〜 月、ゆらり 10 〜





 ふたりだけの時間を作るのは簡単だと、思っていた。
 実際、簡単なことだった。
 由羽が靖宏にメールをすればいい。靖宏が、由羽からのメールに気がつけばいい。それだけのこと。
 その時期が来たらメールをして靖宏を呼べばいい。その時期が来たら、メールが来たら、靖宏はその場所に行けばいい。由羽が、いる。
 いつものファミレスの駐車場で、由羽は、ぼうっと携帯を眺めて待っている。あるいは、運転席で小さく膝を抱えて、お腹を抱えて、眠っているようなまぶたの重そうな瞳で、ファミレスに出入りする客を眺めている。あるいは、無防備に、眠っている。
 由羽の方がいつも先にそこにいる。
 携帯電話を握り締めて眠っている由羽を見つけた靖宏が、呆れた顔をして言ったことがある。
『小倉おまえ……寝てるなら車の鍵は掛けとけ』
『どうして?』
『……どうして、じゃない』
 さらに呆れた靖宏に、由羽は理解、する気のない様子で、それでも口だけは、はあい、と答えた。そう言われたから、そう返事をする。少し、面倒そうに。どうでもいいように。ふてくされた、ように。
 由羽は後になって、もっと素直に返事をしておけばよかった、と思う。
『若い娘が、こんなところで無防備に寝てたら危ないだろ』
 父親のように、説教するように言った靖宏を、わずらわしいと思った。だから適当な返事をした。あの瞬間は、どうでもいいことだと思った。でも、ほんとうはちゃんと、あの、瞬間に、心配をされた、と、わかっていた。わかっていても返事ができない。返事ができなかったことを、後悔、する。ずっとずっと、後悔する。
『あ、のっ』
 次に、会った時には、真っ先に、
『この間は、ありがと、う。と、ごめんなさい』
 それだけは言わなくちゃ、と、必死な表情、で。
『なにが?』
『車の、中で寝るときは、鍵、かける、から』
『……ああ』
 そういや、そんなこと言ったなあ、という靖宏に、
『覚えてないの!?』
 由羽は頬を膨らませる。
『やだ、最悪』
 由羽は、こんなに気にかけていたのに。
 靖宏は忘れている。
『……おっまえねえ』
 わかりやすく不機嫌になる由羽に、靖宏は呆れるのか、怒るのか。
 靖宏は、呆れも、怒りもしない。
『おまえはこーやって俺に突っかかって、また後になって、悪いことしたなあって、次に会うときまで引き摺ってんの。俺に会うたびに謝んの?』
『なにそれ、ひとのこと、全部分かってるみたいな顔しないで!』
『はいはい、すみませんねえ』
 あまり本気で由羽の相手をしない。
『でも、そーやって怒鳴るたびに後悔するネタ増えるんなら、あんま怒鳴んな』
『でも!』
 大声を、あげた由羽は。はっとして、声を飲み込んで、靖宏のシャツの、いつもの作業着の、会社のジャケットの、胸元を掴んだ。
『文句、とか、ちょっと我慢すればいいって、わかってる、んだよ。言ったら言っただけ、後から、言わなきゃよかったって思うんだよ。なんで我慢できなかったんだろって、思う、んだよ。でも……っ』
 でも、だけれど。
『でも我慢できないんだもんっ。そのときは言っちゃわないと気が済まないんだもん。やだもう、わたし、いい大人、なのに……っ』
 真剣な由羽に、靖宏は吹き出した。
『ど、して笑うのっ』
 靖宏は笑いながら、
『そりゃ、こどもか大人かつったら、大人だよなあ』
 見下ろした由羽が、もうさっきからずっと、下腹を庇うように撫でているのを、見て。
『じゃあ、まあ、行くか』
 ファミレスの駐車場に、靖宏はいつも、由羽の車から離れた場所に車を止めた。由羽の車を置き去りにして、靖宏の車に乗り込む。車まで先に歩く靖宏に着いて歩く由羽は、靖宏のジャケットの裾を掴む。
 掴まれて、靖宏が振り向くと、由羽は振り向いた靖宏に少し驚いた顔をして、それから、どこか安心した顔をした。
 ここに、ふたり、しか。いないような顔をした。安心して見ている夢を掴むように、ジャケットを掴む。しがみつく。
 しがみつかれて、靖宏は息を飲む。でも、まだ。まだ……。
