真上から照らしてくる太陽を、リンは畑の真ん中で恨めしげに見上げた。夏が長いとは聞いたけれど、いったいいつになったらこの夏は終わるのか。
少し髪が伸びた。髪が伸びれば結いやすくなる。そんなシュンリの期待とは逆に、リンには伸びるほど手に負えなくなっていく。水泳教室の後は崩れてしまった髪をポニーテールにしているだけだった。近頃ではそんなリンの髪型を真似る少女たちも出てきた。
「手が止まってるよ、姉さん」
ユワンは水を汲んできたばかりのおけを下ろす。リンはユワンも、じっとりと恨めしげに見上げた。気が付けばいつのまにか身長を追い越されている。成長期の少年は侮れない。
「なに睨んでるのさ」
「ユワン、雨が降ったら、もう水撒きなんてしなくてよくなるって言ったよね」
「猛暑なんだからしょうがないよ」
ユワンはリンが持っていた空になったおけを取り上げる。リンは、あまりにも当たり前の事実を述べるユワンに反論できない。なんだか悔しい。悔しい顔をしていると、見抜いたようにユワンは唇の端を上げた。楽しそうだ。さらに悔しい。
さっさと自分の持ち場について水を撒こうとするユワンを追いかけて、がっしりと腕を掴もうとして、やめて、やめた手をひらひらさせる。リンはこんな調子であまりユワンに触れようとしなかった。
「やっぱり水路があったほうがいい。来年の雨で流されるなら、またすぐに作り直せるような簡単なものにすればいいじゃない」
ユワンは、もう少しで掴まれそうになった自分の腕を見下ろす。その腕が気になって、もう片方の手でさすった。
「無理だってば。掘っただけじゃ水は水路に染み込むばっかで流れてなんて行かないし、だからって、コンクリートやアスファルトで固めたら、それが邪魔して来年から土の入れ替えができなくなるかもしれない」
「大丈夫。いい考えがある」
リンは水の入ったおけをユワンに持たせると、村の外れまで移動した。そこには大きな穴が掘ってあって、春先の暴動で崩れた家を修理した際に出た、くずになったレンガがまとめてあった。
リンは大穴の脇の地面に小さな穴を掘って、そこに水を入れてみた。水はあっという間に染み込んでしまう。ほら見ろ、という顔をユワンがした。
リンは今度は、小さな穴の中にレンガを細かく砕いて敷きつめてみた。そうして水を入れると、不思議なことに水はいつまでもそこに溜まっていた。
「あの大雨の後にここに来てみたら、水が溜まったままだったの」
だからね、と水路の長さと必要なレンガの量を、座り込んだ地面の上で計算する。
「姉さん、違うよ、そこ」
間違いを指摘されて、リンはもう一度初めから計算し直す。出てきた答えは同じだった。
「あれ?」
「だからさ、ここの計算が違うんだってば」
もう一度指摘されて、リンも間違いに気が付く。ついでに、ユワンが計算ができる、ということにも気が付いた。
「タンヤンは簡単な計算もできなかったのに」
「なんでそこにタンヤンが出てくるんだよ」
「なんでって、魚売るのに困るから、知ってたら教えてって言われて、それで、ここのみんなが計算できてないことに気が付いただけで……」
「じゃあ他の奴の名前出せばいいじゃないか。いちいちタンヤンの名前なんか出さなくていいよ」
気に入らなげに、正しい答えの出てきた計算式を蹴飛ばして消してしまう。それからすぐに乱暴なことをした自分に後悔して、今度は苛立たしげに、また地面を蹴る。
近頃、タンヤンはなにかとリンに声をかけてくる。タンヤンが自分の気持ちに正直に行動しているのは、村の誰の目にも明らかだった。リンのためならすぐに飛んでくる。その度にユワンはこんな態度を取った。
タンヤンもわかりやすいけれど、ユワンもわかりやすいねえ、とシュンリやヨウシュは言うけれど。
「ユワンは、そんなにタンヤンのこと嫌いなの?」
「前から好きじゃないよ」
「あ、そう」
リンにはなんだかよくわからない。以前に増して、気紛れだなあと思うくらいで、わからないうちに、水路は造るけどタンヤンには手伝わせない、という条件がいつの間にか決まっていた。
溝を掘るのも、レンガを細かくするのも、子供たちにとっては遊びの延長のようだった。
「リーン、ひとやすみのとき、この本よんで」
