リンが飛び込んだ姿勢も泳ぎ出した姿も、きれいな魚みたいだった、と後で興奮気味にヨウシュがシュンリに話している。
リンは水面を滑るようにチェンチーにたどり着いた。チェンチーはそれまでなんとかもがいて顔を水から上げていたけれど、近付いてくるリンに安心したのか、気を失って沈み込んだ。リンはためらいもせずに水中に潜る。
ユワンとヨウシュには、潜った反動で水面に出たリンの足だけが見えた。すぐに足も見えなくなった。しばらく二人の姿が、水面から消える。
ヨウシュはユワンの袖口を握り締めた。ユワンは、ただ水面を眺めている。
リンがチェンチーと共に顔を出したのは、ユワンが見ていた場所よりもずいぶん岸に近い所だった。チェンチーを抱えているせいで、リンは水の流れに何度かバランスを崩した。それでもなんとか足の届く場所まで泳ぎ切る。川から上がると突然浮力を失って、からだの重さに倒れ込んだ。濡れた鈴が鈍い音色を響かせた。
「チェンチー……チェンチー?」
荒い息を肩で繰り返しながら、リンはチェンチーのほほを叩いた。倒れ込んだときに打った膝から血が出ても、息苦しくて咳き込んでも、目を閉じたままのチェンチーの名前を呼び続けた。
リンはさらにチェンチーを呼ぼうとして再び咳き込んだ。その背を、ユワンがさすった。
「どうせダメなら、川に返すよ」
「……な、に?」
聞き返したリンに、ユワンはまったく同じことを、ゆっくり口にした。リンはユワンを凝視した。
ユワンはリンが理解したことを知って、チェンチーを抱き上げる。
「諦めなよ」
『やめて!』
咄嗟のリンの言葉は、ユワンやヨウシュにはわからないものだった。
リンの国の言葉だ。
『なに平気ですって顔してるの!? チェンチーだよ!? 弟なのに! 返してよ!!』
知らぬ言葉に怯んだユワンから、リンは力ずくでチェンチーを取り返す。
「わたし一度、全部なくした。なにかなくす、もう、嫌。ぜったい、しない! チェンチーもなくさない! 諦めるもしない!」
顔を仰向かせると鼻をつまみ、口から息を吹き込んだ。何度か繰り返すと、チェンチーは込み上がってきたものに咳き込んで、大量に飲んでいた水を吐き出した。弱々しく目を開けて、なにかを探すように手を伸ばす。覗き込んだリンと目が合うと、リンの首に抱き着いた。
「リン、リン……?」
「な、に? 苦しいとこ、ある?」
「おけ、ながれちゃった。母さんにおこられちゃう」
おずおずと首をすくめるチェンチーを、リンも抱きしめた。
「わたしも、一緒に謝る、する。母さん怒らない、きっと」
そうかなあ、と疑い気味のチェンチーにリンは笑う。リンが笑うと、それまで遠巻きに見ていたヨウシュが駆けてきて、リンの背中から抱き着いた。
「また、いなくなっちゃうかと思った。そうだよね、もうなんにもなくしたくないよね」
「ま、た?」
なにがまたなのか。聞き返すリンに、答えたのはユワンだった。
「リュイだよ」
ほかに誰がいるんだよ、そんな口調で川を見る。
「リュイ?」
「姉さんには関係ないけどね」
「関係、ない?」
「そうだよ」
ユワンは冷めた目でリンを見つめて、それから、川下を眺めた。以前沈んでしまったものが今のリンやチェンチーのように浮かんでくるのを探すように、眺める。
「関係ないよ。リュイは、もう戻ってこないんだから」
川面を眺めたまま、ユワンはは静かに涙を流した。
リンが想像もしていなかったユワンの姿だった。
ユワンはそのまま、声を殺して泣く。泣くことで口を閉ざす。
チェンチーもヨウシュも、ユワンに倣うように口を噤んだ。リンが眼差しで問いかけても、知らぬ振りをする。
リュイが誰なのか、リンにはわからない。
「リュイも今みたいに、始めから、諦めるして、助ける、しなかった、の?」
リンはチェンチーをヨウシュに預け、ユワンの前に立った。
「それで、後悔するして、泣くのに、どうして同じことするを、しようとしたの!?」
納得がいかなかった。チェンチーを見捨てようとしてことへの怒りだけがあった。胸倉でも掴みあげてやろうかと伸ばした手から、ユワンは飛び退くように逃げた。リンの指先から滴った水滴に、吐き気でもするように口元を押さえた。
「恐いんだ」
「……え?」
「あのとき、リュイと一緒に流されたんだ。それから水が恐いんだ。ほんとは、川に近付くのだって嫌なんだ」
声が震えるのを我慢するように、顔を覆った。
