〜  4 〜




 翌日も、夕食を終えたリンはタンヤンの家へと出掛けていった。
「なにをしに行ってるんだい、あの子は」
 シュンリに兄弟たちは、知らない、と首を振る。やれやれと吐息するシュンリの足元に、子供がひとり。チェンチーだと思っていたシュンリは、その子がチェンチーでなかったことに驚いた。
「なんだい、なんの用だい?」
 尋ねると、リンよりよほどまともに髪を結っているヤン爺の孫娘は、大きな瞳でシュンリを見上げた。
「リンは? リンにおはなし聞くの。ニンギョひめはどうして王子さまにあったの?」
「……なんだい、わけがわかんないねえ」
 ぼやいていると、別の子供がまたひとりやってきた。そんな調子で、子供たちは次々にやってきた。リンが戻ってくる頃には、狭い家の中に入り切れないほどになっていた。
「お話、初めから? わかった、おっけー」
 昨日、途中からの話を聞いていた子たちばかりだった。リンはシュンリに追い出されて、街灯の下で話を始めた。
 子供たちはその翌日には別の話を、翌々日にはまた別の話をねだった。
 そんな夕方が何日か続いた次の日、リンはいつもより早起きをすると、ユワンとヨウシュを叩き起こした。
「二人とも、ちょっと手伝う、お願い」
 言葉は謙虚だけれど、その仕種は嬉々としていて断る隙がない。寝惚け眼のうちに二人は川辺に連れ出された。
「なに? なにするの?」
 ヨウシュは川辺で待っていたタンヤンの姿に目が覚めた。タンヤンはリンたちに気付くと、早く来い、と手招きした。ユワンは怪訝な顔をする。タンヤンが用意していたのは投網だった。
 タンヤンの父親は漁師だった。川辺から網を投げ、魚をとる。仕事の最中に足を滑らせて川に連れていかれたのは、もう何年も前のことだ。川に魚はたくさんいる。けれどリスクは大きい。今、村に漁師はいない。
「タンヤンと仲良く漁でもしろって言うの」
 すっかり呆れているユワンに、リンは違う違う、と手を振る。
「魚とる、は、泳ぐができるようになってから。とりあえず、ここ、持って立つ」
 網の端に通した棒を、旗を立てるように川辺に立ててユワンとヨウシュに持たせると、リンは軽く準備体操をしてから川に入った。川の中程まで泳ぐとタンヤンに手を振った。合図に、タンヤンは網のもう片方に通した棒を槍投げでもするようにリンに投げる。リンはその棒を川底に突き刺して立てようとする。
「網張って、その中で泳ぎの練習させるんだってさ。それなら安心だからって、ヤン爺から親父のこと聞いて、ぼろぼろになってた網引っ張り出して、一生懸命直してたぜ」
 タンヤンがリンを眺めたままひとりごとのように言った。ユワンは眼差しだけ、意外そうに向けた。
「よく、付き合う気になったね」
「泳げるようになれば、少しは安心して漁ができるだろ」
「……贄がいなくなる」
 三人の視線の先で、リンは沈んでは浮き上がってくるのを繰り返した。網が川の流れに持っていかれて、リンひとりの力では支えきれない。危なっかしいリンに、ヨウシュはおろおろする。タンヤンは唇を噛み、駄目だな、と口先で呟いた。そのついでに言う。
 ……贄がいなくなる。
「願ったりだ」
 低い、けれど確かな声に、ユワンはタンヤンを見上げた。同時にヨウシュが声を上げた。リンが水の勢いに、何メートルか流された。
 ユワンは舌打ちすると支えていた棒をタンヤンに預けた。ロープを手にして川に向かう。
「兄さん!?」
 ユワンは、ヨウシュの声とくるぶしまで浸かった水の感触に一瞬ためらう。……一瞬ためらっただけだった。以前リンがチェンチーを助けるために飛び込んだときと同じフォームで川に飛び込んだ。そのまま奇麗に泳いでみせる。おいおい、とヨウシュもタンヤンもあごを落とした。