子供たちは暇を見つけてはリンに話をせがんでいた。チェンチーが先頭になって絵本を持ってきた。
「どうしたの、この本」
「しょこで見つけた。ユワンがこっそり入っていったから、ぼくたちもみんなでこっそり入ってもってきたの」
「ショコ?」
「書庫だよ。学校の」
ヨウシュは溝を掘る鍬を担いで、リンが受け取った絵本を覗き込んだ。
「学校?」
「なに驚いてんの。学校くらいあるよ。一応」
「一応って……みんな行ってないよね?」
「だってずーっと休校中だもん。オレ行ったことないし。ずっと不作だったじゃん。こんな村に教師になってくれる人なんて寄りつかないよ。勉強する暇あったら、畑に水撒きしなくちゃいけななかったしさ。書庫はいつでも開いているんだ。というか、放置されてるだけだけど。兄さん、前はよく行ってたみたいだけど、色々あったし、でもこの頃時間見つけてはまた行ってるみたい」
「で、そこで仕事さぼってるの?」
もともとユワンは水路造りに乗り気ではない。休憩しようか、とリンは絵本をヨウシュに押しつけた。
「ユワン連れ戻してくるから、それまで読んでてあげて」
「ダメダメ。オレ読めない。この辺だと、兄さんしかまともに読めないよ」
「そうなの?」
「だからリン姉が読んでやってよ。オレ、兄さん連れてくるから」
「ダメダメ。わたしも読めない」
「そうだっけ?」
なんで? とヨウシュは思わず聞いてしまった。はっとして、それから、そうだよね、と言いながら鍬を下ろした。
「誰も姉さんに、字、教えてなかったっけ」
この村には、簡単な文字でさえ読めない人はたくさんいる。例外は、ユワンだけだった。
「ユワン? どこにいるの?」
リンは教えてもらった書庫のドアを開ける。埃の匂いと、古い紙の匂いがした。壁は民家と同じレンガだけれど、この辺りでは珍しく床板がきちんと張ってある。歩くたびに板がきしむ音がした。
書庫の一番奥で、ユワンは座り込んで本を読んでいた。リンの姿に顔も上げない。
「なんの用?」
ぶっきらぼうな声だけを返す。
「仕事サボっておいてその言い草はなによ」
リンは、ついシュンリがいつもそうしているように腰を手に当てる。本を覗いた。
「それ、科学の本?」
「わかるの?」
「読めないけど、記号とか、なんか知ってる感じ。苦手だった気がする」
ユワンは本から目を離さないまま、おかしそうに小さく笑った。
「姉さん、理数系苦手そうだよね」
「ユワンは得意?」
「どうかな」
好きだけどね、と付け足した。ユワンの回りには、歴史の本も置いてあった。小説もある。手当たり次第に、色々な本があった。
「色々なこと覚えて、先生にでもなるの?」
ユワンの回りに落ちている本を拾いあげて、リンはさげなく言ってみた。
「え?」
過剰にユワンが反応したので、
「……え?」
リンもつられた。ユワンの顔が少し赤い。何事かと思わずじっと見ていたら、なんだよ見るなよ、と乱暴に本を取り上げられた。
「なんでもないよ、仕事するよ。行こう」
読んでいた本も閉じて、さっさと立ち上がる。ほら行くよ、とリンの手を掴もうとして、やめる。書庫から出ていくユワンを、リンは追いかけた。
「待ってよ。ねえ、ねえ、先生になりたいの? そうなの? 本当に?」
ユワンに追いついて、すぐ横に並んだ。興奮気味のリンに、ユワンは赤い顔のまま、わざと怒ったような顔をした。
「だったらなに、悪いの?」
「ぜんぜん悪くない。だから、ついでにわたしに読み書き教えて」
「ついでって……」
ユワンの怒った顔が続かない。決まりが悪そうに横を向く。
「よし、決まり」
その夜から街灯の下で、リンは子供たちと一緒にユワンに文字を習った。
水路のほうは、ひとつがうまく行くと、他のものたちも真似を始めた。やがて、村中の水路が完成した。その頃にはリンも、ある程度の文字を覚えていた。
「ユワンはすごいね」
「なにが?」
「ユワン、もう先生。自分がやりたいと思ったことや、やろうと思ったことをちゃんとやって、それがやれるのがすごいね」
「……そんなことないよ」
謙遜だと思った。でもユワンは謙遜していたわけではなかった。そんなことにも気が付かないまま、リンは、毎日が上手く行っていると思っていた。
「そんなことあるよ。大丈夫。このまま、大丈夫のまま行くといいね」
