〜 月、ゆらり 3 〜
『もしもし?』
と、電話に出た声は最初、明らかに怪訝そうだった。
それはそうだろう、と思う。
由羽は靖宏に携帯電話の番号を教えていない。靖宏の携帯には見慣れぬ着信番号が表示されたはずだった。
由羽なら、携帯電話に登録していない番号には出ない。
でも、靖宏は出た。
『わたし……小倉、です』
ああ、と少し靖宏の声が安心した。同時に、緊張する。
『なんかあった?』
『……ううん』
なにも、ない。だけれど、由羽の声が……。
『小倉、泣いてる?』
由羽は答えずに頷いた。
頷いても電話では伝わらない。それでも、伝わったようだった。電話の向こうの靖宏はまだ買い物中で、買い物客のざわめきが聞こえた。
由羽は静かな自分の車の中で、靖宏のいる場所の音を聞きながら、
『もう一回、会って、くれない?』
『……今から?』
『うん……』
『そりゃ、いいけど』
由羽を伺うような声。でも、伺いきれないような、声。
『小倉、もう家だろ?』
『まだ……だから。中学校の近くに……坂、下って左に曲がったところに、ファミレスできたよね……そこの駐車場で、待っててもいい?』
『……わかった』
少し、信用していないような声だった。それが奇妙に現実ぽかった。
「寝てた?」
と聞かれて、
「寝てない」
答えた由羽の声ははっきりしていた。
こん、と叩かれた。
何度か来たことのあったファミレスの駐車場の隅で、車の、中で、ドアにもたれるようにして目を閉じていた由羽は、窓を叩かれて、目を開けた。
目を開けて、靖宏を、誰だっけ? と思った。
人ごみですれ違ったら絶対に見分けが付かない。
たった今まで、一緒にコーヒーを飲んでいたけれど。十年も前は同級生、だったけれど。
もう、明日、すれ違ってもきっと分からない。靖宏から声をかけてくれれば別、だけれど。
『小倉?』
と、窓の向こうで靖宏の唇が動いた。声は、聞こえない。また、こん、と叩く。
由羽は車から降りると靖宏を見上げた。
「小倉?」
声が、聞こえる。
動いた唇の形の通りに聞こえた声に、耳を寄せた。
声が、見えた。
「おまえ、ほんと、家、帰ってないの?」
「帰らないよ」
「なんで?」
胸ポケットからタバコを、つい取り出したところで、由羽の体調を思い出してまたしまう。
「いいよ? 吸っても」
「いーよ、別に」
「タバコ、慣れてるから。……ほら」
由羽は自分の制服の袖口を康弘に差し出す。
「なんだよ?」
「タバコ、匂い、染み付いてる」
制服にはタバコの匂い。
「……ほら」
背中にかかる髪をつまんで見せた。
「事務所狭いのに、みんなタバコ吸うから。すごい匂い」
髪にも、匂い。
「小倉は吸わないんだろ?」
「うん」
これは、どうでもいい話。
由羽が家に帰らなかった理由は、
「……面倒でしょ」
「は?」
「なんで泣いてるのかって、親に追求されるの、面倒」
「あ……っそ」
靖宏は、わかったようなわからないような顔をする。
「んで……そんで?」
靖宏を、呼んだ理由は。
靖宏が、ここにいる理由は。
理由は全部、由羽の中にあるから。それを、聞く。
聞かれて、由羽は靖宏を掴んだ。上着を掴んで、顔を寄せた。
タバコの、匂いがする。
……好きじゃない。この匂い、好きなわけじゃない。
でも、抱きついた。
「おい……っ」
引っ付くな、と言いたげに由羽のからだを押しやろうとする靖宏を、逃がさない。
靖宏が、本当に逃げたいのなら、簡単なはずだ。
靖宏は、逃げないから。
由羽は肩で笑った。
途端、靖宏は由羽を引きはがした。力任せに、力ずくで由羽の肩を押した。
由羽は抵抗したけれど、簡単に、押されて、とん、と自分の車に背中をぶつけた。
「おまえ、からかってんの?」
「……うん」
顔を上げた由羽は、笑ってなんか、いなかった。
じゃあ、どんな顔を、してた?
