〜 月、ゆらり 2 〜
上げた悲鳴は、まるで漫画の吹き出しのようだった。あるいは小説に書かれたセリフのようだった。
「きゃあっ」
突然腕を掴まれて。
「おい」
掴んだ腕が頭の上から喋った。
いやだ、触らないで。
彼ら、のうちの一人に掴まれたと思った。
咄嗟に振りほどく。振り、ほどけない。せめて、腕を掴んだ男を睨みつける。
「……え……?」
その男、に、由羽はすとんと疑問の声を落とした。
男は由羽と目が合って、なにかすまなそうにぎこちなく笑った。なにに対して笑ったのか、知らないけれど。
彼、は、高校生にも大学生にも見えなかった。
振り返るとそこには三人、揃っていて、由羽と、由羽の腕を掴んだ男を見ている。
……誰? と再び男を見上げた。
誰で、どこから現れたのか。後ろから、掴まれたような気が、したけれど。
誰? 知らない。
その、知らない、男が、
「そんな、怒んなよ」
どこか、いつか見た顔で言った。
それで由羽は、自分がそんな表情をしていたことを知る。でも、その顔のどこがおかしいのか、と思う。こんな目に合っていて、怒っちゃだめなら泣けとでも、いうのか。
ふいにのどの奥が詰まって、由羽は奥歯を噛み締めた。
掴まれた腕が痛い。
痛い。
手にしていた荷物を力任せに振り上げると、慌てて腕を離された。由羽はその隙に逃げるように歩き出した。逃げるように、ではなくて、逃げている。
下腹が痛い。いらいらする。
歩調が次第に早くなる。
あの三人がどうしたかなんて知らない。
あの男が誰だったのかなんてどうでもいい。
どうでも、いいと、思っている由羽の後ろを、男はのんびりと付いてきていた。由羽は気が付かない。
気が付かれていないことを承知で、男は、確かめる、というよりはもう少し、気安く、
「おまえ、小倉、だろ?」
由羽の名前を、呼んだ。
由羽は男が付いてきていたことに気が付く。それでも立ち止まらない。専門店外を抜けていく。女子高生や買い物帰りの主婦とすれ違う。
「小倉……悪ぃ下の名前思い出せないんだけど、東山中学で、三年とき五組だったろ」
由羽は男を見上げた。男は一緒に立ち止まる。
「俺、辻」
自分を指差して、
「覚えてねぇ?」
確か、辻靖宏、といった。
背が高いのは昔からだ。短めだった髪は今もそんなに変わらない。
そう、変わらない……と、由羽はなんとなく思い出しながら、ショッピングセンター隅の喫煙所で、靖宏の差し出したコーヒーを受け取った。紙コップが、熱い。
「……ありがとう」
と言うと、どっち? と返される。
「……両方」
もしかして助けてくれようとしたことと、コーヒーと。
靖宏は手にしていたタバコをくわえると、なにかを指折り数え始める。中学三年生のときから、
「九年、だよ。もうすぐ十年」
由羽はコーヒーを飲み込む。少し、苦い。ミルクか砂糖を多目にしてもらえばよかった。
由羽は自販機にもたれてコーヒーだけを見ている。靖宏はタバコの煙を由羽に遠慮しながら吐き出す。
「小倉、事務員さん?」
「うん、辻……君、も、仕事帰り?」
「そー」
よく見れば靖宏の上着は作業着のようだった。
地元なんだから、こんなふうに出会うこともあるのだろう。出会って、そこで声をかけるかどうかは、そのときの状況による。大抵は、よほど親しかった場合を除いては、声などかけないに違いないけれど。
「わたし、顔、そんなに怒ってた?」
コーヒーが苦い。もう飲めない、という仕草に、
「コーヒー、駄目だった?」
「ううん、いつもは平気。今日は……体調、悪くて」
「ふうん」
靖宏は自分のカップと由羽のカップを取り替えた。オレンジジュース、だった。
「まー、あれは怒るなってほうがムリだろーけど」
「でも、そんなに怒るな、って言われた」
「俺に?」
「うん」