「あいつの運動神経ってどうなってんだよ」
 タンヤンはいつも八割の確立で、ユワンとの喧嘩に負けている。
 ユワンはあっという間にリンのところまで泳いだ。リンがまだなんとか支えている棒に、ロープの端を結ぶ。
「ユワン、いつの、間に……?」
「そんなこといいから、姉さん、もう少し頑張ってなよ」
 ユワンはすぐに川辺に戻る。持ち帰ってきたロープのもう片方の端を、手頃な流木を杭にして川岸に打ち付けた。ロープはぴんと張り、おかげでリンはそれ以上流されなくなった。適当に棒を川底に差し込んで、あとは潜って少し大きめの石を積み、棒を固定する。ヨウシュもタンヤンと一緒に棒を固定し終えた。
 川から上がったリンは、ロープの先で疲れたように座り込んでいるユワンを、じっと覗き込んだ。
「……なんだよ」
「無茶、する」
「姉さんほどじゃないよ」
「心配ない。わたし、無茶する、よく合ってる」
 つい顔が笑ってしまうのは、ユワンに助けてもらって素直に嬉しかったからだ。ユワンはつられて笑ったりしない。それはいい。でも、
「……ユワン?」
 どうしてそんなふうに驚いたような、怒ったような顔をするのかは、わからない。リンがユワンを見るよりもずっと真摯な眼差しで、食い入るように見つめてくる。
「姉さんは、リュイと同じことを言う。同じことをする。あのときだって、むちゃしなきゃあんなことにはならなかったんだ」
 ユワンが、まるで泣き出すのを我慢するように奥歯を噛み締めたのがわかった。
「チェンチーだって、おれが助けたかった。リュイだって、おれが助けたかったんだ」
 声を荒げるわけじゃない。口調はいつもと変わらない。淡々と、誰に聞かせるわけでもないように、続ける。いつの間にか視線はリンからそらされていた。
「どうして……」
 リンはそらされた視線を追う。
「ユワン、泳ぎも一人で覚えるした。どうして一人で頑張るする?」
「頑張る? まだ足りないよ。精一杯やってるのに報われたことなんてない。大切なものはきっと、もっと頑張らないと守れないんだ」
 ユワンは本当にそう思っている。リンは、なんだか腹が立った。
「そうやって、言い訳して諦める、よくない」
「でも、本当のことだよ」
「ユワン、わたし助けた。ちゃんとできた。それとも、なに、ユワン、わたし大切じゃない? 大切じゃないから頑張ったわけじゃなくて、頑張らないで助けた? 水、嫌いだったユワンが頑張ったわけじゃなくて、足りない頑張るで、泳げる技、取得した?」
 リンは一気に言い切って、大きく深呼吸した。ユワンは、驚いた、と素直に瞬きした。
 それから、少し笑った。我慢できずに吹きだす。
「大切だよ」
 小さく唇の端を上げた。優しい目になった。
「姉さんは、大切だよ。そうだよ、だから頑張ったんだ。……って、姉さん?」
 なにぼーっとしてんの? と覗き込まれた。リンは我に返る。初めて、ユワンの笑った顔を見た。そうか、こんな顔で笑うのか。
「どうかしたの?」
「え、あの、どーもしない」
 ぶんぶんと手を振って、その手でがしっとユワンの頭を撫でた。
「ユワン、いい子。頑張るの仕方ちゃんと知ってる」
「ちょっと、……ちょっと、姉さんっ」
 チェンチーと同じレベルで子供扱いしないでよ、とユワンはリンから逃げる。そのときの言葉は、ユワンにとっては照れ隠しのついでだった。でも、だからこそ本音だったのかもしれない。
「でもさ、姉さん。なにか諦めなきゃ、全部なんて頑張れないんだよ」
 その顔に、もう笑みはなかった。