 車に乗る。ホテルに着く。部屋に、入る。
 それでやっと、確かなふたりだけの、時間になる。ドアを閉めるのももどかしい。唇を合わせて。肌を、合わせる。
 そうしよう、と思わなくても、そう、からだが反応する。
 反射、的に。からだが反応する、から。伴う感情なんて必要なかった。多分、ない、はずだった。
『犬か、猿だな』
 いい大人、なのに。
 そう躾けられた、みたいに。あるいは、どうしようもない、みたいに。
 由羽は靖宏に触れられれば靖宏を受け入れやすいからだになった。
 由羽の、下腹を暖めてやるように撫でていた手のひらが、まだ引っかかっていたスカートと下着を下ろす。今日はストッキングではなくて、黒い靴下は、そのまま、で。
『……ん、んっ、あ』
 指先が、濡れ始めた柔らかい場所に入り込む。由羽はかたく目を閉じる。薄く開きっぱなしの唇から声が漏れる。靖宏の、何本かの指に濡れたものが絡まる。
 靖宏は由羽に触れば由羽を抱きやすいからだになった。
 靖宏の指先、だけで由羽はからだをよじる。浮く腰を押さえつればシーツを握り締める。そのまま、からだが達する寸前、で。靖宏は由羽の手を取った。
 なに、どうするの? と問いかける由羽の眼差しに微かに笑って答えて、ぬかるんでぬめった場所から指を抜く。
『や……っ』
 やめないで、と由羽の目が、非難、する。靖宏はかまわずに、由羽の足を開いた。
『あ、あ……ぅ、あっ!』
 予告、ぜずに由羽の中に入り込む。
 予告なく入り込まれて、由羽は掴まれた手を、きつく掴み返した。その、瞬間に達した由羽を、靖宏は責め続けた。喘ぎ声の引っかかった由羽ののどを、舐め上げる。請われるまま唇を、合わせる。
 ふたりだけの時間を、ふたりだけで過ごした。
 そういうのは、なにかに、似ていたけれど。
『や……す、ひろ……っ』
 揺らされるからだが、どこかに落ちてしまいそうな感覚に、由羽は靖宏にしがみつく。
 しがみつかれて、靖宏は由羽を、抱き返す。
 こういう、ふたりだけの時間を作ることは、これからも簡単なことだと、思っていた。


     ◇


「ほら、お茶碗ちょうだい」
 茶碗を抱えたままの由羽に、たか子はそれ以上何も聞かない、という態度を取った。気にならないわけじゃない。それでも、この場しのぎに下手な嘘をつかれるよりはマシだと、そんな顔をしながら、
「あんたがなにしてるのか、言いたくなったら、言ってよ」
「……うん」
 由羽はたか子に茶碗を渡す。
 言いたく、なったら。
 うん、と返事をしたけれど。
 なにを言いたくなったら、なんだろう、と一瞬考えた。
 だって、覚えていないことは、覚えていないから話せない。
 あれ、は。あのことは。
 覚えていないことだから、だから。
 たか子に話が、できない。よく覚えてもいない夢の話なんかしても、しょうがない。
 しょうがないでしょ? と。
 無意識に小首を傾げた由羽のわき腹を、たか子は肘で突いた。痛くてくすぐったくて、由羽があげた悲鳴に、
「ヘンな声」
「イトちゃんのせいでしょ」
「はいはい、ご飯ご飯」
 小さなテーブルについて、いただきます、と手を合わせる。
 由羽は、炊き立てのご飯をじっと見る。炊き立ての、ご飯の、匂いがする。下腹が痛くて、ご飯の匂いが気持ち悪い。
 でも、それでも。お腹は減っていたから。由羽はもう一度、いただきます、をして食事をはじめる。気持ち悪いと思った匂いは、口に入れれば、おいしかった。
 たか子がテレビをつける。ニュース番組のなにがきっかけだったのか、
「そういえば」
 たか子は由羽に会ったら言おうと思っていたことを思い出した。
「私、この間、杉田、を見た」
 下腹には痛みがあって、ご飯も食べなければいけなくて、ニュースも見ていた由羽は、反応が遅れた。ご飯を、飲み込んでから。
「杉田君? てあの杉田君?」
「その杉田クン」
 どこで? という由羽の表情に、
「映画館」
「映画? なに見たの?」