「とりあえず、どーすりゃいいんだよ、とか思って」
「思って?」
「あいつらに怒るな、って言ったわけじゃなくて、俺に、怒るなよ、ってことで」
意味が分からずに由羽は小首を傾げる。靖宏はタバコを弄びながら、
「俺がカレシで小倉と喧嘩中、に見えたはず、周りには」
「……そうなの?」
「…………多分」
弱気そうに靖宏は笑う。由羽も、笑ったつもり、だったけれど。
少しも笑わない顔を靖宏は見下ろす。由羽は目を逸らした。
「……ちょっと、怖かった」
「ちょっと?」
意外そうに靖宏が聞き返す。由羽は訂正する。
「けっこう、怖かった。顔、怒ってたなら、からかわないでよって、思って、怒ってた。……からかってないなら、本気なら、どうせなら、もっと若い子誘ってよ、とか」
靖宏がコーヒーを吹き出した。おもしろそうに笑っている。
「なに?」
「小倉、若いじゃん。若くないの?」
「じゃなくて、釣り合いとか、あるでしょ」
「きれーなおねーさん、に見えたんじゃないの?」
「わたし、会社の制服のままなんだけど……」
「背筋真っ直ぐで、目線真っ直ぐで、誘ってお相手してもらえたららっきーじゃん」
「らっきー、って……」
呆れればいいのか怒ればいいのか、笑えばいいのか。どれにもすぐに反応ができなくて由羽は紙コップを口に付けた。冷たいオレンジジュースがのどにしみる。胃に、広がる。おいしい、と思う。
おしいい、けれど、口から零れたのは溜め息だった。
「体調、悪いんだっけ?」
「……うん」
「風邪とか?」
「ううん」
じゃあどこが悪いんだ、と、靖宏は聞きたそうにして、でも、聞かなかった。この先また十年も会うかどうか分からない元クラスメイトに親身になっても仕方がないと思ったのか、聞いても、答えてもらえないように、見えたのか。聞かずに、由羽の体調を考えて黙ってタバコの火を消した。
由羽も、聞かれても困った。
どこがどう悪いのか、本当は自分でもよく分からない。聞かれても上手く言葉に出来ない。なんだかもやもやする。聞いて欲しいと思う、でも聞いてもらっても、分かってもらえなければ、どうせ分かってくれないくせに、と、ひどい言葉が出てしまう。
聞いてくれる人は優しさから聞いてくれているのに違いないのに、優しい人に優しくできない自分にいらいらして、また優しくできない。
世の中には優しい人ばかり。
世の中には、優しくない人ばかり。
「小倉?」
オレンジジュースを見たまま顔色を悪くする由羽に、
「家まで送ってってやろーか?」
ついでだし、と肩に、手をかけた靖宏から、由羽は飛び退いた。
『ねえ、おねーさん』
由羽の耳の奥でした声は靖宏の声ではなかった。
「いい、よ。わたしも車だから、自分で帰らないと。明日、会社、行くのに困る、し」
嫌な、思いをした。
ついさっき、嫌な思いをした。
怒った顔をして、でも、本当は、怒っていた、わけじゃない。
靖宏はコーヒーを飲み干した。慌ててそうしたのは、動揺、したから。そういえばそうだった、と、由羽の嫌な思いを思い出したから。
「や、俺は小倉をどうしようとか思ってないけど。彼女もいるし、ちゃんと」
なにもしない、という意思表示に両手を上げる。
「……ごめっ」
ごめんなさい、と謝ったのは由羽だった。靖宏にそんなことを言わせて、顔を赤くした。恥ずかしい。
……恥ずかしいののついでに、たった今拒絶した靖宏を掴んだ。
袖口を、掴んだ。
恥ずかしい。でも、それよりもっと。
怒っていたよりも、もっと。
本当は、さっきからずっと、泣きたい気分だった。
異性に、違う立場の人間に、からかわれて、怖い思いをした。
それはひどく、
「すごく……嫌なことされた気分……」
「された、じゃなくて、されてたんだろ」
「……だよ、ね」
