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「これ、は?」
 抜いたばかりの草を見せると、十歳のヨウシュは、とんでもない! と大きく首を横に振った。一緒になって、後ろでくくっている髪が揺れる。
「もっと葉っぱの裏に黒いブツブツがついてるやつだよ。それはさ……」
 言い出したのをさえぎって、丘の向こう側からチェンチーの声がした。
「リン、リーン! いいものみつけたー!」
 なにかを握り締めた手を振り回しながら駆けてくる。その勢いのままリンの胸に飛び込んだ。
 もうすぐ五歳になるチェンチーのタックルにリンは尻もちを着く。腰紐にぶら下げてある鈴がチリチリンと鳴る。弾みで、髪を結んでいた紐が切れた。三つ編みにしておいた茶色の髪が、ほどけて肩の上に広がった。
「なにやってんだよ、おまえは」
 チェンチーの後からやってきた十四歳で年長のユワンが呆れて息を吐き出した。ユワンの髪が一番長い。リンに合わせてかがむと、その髪がうっとうしそうに首を回した。
「姉さん、大丈夫?」
 ユワンのからだつきはリンに負けずずいぶん華奢だったけれど、軽々とリンの手を引く。
「あり、がとう」
 リンとユワン、二人並ぶとリンのほうが少し大きい。いいよどうせすぐに追い越すから、というのは近頃のユワンの口癖だった。
 ユワンはリンの汚れた上着を払ってやる。このあたりの民族の女がよく着る形のものだ。
「こんなに汚れて、また母さんに叱られ……」
 言いかけて、ぎょっとして手を止めた。
「姉さん、それ食べたら死ぬ、けど」
 リンが手にしたままの葉の大きな草を指差した。急いで小川へ連れて行く。
「ほら、良く洗って、毒性強いんだから最悪、真っ赤にただれるよ」
 リンはきょとんと小首を傾げる。
「なに? 早口、わからない」
「……世話、やかせてくれるよね」
 リンの手を掴むとユワンは水の中に突っ込んだ。
「洗う、の! 手、早、く! 素、早、く!」
 毒のためうっすらと赤くなっていた手の平は、かじかむまで水に浸け続けてやっと元の色を取り戻した。リンは自分の手を眺める。
「……冷、たい」
「良かったね、正常な証拠だよ」
 適当に答えてユワンはため息すると、よかったよかったとチェンチーと一緒になってリンの手を覗き込んでいるヨウシュの脇腹を蹴飛ばした。ぐえ、と呻いてヨウシュは兄を見上げる。
「なんだよ!」
「なんだよじゃない。ちゃんと姉さん見とけよって言っといただろ」
「兄さんこそリン姉オレに押しつけて、じゃあおれはチェンチー見てるから、とか勝手に決めて、もともと母さんにリン姉頼まれてたの兄さんじゃんか。オレ、あの草は駄目だって言おーとしたんだ。リン姉まだヒアリング苦手だからゆっくりじっくりっ。そしたらチェンチーがタックルかましたんだろ。兄さんがちゃんとチェンチー見てないからだろ。この場合オレ? 悪いのってオレ?」
 いささか弟が優勢だった。
 のほほーんとリンが口を挟む。
「ユワンもヨウシュも、喧嘩、良くない」
 リンはまだ早口は聞き取れない。全然さっぱり聞き取れない。なにを言い争っているかもわかっていない。ユワンとヨウシュは顔を見合わせると、疲れたように肩を落とした。そこに、
「リンの花!」
 バンザイのポーズをしたチェンチーが突然叫んだ。
「すずらん!」
 チェンチーはずっと持っていたそれをリンに差し出す。小さな白い花がいくつも穂状に付いていて、揺らすと鈴の音が聞こえてきそうだった。
「すず……」
 リンはいつもぶら下げている鈴を無意識に握り締めた。小さな十五個の銀色の鈴が、ぶどう状に繋げてある。
 ……ひと月ほど前だ。
 村の入り口に倒れていたリンを、ユワンとヨウシュが見つけた。領主交代のために起こった暴動が治まった翌日のことだった。
 目を覚ましたリンはそれまでの記憶を失っていた。身に付けていたのは洋服と鈴以外なにもなくて、言葉を聞き取ることも話すこともろくにできないことからわかったのは、せいぜい、この国の人間ではない、ということくらいだった。
「すずらん、鈴の花。リンの花だから、リンにあげる」
 かわいらしい花を受け取ったリンは、じっと花を見つめる。
「なに? リン姉、なんか思い出しそう?」
 覗き込んだヨウシュに、リンは首を横に振る。すると兄弟たちは決まって、ほっとしたような顔をした。
「すずらん、かわいいね、リン」
「うん。かわい、い」
 にこりと笑ったリンに、チェンチーが抱きついた。びっくりするリンに、続いてヨウシュも抱きつく。なんだかわからないけれど、ユワンもくると思い、リンは身構えた。けれどユワンは、興味なさそうに横を向く。
「日が暮れるぞ」
 二人の襟首を掴んでリンから引きはがし、本来の作業に戻るように命じる。なにもかもにうんざりしたような顔をしていた。
「腹、すかせたくないだろ」
 なにかを我慢しているような低い声に、リンは首を傾げる。
 リンはユワンを見るけれど、ユワンはリンを見ない。リンはユワンの目の前に回り込む。回り込まれたユワンはそっぽを向くので、リンはまた回り込む。何度か繰り返していると、なに遊んでんだよ、と弟二人から苦情が出た。リンとユワンはすごすごと作業に戻る。
 リンのほどけたままの髪を見かねて、ユワンは自分の髪を束ねていた紐を差し出した。ユワンは、背中の中程まである自分の髪を、首もとで、髪だけくるりと結んだ。柔らかくて細い黒髪は、弾力でほどけるようなことはない。
 土地の男はみんな髪が長い。女はもっと長い。リンの髪だけが、中途半端に短かった。