 畑に水を撒きながら、リンはユワンを見やった。ユワンはいつも通りに黙々と働いている。日はやっと西に傾き始めていた。首筋に流れる汗を、もう何度目か、拭う。
 気が付くと、リンはユワンを見ていることが多くなっていた。

      ◇

 リンは、子供たちに囲まれていることが多くなっていた。
 小さな子供たちはいつでも新しい話をねだったし、もう少し大きな子供たちは、泳ぎの練習を始めたヨウシュやタンヤンと一緒に集まるようになっていた。
 リンの指導は適切だったし、子供たちは物を覚えるのが早い。まだ大人たちは好んで自分から川に近付こうとするものはいなかったけれど、泳ぎを覚える子供たちを、遠巻きに見る親が増えてきた。彼らは決して、嫌な顔をしていない。
 今も、川辺では水泳教室が開かれている。ヨウシュもずいぶん泳げるようになって、ユワンと一緒になって子供たちの相手をしている。
 リンが、ちょうど川から上がったときだった。
「リン、おい、リン。やるよ、これ」
 ぽいと渡されたものを両腕でキャッチした。それが生きがよく跳ねて、リンは驚いて投げ出してしまった。それは、砂埃っぽい地面の上でも元気がよかった。あっという間に砂まみれになったものをじっくり見れば、リンの腕の長さほどもある大きな魚だった。
「初めて獲れたんだ。やるよ」
 新しく調達した投網を、タンヤンは肩に担ぎ直す。
「初めての魚。タンヤン持っていけばいい。お母さん、喜ぶ」
「いいから、持ってけよ。あんたがいなかったらどーせ獲れなかった魚なんだから」
「漁師になる、決めたの?」
「親父いないし、見様見真似だけどな。とりあえず一匹は獲れたんだし、なんとかなるだろ」
 リンへの感謝を表わしているのか、今までと比べれば格段に一応謙虚に話している。口調は謙虚でも、その態度は妙に自信に溢れているけれど。
「じゃあ、魚、遠慮なくもらう。ありがとう」
 タンヤンは持ちやすいように、魚の尾をロープでくくってくれた。
「タンヤン、優しい」
 魚をもらって上機嫌なリンに、タンヤンは耳を赤くした。
「それはさ、あんただからだろ」
 は? と見上げると、タンヤンの耳はますます赤くなった。
「だから、リンがユワンしか見てないように、俺はリンを見てるってことだよ」
「ユワン? なんでユワン、出てくる?」
「なんだよ、無意識かよ、いいよもう」
 畑のほうからシーウェイが呼びに来て、
「そ、そう言えばシーウェイの奴、兵役に志願するんだってさ」
 タンヤンはあからさまに話をそらしながら、逃げるように行ってしまった。
「なんの話?」
 気が付くとユワンが側まで来ていた。
「今の、タンヤンだよね。なんかされたの?」
「魚もらった。村のみんな、みんないい子」
「……いい子って……」
 ユワンは喧嘩相手のタンヤンの背を見送って、すぐに見送ることがばかばかしくなって、川の中ではしゃぐヨウシュに視線を移した。移したきり、黙り込む。リンは魚を抱えて、座り込んだ。
「シーウェイ、兵役に志願するって」
「……そう」
 ユワンの返事は適当だった。
「別に戦争するわけじゃないけど、兵員を多く出せば、それだけ国から村に課せられる税を減らしてもらえる。今度の領主はそういうことに積極的だからね。志願すれば、その家の税も減らしてもらえるし」
「……そう」
 リンの返事も、ユワンを真似て適当だった。そのまま、適当のついでみたいに言う。
「ねえ、ユワン。わたし、いつもユワンのこと見てる」
「え?」
「らしい」
「……なにそれ」
「今、タンヤンに言われた。タンヤンはわたしのこと見てる、言った」
 ユワンはかすかに眉をひそめて、視線だけ、タンヤンを振り返る。
「タンヤンは、姉さんが好きなんだ」
 相変わらず、そこにある事実を口にしただけの口調だった。ふーん、と答えたリンには特に感情がない。ユワンには意外なことだったらしい。
「落ち着いた反応するんだね」
「だって、それならわたしも、ユワンのこと好きと同じになる。そうなの?」
「って、おれに聞かれても」
「ユワンは、わたしが好き?」
 リンの腕の中で、魚が跳ねる。リンは川辺に石を積んで囲いを作ると、その中に魚を放した。ロープの先はしっかり持っておく。
「ユワン、いつもわたしを見てる。だから、よく目が合う」
「目……? そんなことないよ」
 囲いの中で、魚は泳ぐというよりも水に浸っているだけだ。リンは魚を気にかけている振りをして、ユワンを見ない。
「そんなこと、ある」
 言い切った後、少し沈黙があった。
 リンと魚に気が付いたヨウシュが手を振ってくる。リンも手を振り返す。
 ユワンは吐息しながら、リンの横に座り込んだ。
「人のことはいいよ。姉さんの気持ちだろ、姉さん以外に誰がわかるの?」
「……なるほど」
「感心されてもさあ」
「じゃあ、タンヤンは好き」
「じゃあ、って………」
 変な会話だなあ、と二人して思っている。ユワンのほうが特に思っていて、次に出てきた言葉はいい加減で、そっけないものになった。それは不本意なせりふだったからか。