そのときの、眼差しを落としたユワンにも気が付かなかった。
◇
ある日、村の領主の使いがやってきた。村の子供たちに泳ぎを教えたのも話をしてやっているのも、水路を提案したのもリンだ。そんなリンの噂を耳にした領主が、自分の小さな娘のためにリンを家庭教師に迎えたいと言ってきた。
「反対だよ」
領主の使いを見送ったユワンは、サラリと反対した。
「なんで? いい話じゃん」
ねえ、とリンはヨウシュと顔を見合わせる。
「ちゃんとお給料も出してもらえるのに」
「駄目だよ。姉さんは家にいればいいよ」
いいね、とさらに言い置いたユワンは、それ以上の会話を避けるように家を出て行く。シュンリがその後を追った。
「ユワンのことは母さんにまかせよう」
父はチェンチーを抱き上げる。
「じゃあ、父さんはチェンチーをよろしく」
言ったヨウシュにリンは手を引かれた。追いかけたユワンとシュンリは、細く水の流れる水路の脇にいた。水路に敷かれたレンガは水を吸って白さを増し、白い小道のように見える。
追ってきたのがシュンリだとわかると、ユワンは眼差しの色を落とした。
「母さんも、姉さんが領主の屋敷に上がるのに賛成?」
「あの子がやりたいことは、やらせておけばいいだろう?」
「それはさ、そうだよね」
そんな会話を聞いて、ヨウシュは、行こう、とリンの手を引っ張る。けれど次にユワンの口から出てきた言葉に、リンは立ち止まった。作物を保存しておくために造られた小屋の陰に隠れる。
「姉さんにとっては、ここで起こること全部がさ、珍しくてしょうがないんだよ。泳ぎや、計算を教えることも、子供たちが面白がるような話をしてやることも。おれたちがここでは当たり前に知らないことを、姉さんは当たり前に身に付けてる。記憶がなくなっても、それは日常的なこととしてからだが覚えてるんだ。水路も教育も、電話や電気も当たり前にあるところにいたはずなんだ」
シュンリは、それでなにが言いたいんだい、と先を促す。ユワンは、言っても仕方がないことのように、言った。
「やりたいことなんか、やればいいよ。ただし、姉さんはいつか帰っちゃうんだってことを、忘れてないならね」
誰かに言い聞かせるように、自分に、言い聞かせるように。
「姉さんがなくした記憶は、ここよりも豊かな場所のもんだろ。思い出せば、こんな不便なとこにいたいなんて思わないに決まってる。……帰さなきゃいけないだろ。でも、領主に姉さんを預けたら、こっちの自由なんか利かなくなる。領主が気に入れば手放さない。おれたちは逆らえない。帰りたいときに帰れなくなるのは姉さんなんだ」
最後の方は、ひとりごとのようだった。
「……面倒くさいな」
「なんだって?」
シュンリが聞き返す。
「面倒くさいよね。さっさと記憶でもなんでも取り戻してさ、帰ればいいんだよ」
その言葉を、シュンリもヨウシュも、リンも聞いた。
「そんなことばっかり、いつも考えてる。いつも、いつも! 早く………」
ユワンはいつも、叫ぼうとした言葉を飲み込む。飲み込んで、絞るように声にする。
「早く、いなくなればいい。そしたら、楽になるのに」
我慢してたことを口にした。そんな言葉を聞いた。リンは手の平に力を込めた。手を繋いでいたヨウシュが、リンを見上げる。
チリン、と鈴が鳴った。シュンリとユワンがリンを見つける。正確には、二人が見向いたそこにリンの姿は見えない。まだ小屋の陰にいる。それでも村の人間なら、まして家族なら、鈴の音がしただけでわかる。
「リン?」
シュンリに呼ばれる。身動きしないリンの手を、ヨウシュは引っ張った。
「リン姉?」
「姉さん……?」
なんでそんなところに隠れてるのさ、と言いたげなユワン声に、沈没しかけていた気持ちが一気に上昇した。悲しくはなかった。どちらかといえば悔しくて、腹が立った。
「……帰らないって言ってるのに。何回も言ってるのに。何回言ったらわかるの」
爆発しそうな気持ちを押さえたくて、お経でも唱えるようにぶつぶつと呟いた。押さえた怒りがにじみ出て、恐いというか気味が悪くてヨウシュは後退さる。後退さったところで、とん、と誰かに触れた。仰ぐと、作ったような面倒くさそうな顔でユワンが立っていた。