 山積みになった篭を、ヨウシュとチェンチーがよたよたしながら持って歩く。
 二つ丘を越えて戻って来た村の入り口でリンが立ち止まると、ユワンも一休みをかねて、一人で抱えていた篭を下ろした。
「ここだよ、姉さんが倒れてたの」
「……そ、う」
 リンは今来た道を振り返って、それから村を見渡した。
 いつでも白い砂ぼこりの風の吹いている村には、暴動で壊された家がまだ目立った。壁が崩れていたり、屋根が欠けていたりする。夏前に雨期が来る。それまでに直す予定ではいるけれど、作業はなかなか進んでいない。
 季節はすっかり春で、夜の寒さがこたえなくなったせいもある。領主の新しい屋敷を作るために、男手が借り出されているせいもある。
 もっとも、家は壊れていようがいまいが、たいして変わりはなかった。乾いた白い日干しレンガを地面に並べて壁と天井を作っているだけで、そのレンガも、風が吹けばさらさらと風化してしまいそうなものでしかない。
「運が悪かったよね」
 ユワンはどうでもいいように言った。
「行き倒れたのが、こんな貧乏な村でさ」
 特にリンを哀れんでいるわけでも、まして力付けようとしているわけでもない。思ったことをそのまま言う。
「運は、悪くない、思う」
 それまで言葉に甘えて手ぶらで歩いていたリンは、ユワンの下ろした篭の片方を持ち上げた。傾いた篭を、ユワンも持つ。
「言葉は、全部、わからないじゃなかった。置いてくれる、みんなも、いる」
「姉さんがそう思ってるなら、別にいいけどね」
 リンの歩調に合わせて歩きながら、ユワンは路地に転がっている鉄の塊を一瞥する。
「暴動でバイクも車も壊されちゃって、街との連絡手段ないからさ。今度の領主が政権の立直ししてくれるまで、一年でも二年でも姉さん、ここに足止めだよ」
 ここがどうしても嫌なら、十日も歩けば隣の村で、さらに七日行った村から十四日も行けば大きな街に出るけどね、と付け加える。それだけの日数を旅するための食料や費用を、この村では用意できない。
 リンはまじめな顔でこっくりと頷いた。
「わかった、ここにいる」
「……ほんとに、わかってんの?」
 ユワンは疑わしそうな目をする。それから人事みたいに言った。
「電気は通してるんだから、さっさと電話も通せばいいのに」
「電話……」
 なるほどそんな手もあったか、とぶつぶつ言うリンから、ユワンはふいと目をそらした。
 そらしたから、
「ユワン? どうか、した?」
「別に」
「そう?」
 リンは簡単に返事する。遅いぞ! と道の先から手を振るヨウシュたちに手を振り返す。
 ユワンは、弟たちに笑い返しているリンの横顔を見つめる。視線を感じてリンが見向く。
「なに?」
「……別に」
 気紛れな猫みたいだな、と思いながらリンは首を傾げた。
「あ、そう」

