〜  3 〜




 リンは、一瞬停止した思考回路の復旧に努めてみた。
「………は? ……わっ」
 身を乗り出してテーブルについた手が滑って、リンは椅子からずり落ちた。なにやってんのさ、とヨウシュに手を貸してもらいながら、
「ユワンが、リュイを?」
「そう」
「……だって、リュイは……」
 妹なのに、と言いかけたリンに、そんなの関係ないよ、とヨウシュは肩をすくめた。
「リン姉、兄さんが笑ったとこ、見たことある?」
 突然言われて、リンは首を横に振った。
「だよね。兄さんは、一人じゃ笑えないんだ。だからずっと笑ってない。でもさ、リュイ姉が笑えば笑った。リュイ姉がいたときは笑ってたんだ。兄さんはさ、ニンギョ姫だよ。命かけてもいいくらい、王子様が好きだったんだよ」
「……あ、そう、なの?」
 リンの持っていた常識とは、味覚も道徳感もずいぶん違うようだ。じゃあ自分はいったいどれくらい、こことは違うところで暮らしていたのか。
「リン姉さ、兄さんと結婚しなよ」
 今夜の食事も団子の汁だよ、と、日常のことでも言たようだった。打ったおしりをさすっていたリンは、痛さのため頭の回転が鈍っていた。もしかしたらさっきからずっと、思考回路は停止したままだったのかもしれない。
「ケッコン?」
「そうだよ、そうしたら姉さんはさ、泳げるから贄になることもないし、ずっとここにいられることになるだろ?」
「そう、だね。じゃあわかった。ケッコン、明日、する」
「ほんと? ほんとだね?」
 必死な様子に、リンは「ほんとほんと」と振ろうとした。その頭を、
「適当な返事をしないよーに」
 ざるでも持つように無造作に押さえつけられた。リンはヨウシュに合わせていた目線を少しだけ上げた。この高さはユワンだ。
 ユワンはヨウシュを小突いた。
「おまえも、なに言ってるんだ。寝惚けてるならさっさと寝ろ」
「なんでさ、いい考えじゃん」
「どこが?」
「兄さん、リン姉見つけたとき、初め、リュイ姉だと思って、それで駆け寄ったじゃないか。兄さんが助かったみたいにリュイ姉だってどっかで助かってると思ってんだろ。でもそんなわけない。もう二年になるんだ。リン姉はリュイ姉じゃなかったけど、でもリン姉はリン姉で上手くいってるじゃないか。このままがいいよ」
「いい加減にしろ」
 心の底からそう思っているユワンの声は、静かに響く。ヨウシュはさらに続けようとした言葉を飲み込んで、飲み込んだせいで消化不良を起こしたように、胃のあたりをさすった。うつむいて、足元の乾いた土を蹴る。
「だって、もう嫌なんだ」
「やめろ、ヨウシュ」
 ユワンは、蹴るのをやめろと注意する。ヨウシュはやめない。薄汚れていた布の靴がさらに白く汚れる。
「もう悲しいのは嫌なんだ」
「姉さんには関係ないだろ」
 また、関係ない、と言う。なにか反論したげにリンはユワンを見た。
 ユワンは、リンを見ない。
 見ないのでリンは確実に反論したい気分になった。けれどそこで声をあげたのはヨウシュだった。
「あるよ! リン姉は記憶思い出したらいなくなっちゃうじゃないか。帰っちゃうだろ。いなくならないための方法考えてなにが悪いんだよ。オレには姉さんいて、いなくなって、また姉さんできて、それでまたいなくなるなんて嫌なんだ。兄さんがリン姉連れくって言い出したんだ。だから、責任取ってよって言ってるだけじゃん。そしたら、リン姉はずっとリン姉じゃないか」
 一気に言った弟にユワンは呆れたように大きく息を吐き出した。ヨウシュは兄が吐き出した空気を吸い込んで、ほほを膨らませた。
「じゃあオレがリン姉と結婚する」
 がしっとリンの腕にしがみつく。リンはヨウシュとユワンを見比べるように視線を動かした。
「わたし、リュイに似てる?」
「似てないよ」
 すぐにユワンが言って、
「外見はね」
 すぐにヨウシュが続けた。
 そう? とリンは特に大事なことでもなかったように返事する。
「とりあえず、つまらない言い合い、やめる。わたし、いなくなる予定、ない」
「なに言ってんの」
 呆れたようにユワンは言葉を息と一緒に吐き出し、
「予定、ないものは、ない」
「いなくなるんだろ!」
 苛立たしそうに声を大きくした。
 珍しく感情をあらわにしたユワンの声に、ヨウシュは驚く。
 ユワンも、自分の声に自分で驚いたようだった。
「……とにかく」
 声のトーンを落とす。
「姉さんはここの人間じゃないんだから、ずっといるわけないだろ」
「でも、わたし、帰る場所、知らない」
「そうだね。だからさ、今は知らないからここにいるだけで、思い出したら帰るんだよ」
「勝手に決める、しないで」
「勝手じゃなくて、当たり前のことだよ。思い出してまでこんな所にいる必要ないし、いたいと思うわけないよ」
「当たり前、わからない。わたし、思い出さないかもしれない。思い出しても、わたし、ここにいたい、思うかもしれない」
「そうだそうだ」
 こっそりヨウシュが口を挟む。ユワンは呆れたように、けれど強い眼差しでリンを見た。
「ほらみなよ」
 言い聞かせるように、リンの肩を掴んだ。
「『かもしれない』なんて言葉に期待する。期待は裏切られることのが多いんだ。曖昧なこと言って期待させないでよ。姉さんみたいに、甘い考えで期待するのもさせられるのもごめんなんだ」
「期待、悪いことない。ユワンもする。ユワン、初めわたし、リュイ、思った。それ期待、いう」
「そうだね、それで違ったんだよ。よかったなんて思わなかったんだよ」
 掴まれた肩が痛い。ユワンは本気で言っている。だからといってリンは、そんなユワンの気持ちを、わかりたい、とは思わなかった。
「よしわかった」
 リンはユワンの手をぺっ、と払った。その眼差しは、決意に満ちている。
「わたし、明日二人と、ケッコンする。決まり、それで」
 ぎょっとして二人はリンを見つめる。リンは、今日の話はこれで終わり、と大きなあくびをした。
「今日、寝る。おやすみ」

