〜 月、ゆらり 0 〜





 水面に浮かんだ月のようだ、と靖宏が言った。
 どんな、顔で、言った?


     ◇


 正気だったのなら、そもそも電話なんてしなかった。
 だから、正気じゃなかった。
 もちろん、今、この瞬間だって正気じゃない。
 きっとね。
 と、由羽は言う。
 靖宏は笑って聞いていた。
 呆れたように、それから、心の底から、おもしろそうに。
「だって、人も殺せちゃうんだよ」
 由羽は自分がどんな顔をしてそんなことを言っているのか、興味があった。
 笑って言ったつもりだったけれど、本当に笑っていただろうか?
 由羽の表情を知っているのは靖宏だけだ。聞いたら、教えてくれるだろうか。
「突発的に、ね。自分も殺せる。とにかくなんだかココロがおかしくなるんだよ。そういう時期、だから、罪が罪にならないこともあるんだって。精神鑑定? とかで……って、そんな話、聞いたことがある」
「おかしい、んだ?」
「……うん」
 靖宏に聞かれて、由羽は俯いた顔を両手で覆った。
 ふたり、ベットの上で、素肌にシーツがすべる音がする。
「おかしいんだよ。だから、正気じゃないって、言ってるでしょ?」
「ふうん」
 靖宏の返事は、靖宏の表情に似ていた。呆れているのか、おもしろがっているのか。
「でも、俺には悪くなかったけど」
 靖宏は由羽の手を取る。
 触れ合ったふたりの指先は熱かった。
 同じ体温なのは、同じ行為を終えた後だから。
 由羽は、泣いていた。
 自分では笑っているつもりだったのに、泣いている。
 ほら、と靖宏はおもしろいものを見つけたように眉を上げた。
 ほら。
「そういうのも、悪くない」
 手を取り、腕を取り、ベットに押し倒す。備え付けのクッションのような大きな枕に由羽は沈み込む。
 靖宏は泣く由羽を見下ろす。
 泣いている。でも、怯えているわけじゃない。
「正気じゃないから、そんなかわいい顔するんだろ」
「かわ、いい?」
「ここ以外じゃ、見れない顔なんじゃないの?」
「どうかな……知らない」
 泣いている。でも、冷静な声だった。
 冷静なまま、頬をなぞった靖宏の手に、
「まだ、する?」
「今度は俺に付き合えよ」
「……うん」
 どうぞ、と目を閉じると、溜まっていた涙が溢れて零れた。
 靖宏は由羽の首筋に唇を落とす。
 シーツを握り締めたのは、由羽には無意識だった。だから由羽はそんな自分に気が付かない。
 靖宏は気が付いた。そんな、由羽、に、気が付いた。
 シーツを握り締めるのにも、掴んだままの腕が微かに震え続けていることにも、最初から少しも笑っていないことにも。
 今、怯えているわけではないけれど。
「正気に戻ってから、俺を殺したりするなよ?」
 至極真面目にそんなことを言った靖宏に、由羽は笑って見せた。
「正気な人間は、そんなことしないんだよ?」
 由羽は、笑って見せたつもりだった。
 今度こそ本当に笑っていた?
 知っているのは靖宏だけだ。


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