      ◇

 村の朝は早い。
 リンが目を覚ますと、母のシュンリはすでに出かけようとしていた。
「水場? 行く、わたしも」
 慌てて起きてきたリンの髪はぼさぼさで、シュンリは眉根を寄せた。
「女の子が顔も洗わないで家を出るなんてね」
「今から行く、水場。顔、洗える」
 シュンリはいつでも怒っているように見えるけれど、実はそう見えるだけなので、リンは気にせずにえへへと笑い返す。
 洗濯やらなにやらで女たちの集う朝の水場には、男たちは近付かない。畑や狩りに出ている男たちがここに集まってくるのは夕方だ。
「おいでリン、まずその髪をなんとかしないとね」
 少女たちには流行りの結い方がある。自分のこだわりの髪型を持っていたりするものだけれど、リンは放っておけば、くしを通しただけで結ぶこともしない。
「自分で結えないなんて。いつもは誰に結ってもらってたんだい? 記憶をなくす前は、どこかのお姫樣だったのかい?」
 ぼそぼそと抑揚のない口調を、一緒に水場にいた女たちが聞きとがめた。
「あんまりきついこと言うもんじゃないよ、シュンリ」
 ヤン爺のところの息子の嫁に、いいから見てみなよ、とシュンリはあごをしゃくってリンを示した。
「別に、あの子の気には触ってないようだよ」
 髪を結ってもらったリンは、顔を洗おうとして乗り出した水場に落ちかけたところを、他の女に間一髪のところで助けられていた。シュンリはやれやれと肩で息をして洗濯を始める。
「落ち着きのない子だねえ」
「元気でいいじゃないか。リュイそっくりの、いい子だよ」
 言われてシュンリはもう一度リンを見た。助けてくれた女に、気をつけなさい、と注意されているようだけれど、リンにこりた様子は見られない。
「そうだね、いつもなにが楽しいのか笑ってるところは、あの子と同じだね」
 本当はずっと思っていたことを、あらためて口にした様子だった。


 妙な沈黙に、リンはキョロキョロと家族を見回した。体重をかけたら簡単に壊れてしまいそうなテーブルを囲んだ一同は、小さな裸の電球に照らされた自分の皿の中身をじっとり眺めている。すっかり陽が沈んで外は暗いが、家の中も嫌な感じに暗い。
 リンは上目で、うかがうように尋ねた。
「今日も、おいしく、な、い?」
「そんなことない、おいしいよ、なあ」
 慌てて答えたのは近頃ほほがたるんできた父だけで、同意するものはいなかった。
 丘で取ってきた草の鱗茎からは、潰して水にさらすと澱粉質がもち状になって取れた。それを蒸したいもと混ぜて作った団子の汁が一品。それが夕食のメニューだった。
 ここ数年不作が続いている。一品でもあればありがたい昨今、品数に文句を言うものはいない。でも、
「まずいよ」
 味にくらい文句を言いたい。ユワンは表情も変えずに言い放つ。もともとたいしておいしいものではない。それがさらにおいしくないのだ。
「いいから、さっさとお食べ」
 母の一喝でみんな渋々食べ出す。その中でリンだけがおいしそうに食べている。味覚が違う、ということにリンは気付いていない。
「次は、みんな、おいしいように、頑張る」
 やる気満々のリンに、頼むから作るな、と言えるものはいない。
「姉さんがここの味覚えるのと、おれたちが姉さんの味に慣れるのと、どっちが早いんだろうね」
 ユワンが、相変わらず思ったことをそのまま口にするだけだった。