 たか子は最近始まった映画の名前を言う。おもしろかった? と聞けば、わりと、と返ってきた。
「またひとりで行ってきたの?」
「そう、ひとりのほうがのんびりできていいよ」
「たまにはわたしも誘って」
「だから、ひとりのほうがいいんだってば」
 由羽は、ひとりでは映画を見に行かない。
 たか子は、いつもひとりで行く。
「チケット買うときに、前に並んでたひとがね、なーんか見たことあるなあと思ったら、杉田、だった、から。偶然だねえって声かけようかと思ったんだけど、向こうは気付いてないみたいだったし、彼女と一緒だったからやめた」
「そっか」
 由羽は、笑う。
 たか子も、つられて笑った。
 なにかがおもしろくて笑ったわけではなくて、思い出したことが、懐かしそうに。
「中学の頃、由羽、よくサッカー部見てたよね」
 中学生の由羽は合唱部だった。たか子は美術部、だった。
「サッカー部の杉田クン、を見てた。音楽室のベランダが特等席で、幸恵(ゆきえ)とふたりで毎日毎日」
 オーソドックスな紺色のセーラー服を着ていた。髪の色は真っ黒で、寝癖をうまく直す方法も知らなくて、化粧水も口紅も、ストッキングも、必要だとも思ったこともない頃の、話を。
「ベランダには、出てるの見つかったら先生に怒られるからわたし、あんまり出たくなかったんだけど、でも、幸恵ちゃんが大丈夫だからって」
「そうそう、美術室からセンセーが渡り廊下通るのよく見えたから、いっつも、私が、センセー来るよーって、教えてあげてた。幸恵に頼まれて」
 音楽室は三階だった。美術室はその真下だった。たか子はベランダから身を乗り出して由羽たちを見上げた。
「頼まれてたの? そうだったの?」
「知らなかったの?」
「知らなかった」
「じゃあ、私に感謝してなかったの?」
「今、すごくしてる」
「よし」
 ベランダに出るな、と。あの頃は、先生に怒られるのが怖くて仕方がなかった。今思えば、なにがそんなに怖かったのか、と、思うけれど。
「でも、そっか、杉田君、かあ、中学卒業してから会ってない、なあ」
 中学一年生のときのクラスメイトだった。二年生のときにクラスが分かれたけれど、部活が始まる前に、ベランダから、姿を見るだけで楽しかった。たまに廊下ですれ違ったりすると、嬉しくて仕方なかった。そんなふうにひとを、好きだった。
 会話をしなくても、触れなくても。
 会話をしたり、触ったりしたら、心臓が飛び出ちゃうんじゃないかと、思ったくらい。そのひとが好きだった。
「好き好きって言ってても、高校別になって、会わなきゃ気持ちが自然消滅しちゃうような好きに、よくあれだけ夢中になれたよね」
「そう言われちゃうと……」
「今、思い出すと恥ずかしくない?」
「そんなこと、ないよ」
「そう?」
「楽しかったよ」
 あの頃は、それだけで。それだけが、なによりも。
 だけれど。今は。
「そう言えば、幸恵が好きだったのは野球部のなにクンだったっけ?」
 何気なく、たか子が聞いたから。
「覚えてないの?」
 由羽も、何気なく、
「辻君だよ」
 何気なく、言った名前は。
「辻、って確か……三年生のときに同じクラスだった、っけ?」
 たか子がそんなことを聞いてくる。
 そんなことを、聞いてきた。
 でも、よく聞こえなかった。
 よく、聞いていなかった。
 由羽は、
 中学生の、頃に。ベランダから見ていた風景を思い出す。音楽室のベランダから見えたグラウンドの、左手奥で野球部が。その右手で、サッカー部が、活動していた。由羽はいつも、ベランダに一緒に出ていたクラスメイトとは違う方を見ていた。
 ……ベランダから見ていた風景を、思い出す。クラスメイトが見ていた、野球部だった靖宏を、思い出す。
 思い出し、ながら。由羽は、たか子を凝視していた。咄嗟に視線を外すことができなかった。
 たか子は肩をすくめただけだった。
「なにびっくりしてるの」
 由羽がなにを思ったのかなんて、たか子には想像もつかない。由羽が誰を、思ったのかなんて、想像もしない。だから、なにひとつ、疑いもしないまま。
