3 
 
 
 広く美しい、と書いて「広美」 
 あの名前にもっと別の意味があるのかどうかとか、そんなことは別にどうでもよかった。 
「……広美」 
 と呟いてみた。でもどうもしっくりいかなくて、 
「おねーさん」 
 と言い直した。 
 やっぱりこっちの方がいい。 
 だって、その名前に思い入れがあるわけじゃない。名前なんてどうでもいい。 
 あの女だって、はじめは、おねーさん、だった。 
 あの女……親父と並んで歩くにはずいぶん不釣合いな、若い、おねーさん、だった。いやらしい、遊びなれた女だった。 
 手を、出してきたのは向こう。 
 ……僕じゃない。 
「え、おまえヤったの? まじで?」 
 もう何度ヤったか数えるのもやめた頃に、夕太に言った。 
「やっぱ、いい?」 
「そりゃね」 
 手を出せば、いい顔をした。いい声をあげた。それが気持ちよかった。興味なんかあるに決まってた。クラスの奴ら、まだ誰もケイケンしてなくて、優越感もあった。 
 ヤりたいときには勝手に来て、ヤらせてと言えばヤらせてくれた。 
 まさか、そのおねーさんが母さんになるとは思わなかった。 
「ハハオヤ? うわ、あのおねーさんが?」 
 中学に上がって、今までなかった制服を着て同じ格好した夕太は、ちょっと予定外の顔をした。 
「そーゆうの、ありなんだ?」 
「あり、って?」 
 別に、軽蔑されたりとか、そういう顔を予想したわけじゃないけど。 
「オレ、ねーちゃんとヤりたいんだけどさあ」 
 ……ちょっと、かなり予想外、だった。 
「おねーさんて、おまえの? あの?」 
「そう、オレの、あの」 
 何度か、見たことがあった。一度だけ喋ったことがある。でも多分、おねーさんはそんなこと覚えてない、ような気がする。あの、おねーさんは。 
「……あほか」 
 さすがにモラルが夕太を止めようとはした。一応。 
「クラスのヤツにしとけば?」 
「やだよ」 
「なんで? おまえけっこう人気じゃん。僕、何度か橋渡し頼まれてるんだけど。その中のどれかにしとけば?」 
「やだってば。興味ないし」 
「……ねーちゃん、には興味あんの?」 
 夕太は気に入らない顔をした。でもからかったのにむっとしたわけじゃなくて、 
「彼氏……」 
「は?」 
「彼氏、できた」 
「おねーさんに?」 
「そう」 
「……へえ」 
 おねーさんの姿、思い出しながら、 
「でもまあ、それくらい、そりゃできるでしょ」 
 思い出したのは、一度だけ、喋ったときのこと。雨が、降ってた。雷、鳴ってた。一年と少し前、だっけ。あの女……由貴子さんと、出合う前の話。 
 ……おねーさんは、楽しそうに、笑ってた。 
「彼氏なんてできたら、ねーちゃんもヤるよね」 
「僕ならヤっとくけどね」 
「ほらみろ」 
「……僕がおねーさんの彼氏ならね」 
「弟じゃやんないのかよ」 
「やんないよ」 
「オレはヤリタイんだよ」 
「ヘンタイかよ」 
「和之んとこのママハハほどじゃないと思う」 
 そうか? と思ったけど。出てきた言葉は、 
「……まあね」 
 だった。 
 あの女、僕を息子にする予定があったんだ。なのに、手を出した。 
 途端に、すとんと、胸の奥のほうになにかが落ちた。穴が空いて、すかすかで、埋めたい衝動に駆られた。 
 なにで、埋める? 
「……おねーさんと、そんなにヤりたいの?」 
「おう」 
「ふーん」 
 夕太がおねーさんに愛とか恋とかしてるのか、とか、そんなことはどうでもよかった。本当に、どうでもよかった。 
「じゃあまあ、ヤっとく?」 
 たった一度喋ったあのとき、あんなふうに楽しそうに笑ってたおねーさんの乱れた姿を見てみたいと思った。 
「レクチャーしてやるよ」 
 そうしたら、きっと、二度とあんなふうに笑わなくなる。 
「レクチャー?」 
「無理矢理するのもそれはそれでいいけど、夕太だってどうせなら気持ちよくしたいだろ。おねーさんも気持ちよくしてあげれば? 一緒に気持ちよくなっといたら、後から文句も言わないんじゃないの?」 
「そーゆうもん?」 
「言えないでしょ、さすがに」 
 今さら、僕だってあの女に文句を言う気はない。あなたもよかったでしょ? なんていわれたら返す言葉がない。親父にあの女との関係がバレるのも避けたい……いっそ、バラしてやりたい気もするけど。 
「まあ、おねーさんなら文句どころか、誰にもなんにも言えないんじゃないの? 弟とヤりました、しかも気持ちよかったです、なんて、普通はさ」 
「普通……」 
 夕太がふと、なにか不都合なことでも思い出したみたいな顔をした。 
「なに?」 
「和之、おまえさあ」 
「なんだよ」 
「後悔とか、すんなよ?」 
「はあ? なんで僕が? するなら夕太のほうだろ」 
「オレはしない。後悔するようなことは、はじめっからねーちゃんにだけはしない」 
 意味、ありげに。 
「ねーちゃん、忘れるから」 
「は?」 
「なんか、そーゆう体質らしくてさあ。でもオレは忘れてもらう気ないから、ヤったことは一生覚えといて貰うから、おまえが、後悔とかすんなよ」 
「……するかよ。てゆーか、夕太の言ってること意味わかんないんだけど」 
「実際、和之はそーゆうねーちゃん、見てないからなあ」 
「そういうおねーさんもなにも、ほとんどおねーさんのことなんて知らないんだけど」 
「んじゃ、後悔もしないか」 
「多分ね」 
「多分、じゃ困る。誓え」 
「……おねーさんをレイプして後悔しません、って誓えって?」 
「誓え」 
「……誓う誓う」 
 それらしく右手を自分の胸元に上げて、どっかの誰かに誓う。 
「それで、いつすんの?」 
「んー、なるべく早く、できれば今すぐ。小川クンがねーちゃんに手、出す前に」 
「だからいつだよ」 
「……来週、だな。ちょうど父さんと母さんの夜勤が重なる日があるから」 
 