      ◇

 食料調達に姉弟が丘へ出向くのは三日に一度で、それ以外の日は畑に出ている。
 水場での仕事を終えるとリンはシュンリと一緒に、作ったばかりのお茶をやかんごと抱えて畑へ向かう。畑ではちょうど、燃やした枯れ草の中でいもが焼き上がる。それが朝食と昼食を兼ねた食事になった。
 畑といっても、渇いた荒れ地にしか見えない。水捌けがよく栄養の少ない土には、小さな干からびたいもしか育たない。毎年、雨期の豪雨で山から栄養のある土が流れてくることになっている。ところが数年前から雨の勢いは弱まって、土が入れ替わらず不作が始まった。
 土地は渇いている。だから、畑仕事といってもその時間のほとんどを川で汲んできた水を撒く作業に使った。山の上のほうではそれなりに降水量があるらしく、村の脇を流れる川には、いつでも豊富な水があった。
 ユワンは二つのおけを竿で担ぐ。リンとヨウシュとチェンチーは、一つづつおけを持って後に続いた。リンは川から畑までを目測してみる。
「水路引く、とか、しない、の?」
 一日に何度も往復するのは重労働だ。
 ヨウシュとチェンチーは、なにそれ? という顔をする。ユワンは水を汲んだおけを竿に引っかけると、少し濡れてしまったのが気持ち悪そうにつま先を振った。
「もうすぐ雨期が来るから、そんなの必要ないよ」
「でも、何年も、雨、ない。父さん言ってた。今年もなかったら?」
「どっちにしたって、そんなものここには造れないよ。水路自体が水吸って終わりか、造っても雨が降れば流される。意味ないよ」
 ユワンは淡々と喋りながら、さっさと水辺から離れる。
「そんなこと考えてないで、一回でも多く往復したほうがいいよ」
 竿を担いだとき、チェンチーのおけが水に取られそうになっているのに気が付いた。流れは速すぎるほどではないけれど、栄養の足りないチェンチーの体は軽くて、流れに勝てそうには見えない。
「おい、チェンチー。そこから先は急に深く……っ。チェンチー!」
 一瞬のことだった。チェンチーは流れに足を取られて、一気に頭まで沈んだ。
「チェンチー!?」
 リンは自分のおけを放り投げた。チェンチーを追おうとしたのに立ち止まったのは、ユワンに腕を掴まれたからだった。チェンチーは数メートル流されたところで、やっと顔を出した。
 おれが行くよ、とか、泳げるから自力で帰ってくるよ、とか、リンはそんな言葉を期待していた。ユワンもヨウシュもやけに落ち着いていたから、そんな言葉が当然返ってくると思った。
 けれど、ユワンはしばらくチェンチーを眺めた後、おけを担ぎ直すと、行くよ、と言う。
「どこ、へ?」
「畑だよ、水、撒かなくちゃ」
 促されてヨウシュも立ち上がる。今度はリンがユワンの腕を掴んだ。
「助け、呼、ぶ?」
「助け?」
 ユワンは、流されていくチェンチーを感情なく見送る。
「今年の贄はチェンチーだったんだ。それだけだよ。これで今年は雨が降る」
 リンは恐る恐るチェンチーに目を向ける。苦しそうに手足をばた付かせてもがいている姿が、少しづつ遠ざかる。
「……に、え?」
「神聖な川で、膝から上を濡らしちゃいけないことになってる。濡らしたものは贄になる」
「それで、諦める、言うの……?」
「ここじゃ誰も泳がないし、泳げないんだ」
 大きな川は村ではここだけだ。丘向こうの小川は、泳ぐほど広くない。いいから行くよ、とユワンに乱暴に腕を引っ張られて、リンはその腕を振りほどいた。
 大きく息を吸い込むと、川に飛び込んだ。




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