「じゃあ、タンヤンと一緒になればいいよ。そうしたら姉さんはずっとここにいることになるし、ヨウシュの願いも叶う」
「だったら、ヨウシュとケッコン、するからいい」
「……ケイコ、じゃないよ?」
「わかってる」
 そんなことわかってる、とリンは口の中で呟いた。さらに、呟いた。
「誰でも、いい」
 勢いよく立ち上がると、ロープの先の魚も勢いよく水から上がった。水が跳ねる。リンの行動に付いていけずにまだ座ったままのユワンを、リンは思いきり見下ろした。
「タンヤンもヨウシュも、父さんも母さんも同じ好き。だったら誰でもいい!」
 これでもかと喚くと、ふん、とその場から退場する。けれど三歩歩いたところで、くるりとユワンに振り向いた。つかつかと戻って、ユワンの目線に合わせて屈んだ。
「ユワン以外なら、同じ好き。誰でもいい」
 リンはユワンを真っ直ぐに見る。ユワンは、息を、飲んだ。今は、目をそらさない。
「言ってること、わかってる、の?」
「本当は、わかってる。わたしいつも、ユワン、見てる」
 その瞬間、ユワンが息を止めた音が聞こえたような気がした。リンを凝視する。その顔には見覚えがあった。
「わたしまた、リュイと同じこと言ってる?」
 ユワンは答えない。否定しないから、それが答えになる。あ、そう、と眼差しを伏せたリンは、微笑んだようにも悲しんでいるようにも見えた。
「リュイいなくなった。同じこと言うわたしもいなくなる、思ってる? わたしずっといる、よ?」
「いるわけないよ」
 ユワンの言葉に遠慮はない。リンは今度は、ちゃんと笑っているとわかるように、笑った。それから、持っていたロープを握り締めた。
「わたし、この村に来たとき、全部なくした。大切だった人も、気持ちも、思い出も全部。だからここでは、これからは、なにもなくしたくない。そう言った、覚えてない? だから、自分からなくす、しない。自分からどこかへ行く、しない」
 ぽつりと頬になにかがあたって、リンは空を仰いだ。雨、だった。空を見上げたユワンは、雨に気を取られた振りをする。リンを、もう見ない。そんな期待なんかしてない。そう言われたようだった。
 雨はすぐに大粒になった。肌に当たると痛いほどの勢いで降ってくる。リンは急いで子供たちを川から上がらせると家に帰るように指示した。すべての子供たちが帰るのを見届けて、それでやっと安心して自分も帰ることができる。雨で網が流されてしまわなければいいけれど、と考えていると、声がした。
「帰るよ、姉さん」
「……うん」
 早く帰ろう、と出された手を掴んだ。二人とももうずぶ濡れで、今さら走っても仕方がないように思えて、歩いていく。
「おれだって、なにもなくしたくなんかない」
 雨音の間から、声が聞こえた。
「でも、手放さなくちゃいけないものだってあるよね。なくしたくなんかなかったのに、なくなったものがあるんだ。なにもなくさないなんて、無理なんだ」
「だから、期待する、しなくなったの? なにか望む、しなくなったの?」
「大切なものをなくすのが、あんなに辛いって思わなかった。あんな思い、もうしたくない」
 言葉はそれきりだった。早く行こう、と手だけを引っ張られる。それで今さら、手を繋いでいることを思い出した。雨は冷たいのに、手の平が熱くなった。慌てて外そうとした手を、また掴まれた。
 手の平から、顔まで熱くなった。隠すように俯いた。手を繋いでドキドキしている。とてもやばいんじゃないかと思う。
「……弟、なのに」
 口にすると涙が出てきた。少し出てくると、後はもうなんだかわけもわからないまま止まらなくなった。
 泣き声はユワンにも聞こえているはずだった。
 ユワンは振り返らない。ただ少し戸惑っているように、歩く速度を落とした。

      ◇

 雨は翌日には上がってしまった。もっと降ってくれないと困る、と曇っている空を見上げていたリンをシュンリが急かした。
「今日と明日は、泳ぎの練習もお話し会もなしだよ」
 村中総出で畑に残っている作物の収穫をする。きっりち二日後に、雨は再び降りだした。雨は丸二週間、強風をともなって降り続けた。
 畑の土はあっという間に流されていった。最悪なのは、流されてしまった状態で雨が止んでしまうことだった。それではなにかを作ることもできなくなってしまう。人々の心配をよそに雨は降り続けて、やがて山から栄養の豊富な土を運んできた。これで収穫の時期まで我慢すれば、もう飢えずにすむ。
 人々の笑顔は、明るくなった。
「今年の雨はひどかったね」
「贄はいなかったはずなんだがなあ」
「泳ぎの練習なんてして、神様が怒ったんじゃないのか?」
「怒ってても、雨を降らせてくれるんなら私たちにはありがたいことだよ」
 作物は目に見えて大きくなっていくのがわかった。この村に来て、リンが初めて見るような大きないもも育つようになった。タンヤンと一緒に漁を再開するものも増えた。丘へ出て取った草の根などを食べなくてもすむようになった。




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