「誰と、何年生のときに同じクラスだったかなんて、よく覚えてないよ」
 由羽の視線の理由を、それらしく、勝手にそんなふうに解釈した。
「由羽は、誰といつ同じクラスだったか、ちゃんと覚えてる?」
「……ううん、あんまり」
 凝視していた視線を揺らして、どこか上の空で、答えた返事に、
「ほらね」
 たか子は満足そうにする。たか子にとっては、中学生の頃の姿しか思い出せないクラスメイトの話、だ。
「でもそっか、辻は、同じクラスだったよね。三年生のときに辻と同じクラスになって、幸恵だけ違うクラスになっちゃって恨まれたっけ。当時は申し訳ない気がしないでもなかったけど、今思うと、そんなことで恨まれてもねえって感じ」
 そんなことを思い出して、今度幸恵に会ったら文句言ってやろう、と言うたか子に、由羽は、幸恵ちゃんも今さらそんなこと言われてもねえって感じじゃないの? と、返した。それもそうか、とたか子が笑うから、ちゃんと、笑うから、由羽もきっと、ちゃんと笑えていたはずだった。
 笑えていなければきっと、気付かれる。
 辻、と、たか子が呼ぶ昔のクラスメイトを。由羽は無意識に、心の中で、なんと、呼んでいるのか。
 由羽が思い出す、辻君、は、中学生の姿、なんか、していない。
 クラスメイトでも、特に仲がいいわけじゃなかった。友達が好きな男の子、というだけだった。思い出そうと思っても、よく、思い出せない。
 思い出そうと思って思い出せるのは、教室で机を並べていたあの頃の姿、ではなくて。
 ……下腹が、痛くて、下腹部を抱えた。
 お腹が痛い、のに。メールをしたのに。由羽はたか子の部屋にいる。たか子の部屋で、靖宏を、思い出す。
「由羽? お腹、痛い?」
 たか子が覗き込んでくる。由羽は、うなずいて、それから横に、首を振った。
「痛……いけど、大丈夫」
 鈍くて強い、大きなまあるい重いものが乗り上げたような痛みを、やり過ごして、
「横になる? ご飯、食べれる?」
「……ご飯、食べる」
「食欲あるなら、大丈夫だね」
 純粋に由羽の心配をするたか子が安心をして、由羽も安心した。
 たか子に、言えないことがある。
 誰にも言えないことがある。
 お腹が痛い。
 痛い、からいつも呼ぶひとが。
 呼べば来てくれるひとが来ない、から。来ないひとのことを考える。
 来ないひとのことばかり、考える。
「……ばか、じゃないの……っ。最悪」
 由羽は、たか子には聞こえないように、口先で呟いた。腹痛に奥歯を噛み締めた。
 お腹が痛い。
 でも、お腹が痛かったわけじゃ、ない。
 メールをした、のに。靖宏が来ない。
 いつもはたったそれだけのことであの部屋に連れて行ってくれる、思い通りに行かなくて、どんな文句をどんなに言っても、軽く受け流してくれるひと、が。
 傍にいない。
 メールをするだけで簡単に会えるはずのひとが、いない。
 靖宏に文句を言ったわけじゃない。
 靖宏に文句が言いたくなった勝手な自分を、ばかじゃないの、と思っただけ。
 靖宏に文句を言っても仕方がない。無理に、由羽に、付き合ってくれているだけの、ひとに、そんなこと、言っていいわけが、ない。
 でも、やっぱり、靖宏にも文句が言いたい。
 文句が言いたい。文句を聞いて。
 こどもを甘やかすみたいに甘やかして。
 そっけなくてかまわないから、どうでもいいみたいな態度でかまわないから、いつも少しかさついている手でかまわないから、その手でお腹を撫でて。
 いつものように、いつもの手で、そうして。
 その手で……。
「由羽?」
 今、そばにいる、たか子の手は、箸を持ったまま、で。
 由羽は小さく笑った。
 たか子の手は、由羽のお腹を撫でたりはしない。たか子に、撫でて欲しいわけでも、ない。
 由羽は食事を続ける。
 早く、生理が来ればいい。
 こんな気持ちも、痛みもぜんぶ、全部、流れていけばいい。


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