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広く美しい、と書いて「広美」
あの名前にもっと別の意味があるのかどうかとか、そんなことは別にどうでもよかった。
「……広美」
と呟いてみた。でもどうもしっくりいかなくて、
「おねーさん」
と言い直した。
やっぱりこっちの方がいい。
だって、その名前に思い入れがあるわけじゃない。名前なんてどうでもいい。
あの女だって、はじめは、おねーさん、だった。
あの女……親父と並んで歩くにはずいぶん不釣合いな、若い、おねーさん、だった。いやらしい、遊びなれた女だった。
手を、出してきたのは向こう。
……僕じゃない。
「え、おまえヤったの? まじで?」
もう何度ヤったか数えるのもやめた頃に、夕太に言った。
「やっぱ、いい?」
「そりゃね」
手を出せば、いい顔をした。いい声をあげた。それが気持ちよかった。興味なんかあるに決まってた。クラスの奴ら、まだ誰もケイケンしてなくて、優越感もあった。
ヤりたいときには勝手に来て、ヤらせてと言えばヤらせてくれた。
まさか、そのおねーさんが母さんになるとは思わなかった。
「ハハオヤ? うわ、あのおねーさんが?」
中学に上がって、今までなかった制服を着て同じ格好した夕太は、ちょっと予定外の顔をした。
「そーゆうの、ありなんだ?」
「あり、って?」
別に、軽蔑されたりとか、そういう顔を予想したわけじゃないけど。
「オレ、ねーちゃんとヤりたいんだけどさあ」
……ちょっと、かなり予想外、だった。
「おねーさんて、おまえの? あの?」
「そう、オレの、あの」
何度か、見たことがあった。一度だけ喋ったことがある。でも多分、おねーさんはそんなこと覚えてない、ような気がする。あの、おねーさんは。
「……あほか」
さすがにモラルが夕太を止めようとはした。一応。
「クラスのヤツにしとけば?」
「やだよ」
「なんで? おまえけっこう人気じゃん。僕、何度か橋渡し頼まれてるんだけど。その中のどれかにしとけば?」
「やだってば。興味ないし」
「……ねーちゃん、には興味あんの?」
夕太は気に入らない顔をした。でもからかったのにむっとしたわけじゃなくて、
「彼氏……」
「は?」
「彼氏、できた」
「おねーさんに?」
「そう」
「……へえ」
おねーさんの姿、思い出しながら、
「でもまあ、それくらい、そりゃできるでしょ」
思い出したのは、一度だけ、喋ったときのこと。雨が、降ってた。雷、鳴ってた。一年と少し前、だっけ。あの女……由貴子さんと、出合う前の話。
……おねーさんは、楽しそうに、笑ってた。
「彼氏なんてできたら、ねーちゃんもヤるよね」
「僕ならヤっとくけどね」
「ほらみろ」
「……僕がおねーさんの彼氏ならね」
「弟じゃやんないのかよ」
「やんないよ」
「オレはヤリタイんだよ」
「ヘンタイかよ」
「和之んとこのママハハほどじゃないと思う」
そうか? と思ったけど。出てきた言葉は、
「……まあね」
だった。
あの女、僕を息子にする予定があったんだ。なのに、手を出した。
途端に、すとんと、胸の奥のほうになにかが落ちた。穴が空いて、すかすかで、埋めたい衝動に駆られた。
なにで、埋める?
