、ちゃんといいって、感じる自分に、安心する」
「そんで、俺?」
「……たまたま」
「たまたま……」
「だって」
「だって?」
「いらいら、してるところ、優しくするから。いっぱいいっぱいになったとき、辻君しか思い出せなかった」
「……ふうん」
「ごめんね」
由羽はお腹をさする。
もう、少しも隠そうとしないからだを、靖宏が見る。
靖宏はそのまま、由羽を見ている自分に、気が付く。
由羽を、見て。
のど元に込みあがってきたものを、飲み込んだ。
靖宏は由羽に反応していた。
由羽はどこかおかしい。
病名、とやらを聞いても靖宏にはよくわからない。
ただ、どこかおかしいだけに見える。
そう思うのに。
その由羽をもう一度、抱いてみたいと思う自分は、触れてみたいと思う自分は、さらにおかしいんだろうか。
「わたし、いっぱいいっぱい、だったの。変なふうに声かけられたり、ほんとに、優しいこと、できなかったり」
「……優しい?」
「本屋でね、子供が、本、落としたの」
新刊のコーナーに積み上げられていた小説を小さな子供が落とした。拾うのを手伝おうとしたら、自分でやる、というので、拾った本を子供に渡した。子供は本を棚に戻す。でも、ぐちゃぐちゃ。ぐちゃぐちゃのまま子供は行ってしまう。
きれいに並べ直そう、と思って、でも、わたしのせいじゃないし、と思った。けっきょくそのまま、ぐちゃぐちゃのまま。
「……ちゃんと、きれいにしてあげればよかった」
ぽつりと落とした声に、靖宏は思わず手を伸ばした。
なにかを、拾い上げたかったのに。そのまま落としてしまいたくなかったのに。
由羽の声はそのまま、靖宏の手の平をすり抜けて落ちてしまう。
ぽつり、と。
そんな、落ちた音を聞いたような気がした。
靖宏はなにを、落としてしまいたくなかったんだろう……。
「この時期ね、自分でも、ほんと、ちょっと、正気じゃないって思うんだよ。気分が、なんか、ふらふらしてて」
由羽の口調も、どこかふらふらしている。
「正気だったら、俺に電話なんかしないって?」
「しないよ」
ふと目が合って、由羽の眼差しが揺れた。
笑うのか、と思った。
笑えばいい。
靖宏はそう思う。
笑った顔を見たい、と思う。
でも、由羽は笑わない。
さっき、掴みそこねたなにかが、靖宏はひどく気になった。
気になるのがおかしくて笑った。そんな自分に呆れて、笑った。
「……正気じゃ、ないんだよ。だって、人も殺せちゃうんだよ」
由羽は会話を続ける。
……でも。
なんとなく。
この後の事は覚えていなかった。
気が付いたら家にいた。翌日、いつものように出勤した。
仕事中に、ふいに靖宏の笑った顔を思い出して、鞄の奥から靖宏の名刺を探した。
辻靖宏、とある。
そういえば昨日、別れ際に靖宏がなにか聞いたような気がする。
……なんだっけ?
思い出そうとしたのだけど、どうしても思い出せなくて、やめた。
「まあ、いいや」
そう思ったけれど。仕事が終わると、なんとなく、携帯電話を鞄から出したり入れたりする。
名刺を、どこにしまったっけ? と探したりする。
会社帰りに、昨日行った同じ場所へ。
嫌な思いをした場所へ、行きたくないのに、なんとなく怖いのに、足を向けた。
食品売り場の、牛乳売場と、醤油を置いてある場所を見た。それから、なんだか初めて、米の置いてある場所も見た。こんなところに、お米、売ってたんだ、と思う。
ふと、次はどこに行ったらいいのかわからなくなる。
立ち止まって、歩き出す。
本屋の、新刊コーナーに置いてあった小説がきれいに並べ直されていて安心する。
それで、もう、帰ろう、と思ったときに。
館内に午後六時を知らせる音楽が響いた。聞き慣れた音楽だった。
……六時だな、と思った。
ただ、それだけだ。
由羽は本屋を出る。
本屋から出た通路の、吹き抜けの向こう側に、靖宏が、立っていた。
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