〜 月、ゆらり 1 〜





 月が満ち欠けを繰り返すように、由羽も繰り返していた。
 月は満ち欠けを繰り返す。由羽も満ち欠けを繰り返す。
 気分が、満ちたり欠けたり。
 月ならば、満ちていても欠けていても月だけれど。
 欠けてしまった由羽は由羽ではない。
 ふと通り過ぎた鏡を見て、誰? と瞬きする。
 立ち止まって鏡に触れる。鏡にぶつかった指先が冷たい。
 ……誰、だっけ?
 鏡の中の自分に問いかける。
 会社帰りの制服姿で、髪は……大丈夫、そんなにぼさぼさじゃない、けど、少し茶色にしすぎて、この間上司に怒られた。この次は気をつけないといけない。でも眉と口紅はきれいに描けてる。ただ少し、眠そう。
「……わたし、だ」
 我に返ると、周りの雑音が聞こえてきた。
 鏡の中には由羽と、見慣れた景色がある。
 ショッピングモール、というべきか、ショッピングセンター、というべきか。
 吹き抜けの真ん中に引っかかっているカラフルに装飾された時計がもうすぐ六時を差す。
 由羽は衣料品に囲まれた場所の、角に置かれた姿見の前に立っていた。手荷物が多い。今日発売の雑誌を買った。もうそろそろ寒くなるから、と会社の制服用にタイツを買った。上着はとりあえず去年のものを着ておけばいい。新しいものはボーナスが出るまで我慢して。でも、マフラーは新しいのが欲しい。
 そんなことを考えていたはずだった。
 なんとなく、はっきりしないけれど。
 鏡の中で跳ねた毛先を直す。
 その、鏡から顔を上げたとき、ちらりと、目が、合った。
 角度的に鏡の中にはいなかった彼らと、現実で、目が合った。
 ただ、目が合っただけだ。と思った。
 同時に、まずいな、と思った。
 由羽は吹き抜けの時計を見上げる。別に、時間を見たわけじゃない。それでも時計を見たまま歩き出す。
 彼ら、が、後を着いてくる気配に下腹部をさすった。
 由羽の気分は満ちたり欠けたりする。
 その周期は、ひと月。ちょうど、ひと月。
 今は、欠けている。
 だけれど、もうすぐ満ちるから、それまで誰もわたしに触らないで、と思う。
 わたしに触らないで。
 わたしを傷付けないで。
 わたしに、傷付けさせないで。
 満ちていない月は、丸くない。丸くないから、触ると、傷が、付くよ。
 だから、放っておいて。
 あと、数日、だから。
 そう、思うのに。
 早足でエスカレーターに乗った由羽の後を、彼ら、が着いて来る。
 まさか、と思う。
 気のせいだろう、と思う。
 ……いや、気のせいではなくて。
 彼ら、が笑う。
 由羽の背中に向って、笑う。
『……決まりだろ?』
『決めとけよ』
『こいつ?』
『いーじゃん、これで』
 小さな声で笑っている。でも、なにを言っているのか聞こえる。由羽はそ知らぬ振りをするけれど。
「ねえ」
 明らかに、呼ばれて。
 びくりと由羽の肩があがった。
 彼ら、がまた笑う。
 由羽は振り返らない。
「ねえ、おねーさん」
 確か三人、のはずだった。
 一瞬だけ見た彼らは、まだ高校生か大学生か、とにかく学生だったように思う。嫌な感じはした。そういう意味の、嫌な感じ、だったのか、と思う。
「お仕事ごくろーサマ。これからいーとこ行かない?」
 眼差しだけで辺りを見回した。
 誰もいない。
 うそ、いやだ。
 助けて。
「気持ちよくさせてあげるけど、どう?」
 かつん、と一歩近付く音がした。
 下りのエスカレーターで、由羽は身動きできずに、手摺の上で手の平を握り締めた。
「おれらと付き合ってよ」
 すぐ、傍でした声から。
 走って、逃げればいい。
 なのに、足が動かない。
 怖い……のもある。逃げたって、追いつかれたら三人を相手に抵抗なんてできない。
 でも、それよりも。
「おねーさん、どーせヒマでしょ?」
 それよりも、由羽が耐えられなかったのは。
 ……泣きたくなったのは、我慢ができないのは。
 からかわれていること。
 どうしてわたしなの?
 他にいくらだって人はいるのに。
 我慢ができない。
 人を小馬鹿にして楽しい?
 そして、わたしは……。
 由羽は荷物を握り締める。がさ、と雑誌の入ったビニル袋が音を立てる。
 今、この瞬間に傷付いた自分に気が付く。
 からかわれているのに違いない自分と。
 今、ここにいる人間が自分でなければいいのに、と思った自分。
 わたしじゃなくて、他の人にしてよ。
 他ノヒトナラドウナッテモイイノニ。
 ……由羽は泣きたくなる。
 ほら、こんなことで傷付くから、だから触らないでって言ってるのに。今日はまだ、ダメなのに。
 エスカレーターの終わりで、とん、と由羽はつまづいた。階段が床に吸い込まれていくのを見て、足を上げなくちゃ、と思った。思っただけでできなかった。
 目に見える空間は広いのに、まるで自分の足元にしか地面がないような気分になった。踏み出したらどこかへ落ちてしまうような気がした。
 だから、とん、とつまづいた。
 つまづいて傾いたからだの、その、腕を、掴まれた。
 不意に、強く、掴まれて、由羽は悲鳴を上げた。