靖宏が、瞬きすらしないで由羽を見たのが、答え。
からかわれた靖宏が、それ以上、声にして怒らなかったのが、答え。そのまま、怒ることをやめたわけでは、ないけれど。
「ねえ、しようよ?」
真っ直ぐに言った由羽に、
「なにを?」
まるで意味がわからない、という靖宏に、
「辻君、わたし、抱かない? わたし、好みじゃない? だったら、いいけど。そうじゃなかったら、しよ……?」
「って、おまえ、なに言って……」
「わかってるよ。ちゃんと、わかってる」
「なにわかってんだよ」
「辻君が、怒ってること」
「……頭、おかしーんじゃねーの」
「おかしいのは、体調だよ」
「体調……」
「悪いよ。最悪だよ」
「……だったら」
「だから、めちゃくちゃにしていいよ?」
靖宏は息を飲んだ。上手い話だと思ったのか。呆れ果てたのか。
「ほんとに、好きにしていいよ」
「……ふうん」
靖宏は、怒ることをやめたわけじゃない。今もまだ、からかわれている気分で、
「ここで、やっていいの? 車?」
「車は嫌」
「ふうん?」
「ホテル、連れてって。お金、わたしが出すよ?」
「そりゃ、上手い話だけど?」
靖宏も、からかっているつもりだった。まだずっと、からかわれているつもり、だった、から。
由羽にも、靖宏が気に入らない会話をしているのはわかっていた。怒っているのも、呆れているのも、わかっていた。
「わたし、好きにしていいよ? ……好きにして、よ。ほんと、お願い、好きにして、よ。だってそれは……」
「なんだよ」
「それは、死んじゃうよりはマシでしょ?」
意外な、言葉に。
靖宏の伸ばした手に、由羽はしがみ付いた。
「大丈夫だよ」
大丈夫、と言ったのは、由羽。
大丈夫、と、暗示のように。
……暗示に、かかっているのは誰?
「辻君、今日のわたしのこと、覚えてなくていいよ。だって」
だって、ね。
「わたしも、きっとよく、覚えてないと、思うから」
思い返してみれば、それはどれも些細なことでしかないはずだった。
あんなふうにいやらしく声をかけられたことも。
それから。
「……ここまで来たからには、冗談じゃねぇ、ってことでいーわけ?」
「いいよ」
部屋に入ってドアを閉めたところで、ようやくそう言った靖宏に由羽は小首を傾げた。
今さら、なに、言ってるの? と。
靖宏は、いつ言おうかと、多分ずっと思っていたことを、今、言った。
「俺、彼女いるって言わなかったっけ?」
「聞いた。でも、辻君、だよ。ここに連れて来てくれたの。彼女と、よく来るの?」
靖宏は言葉を探すのが面倒くさいように、閉口した。
言葉は、今の由羽には通じない。その理由を靖宏はまだ知らない。今は、知りたいとも思っていない。
「ねえ」
「……なんだよ」
部屋はそれなりに広いのに。ドアの、すぐ傍で。
由羽は靖宏の胸元を掴んだ。ちょうど、目線の高さにある。そこから靖宏を見上げる。
靖宏はもう一度、なんだよ、と聞いた。
目を逸らしたのは由羽だった。
「……なんでもない」
ふい、と離れる。
「おまえねぇ」
勢いで、掴もうとした由羽の腕を掴み損ねる。
由羽を掴み損ねた手が、少し、苛立たしそうに、自分の口元を覆った。それで自分の吐息の熱さを知った。熱さに、手のひらを握り締めた。
部屋を見回す。
由羽はベットに掛けた。しわひとつないシーツを意味もなく手繰り寄せてしわを作る。しわを、抱きしめて横になった。制服のタイトスカートを窮屈そうにする。
「辻君、脱がせるの好き?」
シーツの隙間から問い掛けた眼差しに、靖宏は握り締めていたこぶしを緩めた。ごちゃごちゃと、考えるのを、やめた。
由羽を跨ぐようにして、ベットにひざを掛けた。
靖宏の重みで弾んだスプリングに由羽が埋もれる。由羽の投げ出した細い手足に、
「おまえ、ほんとに小倉?」
そう聞いた靖宏は、中学生の由羽を思い出している。
由羽はどんな中学生だった?
靖宏は、どんな中学生だった?
由羽は靖宏に抱きついた。
「いいから、早く、しよ」
由羽の吐息も熱い。
熱さはすぐに、ざわざわとしわになったシーツに絡んだ。
始まってしまえば、肌に触れる相手の体温があればよかった。
呼び合う名前も必要なかった。
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