 時間なんて、すぐに過ぎる。すぐに来る。 
 
 夕太の家で、夕太の部屋で。 
 
 おねーさんは簡単に夕太のものになった。 
 
 それからすぐに、僕のものになった。 
 
 そのまま、そのままで、その時間が過ぎていくんだと思ってた。 
 夕太とヤった後に僕を見たおねーさんは、ひどく怯えた顔をしたのに。笑ってなんかいなかったのに。 
 
「ねえ、ねえ、きみ」 
 おねーさんが、僕に声をかける。 
 おねーさんの学校の校門の前で、ついこの間、ここでおねーさんを捕まえた場所で。 
 今日は雨が降ってる。 
 初めて、おねーさんと喋ったあの日、みたいに。 
「きみ、傘持ってないの? 風邪ひくよ?」 
 おねーさんは、笑ってる。 
 僕を、きみ、と呼んで。 
 僕のことなんかまるで知らない顔をして。 
 ここで待ち伏せをして、僕を見て驚く顔を、嫌がるかもしれない顔を、見てやろうと思ったのに。 
「……体質……ねえ」 
 全部、忘れてる? 本当に? 
 思った途端、愕然と、した。……でも、なにに? 
 僕はなににそんなに愕然としてる? 
 ……知らない。どうでも、いい。 
「きみ、誰か待ってるの? 傘、貸してあげる。どうぞ」 
 オレンジ色の傘をさしたおねーさんは、カバンと一緒に持っていた袋の中から折りたたみの傘を出した。隣の友人がおもしろそうに笑った。 
「広美、なんで、二本も持ってるの?」 
「……うっかり」 
 拗ねたように、でも、笑う。 
「あ、傘、あげるよ。いらなかったらその辺の植え込みに立てかけといて。見つけたら回収するから」 
「……ありがとう」 
「どういたしまして」 
 かわいく、笑う。 
 自分がもう処女じゃないこと、知らない顔で。弟に犯されたこと、知らない顔で。 
 オレンジ色の傘は遠ざかっても、楽しそうに友人と笑い合ってるのが聞こえた。 
 ……笑ってる。 
 忘れてる。 
 なんで? 
『後悔するなよ』 
 夕太の言葉を思い出した。 
 後悔? 僕が? 
 まさか。 
 だってこれは……。 
 それに、だいたい、どうして僕が後悔したからっておねーさんが忘れたりするのか。意味わかんないし。 
 だって、これは。 
 ただの、 
「……ゲームだよ」 
 ゲーム、だよ。最初からそう言ってるはずだった。 
「ただのゲームだよ」 
 だからもう少し楽しもうよ。 
「なに自分だけ忘れてるの?」 
 もらった傘を開いた。これもオレンジの傘だった。 
 振り返ると、おねーさんのオレンジの傘はもう、どこにも見えなかった。 
 
 
3 オワリ 
 |