「言いたいことあるならちゃんといいなよ」
「それはユワンでしょ? そんなにわたしが嫌いなら、そう言えばいいのに。でもかえって、そこまで言われると、意地でも帰りたくないんだけど」
「意地の問題じゃないよね」
「だって、今の父さんと母さんと、ユワンやヨウシュやチェンチーがいるのはここなんだよ? 家族でしょ? じゃあわたしがここに一緒にいるのはおかしくないでしょ?」
「普通はね」
二人の間でおろおろするヨウシュを、シュンリが同情するように見ている。見ているだけで口を挟む隙はない。
「普通?」
リンはヨウシュを見て、シュンリを見て、それからユワンを見て問いかけた。
「普通って、なに?」
「姉さんにはちゃんと姉さんの家族がいるはずだってことだよ」
「そんな当たり前のこと聞いてない!」
ヨウシュと手を繋いだまま、空いていた手で、ユワンの胸を押した。
「わたしの普通は、わたしが決める。わたしの居場所はわたしが決める。わたしじゃないわたし以外の人が決めないで!」
どんどんっ、と胸をさらに押した。
「わかった!? わかったら返事は!?」
やっとリンから離れたヨウシュがシュンリに駆け寄って抱きついた。
ユワンは返事をしない。
代わりに口にした言葉は、
「来月、十五歳になったら志願する」
もっと叩こうとしたリンの手が、止まった。
「なに……?」
「姉さんがずっとここにいるつもりなら、おれがいなくなる。兵役に志願して、街に出る」
ポケットから出したナイフで、ユワンは自分の髪を、束ねていたところからばっさりと切り落とした。
夏はなかなか終わらない。終わらないうちにユワンは十五歳になる。
兵役の短期契約は半年。この場合、それぞれの村の習慣を持ち込むことを許されていた。装飾品を着けるのも髪が長いのも自由だ。
兵役の長期契約は二年。この場合、それぞれの村の習慣を持ち込むことは許されなかった。代わりに、税は大幅に免除される。
「兄さんがそこまでしなきゃいけないほど家は困ってない。いいじゃん、このままで」
ヨウシュは毎日ユワンの後について歩いて、ユワンに考え直すように言い続けた。ユワンは、もう決めたんだ、と言うだけだった。
◇
川辺に、ユワンの脱ぎ捨てた服を見つけた。それを畳んでいると、ユワンは川の半分より向こう側に浮かんできて、リンを見つけると川岸に戻ってきた。水から上がったユワンの髪は、首から下の分がさっぱりない。
「また、一人で頑張ろうとしてるの?」
ユワンはリンと目を合わせない。畳まれたばかりの服に腕を通す。長い髪が邪魔をしないぶん、服が着やすそうだった。
「……そうだね」
「先生になりたいっていってたのも諦めるの? ここではユワンはもう先生なのに、そんな自分の将来も諦めるの?」
「この村もうちも、食べるのに困らなくなったくらいで、別に裕福になったわけじゃないよ。やりたいことやってればいいわけじゃない。兵役のほうがおれに向いてる。体力には自信あるから」
「街に行けば、嫌いなわたしから離れられるし?」
やっと、ユワンはリンを見た。とりあえず座りなよ、と言う。言われるままリンが座ると、ユワンはわざと少し離れて座った。リンは、二人の間の距離を測る。
「……嫌いで、いいのに」
手を伸ばしても、届かない距離。
「嫌いでいいから、いなくならないで」
声が震えて、リンは口元を手で覆った。ユワンは知らぬ振りをするかと思ったのに、リンを、見る。目が合う。
「姉さん……」
「姉さんでいいから。ずっと姉さんでいるから、いなくならないで。誰も、わたしの周りからいなくならないで」
「いなくなったら、楽になることもあるよ」
ユワンはずっと、リンを見る。リンは、ユワンの濡れた髪から滴っていく雫を見ていた。川の水は、故郷のような匂いがする。
「リュイがいなくなって、そう思った。リュイは元気がよくていつでも笑ってた。おれはそんなんじゃなかったから、おれもリュイみたいだったらよかったのにって、思ってた」
「……ユワンは、ユワン。他の誰にもならなくていいのに」
「そうだね。リュイがいなくなって、羨む人がいなくなって、誰かを羨んだりしない自分は、楽だった」
ユワンは、間を持て余すように川原の石を掴んでは、離す。