「ここじゃ誰も、姉さんみたいに泳げない。贄になるしかない。なのに、あのとき、おれだけが助かった。駄目なんだよ、おれじゃ、誰も助けられない」
駄目なんだよ、とまた呟いてユワンは泣く。
リンは濡れたままの手を、今度は驚かさないように伸ばして、ユワンの頭を撫でた。
「……触るな、よ」
低い声。でも、怒っているわけじゃない。とりあえず言ってみただけだ。リンの手を払いのける様子もない。
「さわる、してない」
「嘘……」
「嘘も、ない」
リンはチェンチーを招く。顔を見合わせたヨウシュの、行けば? という仕種に、チェンチーはちょこちょことやってきた。
「……チェンチーを助けたのも、おれじゃない」
「ユワン……。ユワンは、わたし助ける、してくれた。だからわたし、チェンチー助ける、できた。わたしも、できることしかできない。わたしはわたし、助ける、できない。そのとき、ユワン、わたし助ける、してくれた。これからも、ユワン、わたし助ける、してくれる」
「……変な期待、しないでよ」
「期待、たくさんする。するのタダ。期待して、望むこと、かなったら、良かった、思う。その良かったは、心に優しい。だから、たくさんする」
チェンチーが二人の間でキョロキョロしている。リンは、チェンチーをユワンの前に押し出した。
「チェンチー、無事で良かった、思うよね?」
ユワンは顔を上げて、チェンチーの姿に、我に返ったように瞬きした。
「怪我とか、してないか?」
「うん、へーき」
「そ、っか」
ユワンはずぶ濡れのままのチェンチーの頭に、恐る恐る触った。
「そうだね……」
リンに向かって言うと、視線を川面に移して、チェンチーに戻して、のどにつまっていたものを吐き出すように、細く吐息した。
「よかった……」
ユワンはチェンチーを抱きしめた。
やっと畑に戻って来たと思ったら、子供たちはずぶ濡れだった。シュンリは腰に手を当てた。
「なにやってたんだい、いったいっ」
その肩を、まあまあ、と父が叩く。
「チェンチーが今年の贄になるところを、姉さんが助けたんだよ」
両親はほんの少しだけ驚いた様子を見せた後、そうかい、と息子によく似たあっさりした態度を見せた。
「おまえ、泳げたんだねえ」
珍しくシュンリに感心されたりして、
「よく頑張ったね」
父にも手放しでほめられて、リンは、たいしたことじゃない、と控え目に手を振った。
「海、川の流れより荒れてる日、あった。でも、遊んでた、平気。助ける仕方も、学校で習った。選手で、練習も毎日してた。だから髪、痛んで色抜けて、茶色で……あの……」
みんながじーっと見てくる。リンは視線に押されて、一歩退がって石につまずいて転びそうになったところをユワンに支えられた。ほっと安心したところにヨウシュが飛び付いてきて、ユワンも巻き込んで三人で畑に倒れ込んだ。倒れ込んだまま、
「リン姉、海の傍に居たんだね!? 水泳の選手で、ほかは? あとはなに思い出してんの?」
リンはきょとんと瞬きする。
「早口、わからない」
「海だろ? 学校だろ? ほかに思い出したことないか聞いてんのっっ」
「こらこら。せかせるんじゃない」
父が猫の子でも持つように、ヨウシュの襟首をひょいとつかみ上げた。三人はもつれるように倒れていて、リンは丁寧に立たせてやる。ユワンは自力で立ち上がった。
「リン、ほかに思い出してることはないのかい?」
父はいつでも優しい。
「思い、出す?」
リンは首を傾げる。
「思い出す、ない」
「だってリン姉、海って言った! オレ、海見たことない。すげー。遠くから来たんだ」
リンはさらに首を曲げた。
「……海?」
リンは難しく眉を寄せた。そう、海、だ。でもなんだかよくわからない。頭の中には、記憶をなくす前の記憶がたくさん言葉でつまっている。海といわれればそれがなにかきちんとわかるし、見たこともある気はする。でも、どこの海だとか、周りの風景とか、海に限らず、思い出そうと思って思い出せることはなかった。
リンは人差指を眉間に押しつけて、うみうみうみ、と呟きながら唸る。唸っていると、酸欠を起こしたみたいにだんだん頭が痛くなってきた。
「やっぱり、思い出す、ない」
ごめんなさい、と家族を見回す。それから、自分でぽんと手を打った。
「みんな、心配ない。わたしきっと、思い出す、する。そのうち。大丈夫大丈夫」
自分で言うリンに、そうかそうかと穏やかに頷いたのは父だけで、母と兄弟は呆れて顔を見合わせた。けれどそのすぐ後には、どこかなにかに安心したような顔をした。