「……おねーさんと、そんなにヤりたいの?」
「おう」
「ふーん」
夕太がおねーさんに愛とか恋とかしてるのか、とか、そんなことはどうでもよかった。本当に、どうでもよかった。
「じゃあまあ、ヤっとく?」
たった一度喋ったあのとき、あんなふうに楽しそうに笑ってたおねーさんの乱れた姿を見てみたいと思った。
「レクチャーしてやるよ」
そうしたら、きっと、二度とあんなふうに笑わなくなる。
「レクチャー?」
「無理矢理するのもそれはそれでいいけど、夕太だってどうせなら気持ちよくしたいだろ。おねーさんも気持ちよくしてあげれば? 一緒に気持ちよくなっといたら、後から文句も言わないんじゃないの?」
「そーゆうもん?」
「言えないでしょ、さすがに」
今さら、僕だってあの女に文句を言う気はない。あなたもよかったでしょ? なんていわれたら返す言葉がない。親父にあの女との関係がバレるのも避けたい……いっそ、バラしてやりたい気もするけど。
「まあ、おねーさんなら文句どころか、誰にもなんにも言えないんじゃないの? 弟とヤりました、しかも気持ちよかったです、なんて、普通はさ」
「普通……」
夕太がふと、なにか不都合なことでも思い出したみたいな顔をした。
「なに?」
「和之、おまえさあ」
「なんだよ」
「後悔とか、すんなよ?」
「はあ? なんで僕が? するなら夕太のほうだろ」
「オレはしない。後悔するようなことは、はじめっからねーちゃんにだけはしない」
意味、ありげに。
「ねーちゃん、忘れるから」
「は?」
「なんか、そーゆう体質らしくてさあ。でもオレは忘れてもらう気ないから、ヤったことは一生覚えといて貰うから、おまえが、後悔とかすんなよ」
「……するかよ。てゆーか、夕太の言ってること意味わかんないんだけど」
「実際、和之はそーゆうねーちゃん、見てないからなあ」
「そういうおねーさんもなにも、ほとんどおねーさんのことなんて知らないんだけど」
「んじゃ、後悔もしないか」
「多分ね」
「多分、じゃ困る。誓え」
「……おねーさんをレイプして後悔しません、って誓えって?」
「誓え」
「……誓う誓う」
それらしく右手を自分の胸元に上げて、どっかの誰かに誓う。
「それで、いつすんの?」
「んー、なるべく早く、できれば今すぐ。小川クンがねーちゃんに手、出す前に」
「だからいつだよ」
「……来週、だな。ちょうど父さんと母さんの夜勤が重なる日があるから」
時間なんて、すぐに過ぎる。すぐに来る。
夕太の家で、夕太の部屋で。
おねーさんは簡単に夕太のものになった。
それからすぐに、僕のものになった。
そのまま、そのままで、その時間が過ぎていくんだと思ってた。
夕太とヤった後に僕を見たおねーさんは、ひどく怯えた顔をしたのに。笑ってなんかいなかったのに。
「ねえ、ねえ、きみ」
おねーさんが、僕に声をかける。
おねーさんの学校の校門の前で、ついこの間、ここでおねーさんを捕まえた場所で。
今日は雨が降ってる。
初めて、おねーさんと喋ったあの日、みたいに。
「きみ、傘持ってないの? 風邪ひくよ?」
おねーさんは、笑ってる。
僕を、きみ、と呼んで。
僕のことなんかまるで知らない顔をして。
ここで待ち伏せをして、僕を見て驚く顔を、嫌がるかもしれない顔を、見てやろうと思ったのに。
「……体質……ねえ」
全部、忘れてる? 本当に?
思った途端、愕然と、した。……でも、なにに?
僕はなににそんなに愕然としてる?
……知らない。どうでも、いい。
「きみ、誰か待ってるの? 傘、貸してあげる。どうぞ」
オレンジ色の傘をさしたおねーさんは、カバンと一緒に持っていた袋の中から折りたたみの傘を出した。隣の友人がおもしろそうに笑った。
「広美、なんで、二本も持ってるの?」
「……うっかり」
拗ねたように、でも、笑う。
「あ、傘、あげるよ。いらなかったらその辺の植え込みに立てかけといて。見つけたら回収するから」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
かわいく、笑う。
自分がもう処女じゃないこと、知らない顔で。弟に犯されたこと、知らない顔で。
オレンジ色の傘は遠ざかっても、楽しそうに友人と笑い合ってるのが聞こえた。
……笑ってる。
忘れてる。
なんで?
『後悔するなよ』
夕太の言葉を思い出した。
後悔? 僕が?
まさか。
だってこれは……。
それに、だいたい、どうして僕が後悔したからっておねーさんが忘れたりするのか。意味わかんないし。
だって、これは。
ただの、
「……ゲームだよ」
ゲーム、だよ。最初からそう言ってるはずだった。
「ただのゲームだよ」
だからもう少し楽しもうよ。
「なに自分だけ忘れてるの?」
もらった傘を開いた。これもオレンジの傘だった。
振り返ると、おねーさんのオレンジの傘はもう、どこにも見えなかった。
3 オワリ
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