      ◇

 翌日の夕方。三人は川辺にいた。
「じゃあ、ケッコン、始める」
 ユワンとヨウシュを引っ張り出したリンは、おゆうぎを教える幼稚園の保育士のようにパンパンと手を叩いた。ユワンは眉根を寄せた。
「なにを始めるって?」
「だから、ケッコン」
 リンは二人の背中を勢いよく押した。
 ユワンは身軽に避けたけれど、ヨウシュは不意を突かれて川のすみっこに手を付いた。濡れていく弟を、ユワンは哀れそうに見る。リンはけろりとした顔で、大丈夫、と口にした。
「まず水に慣れる。それが大事。恐くない」
 この辺りは冬が短くて夏が長い。花の春と緑の春はほぼ同時にやってくる。するともう、水に入っても風邪をひくようなことはない。
「……やだよ」
 ユワンはばかばかしそうに吐息した。ケッコンなどといわれて、本当にそんなことをするつもりなのかと、のこのこ着いてきたけれど。
「姉さんが言ってるのってケッコンじゃなくてケイコじゃないの? 全然違うよ」
「え、稽古? なんの? 泳ぎの?」
 がーん、と口を開けた間抜けな顔をして、ヨウシュは兄を見上げた。
「それ……『け』と『こ』しか合ってないじゃん」
 リンは平気平気、とひらひらと手を振った。
「ケッコンすれば、わたし、いなくならない。ヨウシュ、そう言った。だから頑張ってする。泳ぐ、覚える。贄、いなくなる。一石二鳥」
「……だから違うってば」
「なにが?」
「なにがって……」
 「結婚」と「稽古」を間違えているあたりから、そもそもユワンにはわからない。どうして稽古をしたら村からいなくならないで済むなんて思ったりするのか。それも村の習慣だと思った、とは後のリンの言い分だけれど。
「おれ、帰るからね。こんなこと意味ないよ」
「ユワン、そんなにわたし、ずっとここにいるがいやなの? そんなに、期待する、してないの?」
 めんどうくさいのでこの際きっぱり聞く。という態度でリンは胸を張る。それから、胸を張るためにたくさん吸った空気を、吐き出した。
「ねえ、ユワン、そんなに、期待するをしないことに頑張ることない。頑張るの使い方、間違ってる」
 ユワンは言葉の意味を確かめるように怪訝な顔をして、そののち、表情を消した。
「脳天気に期待ばっかりしていられない。なにかを望んでも、裏切られるばっかりだ」
「頑な、よくない。それでも、夢に見るほどなにか望むすることあるはず!」
「ないよ!」
「ユワンっ」
 そのまま立ち去るユワンを追おうとしたリンを、ヨウシュが留めた。
「違うよリン姉、兄さん、本当に水が恐いんだ。それだけで、だから……」
 口を噤んだヨウシュの視線が、リンからそれた。リンはヨウシュの視線を追って振り返る。少年二人が、ユワンを呼び止めていた。
 ユワンよりふたつ年上で、一回りは体格の違うタンヤンと、三つ年上でひょろひょろと背の高いシーウェイだった。この二人に関して、リンはあまり良い噂を聞いたことがなかった。
 二人はユワンの前に立ちはだかっている。ユワン越しにリンを見つけて、馬鹿にしたように笑いながらひそひそとなにか言い合う。ユワンを邪魔そうに押し退けると、リンのところまでやってきた。
「聞いたぞリン。昨日は余計なことをしてくれたんだってな。チェンチーを助けたんだって?」
 ヨウシュはリンをかばって前に出る。シーウェイに突き飛ばされてあっけなくしりもちをついた。
「チェンチー助ける。余計なこと、違う」
 ヨウシュに手を貸しながら、リンは素直に言葉を返す。ユワンがタンヤンとシーウェイの向こうで、余計な反論するな、と言うように舌打ちした。
「違わねーよ。これで今年も雨が降らないじゃないか。連れていかれる奴が間抜けなんだ。放っとけばいいんだよ」
「馬鹿、違うだろ」
 シーウェイがタンヤンを肘で突いた。
「川に連れていかれるのは、ここじゃ名誉なことなんだ。だから連れていってもらえばいいんだよ」
 二人の言い分に、リンはあからさまに表情を不機嫌にした。握ったこぶしは喧嘩腰だ。
「やめとけよ」
 タンヤンとシーウェイの肩をユワンが叩いた。その顔ははっきりと面倒くさそうだ。
「姉さんにはここの常識とか習慣とか言ってもわからないんだ。言うだけ無駄だよ。そんなに雨降らせたいんなら、おまえら、贄になってみれば?」
 めんどうくさいのついでに出た言葉を、一同は一瞬、理解できない。惚けている間に、ユワンは足を引っかけるとぐらついたシーウェイのからだを、川の中へ押し倒した。慌てて止めに入ったタンヤンをかわすと、そのままタンヤンも川の中へ押し込んだ。
 ユワンは身軽に動いた。体格の差も年の差もなかったようにあっけなかった。二人は昨日のチェンチーと同じように、深みに足を取られて流され出す。
「ユワン……!?」
 リンの声に、ユワンはそっぽを向く。
 リンは溺れてもがく二人を放っておけずに、川に飛び込んだ。二人いたことと、二人共からだが大きいのに手こずりながら戻ってくる。川から上がったリンは、ずかずかとユワンに歩み寄った。
「本当に贄、雨降らせると、思ってるの!?」
「そうだね、期待はしてるよ。そう言ったら満足なの?」
 リンは、ユワンの頬を思い切りはたいた。すごい音がして、ヨウシュにタンヤン、シーウェイまでが首をすくめたけど、リンの力ぐらいでは、ユワンにたいしたダメージはなかったようだった。
「……期待なんかしないよ」
 ユワンはリンから目をそらした。
「期待通りにすべてうまくいくわけじゃない。姉さんにも期待なんてしてない。だからおれにも期待しないでよ。そんなものに頼らなくても、頑張らなきゃいけないことは頑張る。それはちゃんとやる。それでいいだろ?」