「わたしとリュイを一緒にしてるの? わたしがリュイみたいだから? リュイがいなくなって楽になったから、だからわたしにもいなくなれって言うの?」
「別に、一緒になんてしてない」
「してる!」
「してないよ! してないだろ。父さんや母さんやヨウシュたちにとって、姉さんはリュイと同じ場所にいる、一緒だよ、家族と思ってるよ。リュイがいなくなったときと同じように姉さんがいなくなるのを恐がってる。だけど……っ」
ユワンは手の平の中の石を、握り締めた。
「ねえ……姉さん」
「なに?」
リンは呼ばれたから返事をする。ただそれだけのことに、ユワンはそんなことに、皮肉そうに笑った。我慢できないように、石を川に投げ付けた。
「ほら、駄目なんだよ」
「なにが……」
「リュイは妹だった。好きだったけど、妹だってちゃんとわかってた。家族だったからこそ、いつでも、リュイがリュイであることが羨ましかっただけだった。傍にいれば、いてくれるならそれでよかった。家族なら離れない。姉さんもそうだったらよかった。でも違う。……違うだろ」
「わたしは、家族じゃないから、だから邪魔なの!?」
いつの間にか、ユワンの髪は渇き始めている。ユワンが辛そうに表情をしかめたのは、熱い風と、太陽の眩しさのせいだと思った。
「姉さんは、リュイじゃないよ。家族じゃないよ。家族なんて思えない」
「……ユワ……」
言いかけた名前は……。
「……好きなんだ」
リンはゆっくりと顔を上げた。
「………え?」
「好きなんだ」
顔を上げると目が合った。ユワンは目をそらさない。
「だからいなくなってよ。ずっといるなんて言って、期待させないでよ。さっさといなくなって、姉さんは、姉さんのいるべき場所で幸せに暮らしてよ。どうか、幸せに……おれの望みはそれだけなんだよ」
それは懇願だった。
リンは泣くことも、笑うこともできなかった。なにか言葉を探しているうちに、気が付くと、ユワンは隣からいなくなっていた。
◇
十五歳になったその日に、ユワンは家を出ていった。それ以来連絡もなく、任期の終わる日までそのまま音沙汰ないのだと家族が思い始めた頃だった。
一通の封筒が届いた。
年が明けたばかりの、寒い朝だった。
「郵便ですよー」
届けてきたのは短期契約を終えて戻ってきたシーウェイだった。封筒の中身は、家族に現金が、リンに一枚のメモと航空券が宛てられていた。他には近況を知らせる手紙もなにもない。メモにも一見記号のようなものが書かれているだけだった。
「シーウェイ、あんたなにかユワンから言付かってないのかい?」
「あとは、これ。リンに見せればわかるって、それだけしか言われてない」
まだ自分の家に戻る前のシーウェイは、シュンリがお茶を出すと言うのを断って、背負っていた荷物の底からなにかを取り出した。
「なんか、わかんないものばっか出てくるね」
ヨウシュたちには、それがなにかわからない。でも、リンにはわかった。
「パスポート……」
パスポートと、航空券と、メモ。
「ユワンの奴、暇を見つけては大使館や警察にリンの捜索願いが出てないか問い合わせてたよ。リンの家族にも連絡取ってた。初めは向こうもなかなか信じてくれなかったみたいだけど、でも今は、本当の家族が待ってるから、帰れって」
メモに書かれてあった記号のようなものは、リンの国の文字だった。リンが帰るべき場所の住所と家族の名前、それからリンの本当の名前が記してあった。
リンは、それを読むことができた。そしてたった今、失っていた記憶を思い出す。
リンの名前は、鈴花(すずか)。
水泳の選手権のために遠征をしていた。そのときなにかの騒ぎに巻き込まれて、気がついたらこの村にいた。
この家で、ユワンに出会った。ヨウシュやチェンチーに出会った。
「……ねえ、シーウェイ。ユワンは、帰れって、言ったの?」
リンの瞳から溢れた涙が、頬を伝って、メモの上に落ちた。文字が滲んだのをヨウシュが気にしたけれど、リンにはもうメモなど必要なかった。
「帰れって、言ったの?」
シーウェイは、小さく、申し訳なさそうに頷いた。あ、そう。とリンは呟く。たった一枚の、片道だけの航空券をつめが食い込むほど、握り締めた。
「……帰る」
「リン姉……」
「帰る。帰ればいいんでしょ、帰ればっ」