怖い思いをした、のではなくて、怖い思いを、させられた。最悪の事態は、いくつでも想像できた。想像、して。
あのとき、靖宏が掴んだ由羽の腕は震えていた。
震えていた細い腕では、どの最悪の事態にも抵抗できなかったに違いない。
由羽がオレンジジュースを飲み終えると、靖宏は駐車場の由羽の車まで由羽に着いていった。靖宏は、着いていく、とは言わなかったけれど、由羽も、着いてこなくていい、とは言わなかった。
「やっぱ、女の子の車はキレイだなあ」
「都会と違って、車、ないと困るし。毎日使ってるんだからきれいにしてあげないと」
「それ、うちの妹に言ってやって。アイツの車きたねえんだよ」
靖宏は上着のポケットから一枚、名刺を出すと由羽に渡す。
地元で、聞いたことがあるようなないような食品会社の名前が入っていた。
「ケータイ番号、今の会社にいる間は変えないから」
「もらっても、かけることないと思うけど」
由羽が名刺を返そうとすると、
「小倉、委員長と仲良しだったじゃん。なんてったっけ、伊藤? クラス会の予定でもできたら連絡、そこに入れて」
さりげなく、でも、今、思いついたように言う。
由羽は車のエンジンをかけ、窓を開けて、シートベルトを締める。窓の外の靖宏を見上げた。
名刺を、渡された理由、を。
「辻君、ここ、よく来てるの?」
「まだオヤ元に厄介になってる身なんで、仕事早く上がる日には、買い物くらいはしてこい、と」
「買い物?」
「牛乳とか、醤油とか、酒とか米とか」
「重いものばっかだね」
「なー」
名刺には、靖宏の携帯番号。
クラス会はただの口実。
仕事が早く上がった日には、靖宏は、よくここに来る、から。
だから、またなにかあったら呼べばいい。
「……ありがと。ちょっと、安心、かも」
多分きっと、もう会うこともないし、電話を、かけることもないだろうけれど。
ありがとう、と眼差しを伏せた由羽は、笑ったように見えた。由羽はそうしたつもりだったし、靖宏にも、そう見えた。
つられたように靖宏も笑った。
安心したように笑うから、なに? と由羽が返す。
靖宏は、なんでもないけど、というふうに、
「笑ったな、と思って」
ただ、それだけだ。靖宏にとっては。
今日、出会ってからろくに笑っていなかった由羽が笑ったから。
体調が悪いと言っていたし、嫌なこともあったし、だから、笑わなかっただけだと、思ったのだ。
でも、由羽にとっては、
「……え?」
今まで、少しも笑っていなかった自分に気が付く。
体調が悪かったし、嫌なこともあった。
でも。
……でも。
じゃあ気を付けて、と靖宏が手を振ったので、由羽は車を発進させた。バックミラーから靖宏の姿が消えて、突然、下腹の痛みを思い出した。
お腹、痛い。
お腹が痛くて。
まだ生理も来てないのに痛いのは、いつも、なんだか損をした気分で。
だって、来たら来たで痛いくせに。
それでも、早く来て、と思う。来れば楽になる。痛みが退いていくのと一緒に心もからだも楽になる。
楽じゃないのは辛い。
笑えない自分は嫌い。
……でも。
でも、
「……笑ってた?」
今日のことを思い出すと、靖宏のことよりも、あの嫌なことを思い出すのに。
思い出して、嫌な気分になるのに。
泣きたくなるのに。
……実際に、由羽をからかったあの声がなかなか耳から離れなくて、赤信号で止まったりするたびに、本当に、泣きたくなるのに。
泣いているのに……。
由羽はハザードも出さずに車を路肩に止めた。
少しの間、子供のように泣いた。
そうして、自分が泣いている意味を、少し、理解した。
こんなふうに泣いていることがもう、正気じゃないんだと、思いながら。
靖宏に電話をかけていた。
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