 ……後に、なって。
「あれはすごい悲鳴だった」
 靖宏が思い出してはおかしそうに言うセリフを、由羽はまるで夢の中で聞く。
「そう?」
「そりゃ、もう」
 肌に染み込むような声を、聞く。
 耳元の髪をかきあげてなぞる指の体温を、あのとき、強く掴まれた腕に残った体温と照らし合わせて、なんとなく、今のほうが暖かい、と思う。
 暖かさに引き寄せられるように、猫が、じゃれつくように、傍にある靖宏の手に頬を寄せた。
 甘えた仕草に、
「なんだよ?」
 と聞かれて。
「気持ちがいい」
 いつもの空間で、肌を寄せながら。
 かすれた小さな明かりの中で、靖宏は、ベットの上の自分を跨いで見下ろす由羽の髪を指に絡める。
 由羽の長い髪は靖宏の肌の上に落ちて、跳ねる。
「髪、伸びたなあ」
「そう?」
「伸びただろ?」
「そんなに?」
「半年分」
 ふたりが再会したのは十月の終わりだった。
 それから半年で。
 でも、過ぎたのは、時間だけ。
「小倉は……」
 言いかけて口を噤む。靖宏は由羽の名前を、おまえ、と言い直した。
「おまえ、変わんないなあ」
「髪、伸びたでしょ?」
「じゃなくて」
「靖宏の抱き方には、慣れたよ?」
「……じゃ、なくて」
「なに?」
 なあに?
「……靖宏?」
 やすひろ、と呼ぶ由羽を。
 靖宏は静かに見上げたまま、ふと、時間を気にした。
「時間、まだあるよな」
 由羽に聞いたわけじゃない。自分自身に聞いた、ようだった。
 由羽は枕元の靖宏の携帯を見て、
「わたしの時間なら、いくらでもあるよ」
「いくらでも?」
「……いくらでも」
 下腹を、撫でながら。
 靖宏に落とした眼差しは、そのまま、どこか遠くを見る。
「予定、今月はいつだっけ」
 問いかけではない。
 問いかけるべき由羽は、今は、ここにはいない。
 今の由羽は欠けている。欠けていて、由羽ではなくなっている。
 だから由羽には聞いていない。ここにいる、ただ、その人に、聞いている。
 由羽は、満ちたり欠けたり、するから。多分もうすぐ満ちるはずだけれど、今はまだ、欠けているはずだから。
「お腹、痛くなってきたから、もうすぐ」
「そーゆうもん?」
「うん、わたしのからだは、そーゆうもん。明日か、明後日、か」
 下腹を痛そうに撫でながら、その日を待ち遠しそうにする。
 待ち遠しそう、ではなくて、待ち遠しい。
 月に一度、からだが、満ちる日。
「生理、早く来ないかな、なんて、昔は思ったことなかったんだけどなあ」
 表情のない顔で呟いて、
「時間、まだ、あるよ?」
 笑ったつもりの顔は、少しも笑っていない。
 いつも、そう。
 いつもいつも、そう。
 靖宏は由羽を、胸に、抱き寄せた。
「俺、明日、明後日は残業だから、今日は気の済むまで付き合ってやるよ」
「うん」
 由羽の唇が靖宏の胸に吸い付く。
 欠けた、由羽は、靖宏を求める。
 満ちたからだが欠け始めて、そうしてまた満ちていく。満ちるまでの数日が、生理が始まるまでの数日が、由羽には、ときに、生きることすら辛い日々になる。
 女のからだはバランスが悪い。
 由羽のからだは、バランスが、悪い。
 ストレスだとか、ホルモンのバランスだとか言うけれど。
 ただ、辛い。
 イライラしたり、かと思えば不意に泣きたくなったり。いつもいつも眠かったり、吹き出物ができたり。からだのバランスが取れなくて。気持ちの、バランスが取れなくて。ひどくテンションが上がったかと思えば鬱になる。
 満ちるまでは欠けている月のように、バランスが悪い。
「明日も、明後日も残業なんて……じゃあ、次はまた、来月、だね」
「そう、だなぁ」
 毎月、毎月。
 同じホテルの、可能な限り同じ部屋で。
 欠けた由羽は靖宏に逢う。
 靖宏は欠けた由羽に逢う。
 満ちた由羽が靖宏に逢う事はない。これまでには、なかった。


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