      ◇

 相変わらずまずい夕食を、ユワンは文句も言わずに食べている。食べる……というよりは胃に流し込んで、さっさと席を立つ。
 リンたちが今日もずぶ濡れで帰ってきたことに怒っているのか呆れ果てているのか、シュンリは始終無言だった。父もチェンチーもそれに倣い、静かな夕食は静かなまま終わった。
「どこに行くんだい」
 夕食の片付けを終えたリンの背中を、シュンリの声が追う。
「タンヤンの家。用事、ある。行ってきます」
「タンヤンの家だって?」
 いったいなんの用だい、と聞くが、リンはスキップでも始めそうな足取りで出ていってしまう。ユワンたちと帰ってきたときはずいぶん不機嫌に見えたけれど、夕食前、ヤン爺からなにか聞き出した後はご機嫌だった。
 リンはそれから小一時間もしないうちに戻ってきた。チェンチーが待ちかねたように飛び付いた。
「リン、昨日の夜のお話、話して。ニンギョのお姫さまはどうなったの?」
 薄暗い明かりの部屋の中では、シュンリは繕いものを、父は農具の手入れをしていた。リンはチェンチーの手を引くと外に出て、街灯の下に座り込んだ。話の続きを始める。
 そうしていると、チェンチーと変わらない年頃の子供たちがあちらこちらから出てきてリンを囲んだ。
 それまでどこでなにをしていたのか、濡れた上着を小脇に抱えてユワンが戻ってくる。通りに集まったチビたちが邪魔で家に入ることができずに、リンが話を終えるまで手近な壁にもたれて、リンの話を聞いていた。
 街灯の明かりが届かなくて、リンからユワンは見えなかった。
 ユワンは、街灯に照らし出されたリンを、ずっと、見ていた。




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