ユワンひとりがほんの少し、眉をひそめた。
◇
いつもならとっくに寝息を立てているはずのチェンチーは、今日はなかなか寝つけないようだった。何度目かの寝返りの勢いで、狭いベットの隣に眠るリンを蹴飛ばす。
「チェンチー、眠る、しないの?」
「目をとじて、くらいのが川の中とおんなじで、おぼれたの思い出して、こわい」
チェンチーは本当はとても眠いんだ、と目をこすって、リンの腕を掴んだ。
「リンはこわくない? うみは川より大きいってヨウシュがいった。およげたら、こわくない?」
「わたし、泳ぐの恐い、思ったことない……多分」
「ぼく、こわい」
「じゃあ、海、恐くないの話、する。海には、かわいい人魚のお姫様、いる。アンデルセンが、お話、書いた」
知ってる? と聞くと、チェンチーは聞き慣れない響きに首を振った。
「ニン、ギョ?」
「頭と手が人間。足が魚の、お姫さま」
「さかなのおひめさま?」
リンの具体的な表現になにか恐い想像をして、チェンチーは気持ち悪げな顔をした。
「さかなのニンギョは、卵からうまれるの?」
「人魚生まれる、人の、夢。だから奇麗、想像する」
話し始めた話を、意外によく思い出せていることにリンは我ながら感心した。話はすらすらと出てくる。もちろん、話し方は相変わらずたどたどしかったけれど。チェンチーは静かに聞いていた。
チェンチーは恐かったのも忘れたように、話の途中で眠ってしまった。
リンは窓から微かに差し込んでくる街灯の明かりを頼りに、ベットから起き上がった。ベットといっても、板を組み立ててその形になっているという程度のものだ。二人に一枚でもあるだけありがたいシーツを、チェンチーに掛け直す。
ベットの下はすぐ土間になっている。くつをつっかけた。垂らした布で仕切ってあるだけの隣の台所には、唯一電気が通っている。これがなかなかつかない。
「まだコツ覚えてないの?」
横から伸びてきた手が、簡単に明かりを点けた。ヨウシュだった。
「起きてた、の? 起きちゃった、の?」
ヨウシュは答えず、薄暗い明かりの下で瓶の水をひしゃくから直接口につける。飲み終わると水を汲み直し、はいどーぞ、とリンに渡した。
「あり、がとう。わたしも水、飲みたかった」
リンは椅子にかける。ヨウシュも座ると、リンが飲み終わるのを待って話しかけた。
「今の話、どうなるの? お姫様は、王子様を殺すの?」
「聞いてた、の?」
「……聞こえただけ」
空になったひしゃくをリンから取り上げる。瓶のふたの上へ放った。
「王子様、殺さない」
「じゃあ、海の泡、とかいうのにになっちゃったんだ」
そっか、とテーブルに突っ伏す。顔だけ、リンに向けた。
「リン姉のその椅子さあ、リュイ姉のだったんだ」
リンはふと、眼差しを上げた。ヨウシュはちょんと肩をすくめる。
「兄さんの双子の妹。二年前の贄で、川に連れていかれた」
「……贄」
リンは眼差しをひそめた。村の人はみんな、当たり前のようにこの言葉を使うのだろうか。
「贄、おかしい。雨降ることに、本当に贄、必要、思えない」
「そんなこと、みんなわかってるよ。真剣に思ってるなら、贄が出るの待ってたりしない」
他人ごとのようにヨウシュはあっさり言う。
「じゃあリュイ、贄、言う意味ない。雨、二年前より、もっと前から降ってない、父さん、言ってた」
「二年前はさ、リュイ姉助けようとした兄さんも一緒に流されて、なのに兄さん帰ってきたんだ。兄さんだけ、運良く岸に押し返されたんだって。兄さんが戻ってきたから神様が怒って雨、降らせてくれなかったんだよ」
「それも、おかしい」
「わかってるよ。みんな、わかってる。でもさ、そんなふうにでも思わないと、やってられないんだよ」
ヨウシュは思い出すように眼差しを落とした。
「そんなふうに、兄さん、しばらくの間みんなに責められたんだ。そんなこともあったし、オレさ、兄さんはやっぱり帰ってくるべきじゃなかったのかもしれない、て思ったりした」
「……どうして……? 贄、帰ってこない。悲しい」
「そうだけど、贄でいなくなるのは悲しいけど」
だってさ、とヨウシュは足をぶらぶらさせた。
「兄さん、リュイ姉思い出してあんなふうに泣くから、そんなに、好きだったんだから、一人だけ帰ってきちゃったのは、辛いよね」
「……好き?」
「そう」
なんでもないことのように返ってきた返事に、リンはかろうじて瞬きだけをした。
「………え?」